変化を受け入れ、かつ不変である事
映画『マディソン郡の橋』で、子供たちが独り立ちしていく母親が「寂しい」と口にした時に、それを聞いた壮年(クリント・イーストウッド)がこう言う。
「変化を受け入れると、楽になりますよ。世界の全ては変わっていく物だ、って」
自分自身の老い(肉体の劣化)や、自分の家族の変化、そして住んでいる世界の移り変わりまで、それまで当然のように存在していた物が変わっていく事は誰しも不安である。でも変化こそが当然と割り切れば気持ちは楽になるのは確かだ。
勿論、見方によっては「それは諦め」という人もいるだろうし、そこで足掻く人を否定もしないけど、それによって心身を病んでしまっては、それこそ本末転倒なのではなかろうか…。などと自分は思ったりもする。
まぁ、結局はバランスであって、それは各々自らが判断すべき問題だ。
門外漢ゆえ申し訳ない事に名前は失念してしまったが、ある老境の落語家さんのインタビューを見た時に、自分は何かを悟れた気がした。
「落語界の現状をどう思いますか?」
などと訊くインタビュアーは、きっと批判や苦言を引き出したかったんだと思う。しかしその方は微笑んだまま答える。
「落語なんて文化は生まれたのが江戸時代。そこから今に至るまで何だかんだ言ってずっと変化してきました。私がやってたのはその何分の一か。その間だって変化して当たり前です。
その数百年間だって人類の歴史から見ればほんのわずか。いつか落語という文化も消えて無くなるでしょう。でもそれでいいのです。一万年前に落語は存在してなかったし、一万年後にもきっと存在してません。
でも私はね、「あんたの噺が好きだよ」って人が一人でもいるなら、死ぬその瞬間まで高座に上がり続けて、自分のやり方で落語をやるでしょう」
冒頭のイーストウッドのセリフも、頭で理解はしていても心で理解してなかった部分があったが、この時に一緒に降りてきたような気がした。
「変化を受け入れれば気持ちが楽になる」事は確かだ。それと同時に変化を恐れる者とは、変化に流される者なんだなと言う事も理解した。確固たる「自分」という不変性が確立されれば、世界の変化に一喜一憂する必要がなくなるのだなと。
その境地は決して「諦め」ではないと自分などは思うし、そんな人間を目指したいとも思う。
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