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「ホッケ定食で」


「はい。お待ちください」



 短いやり取りで、女性スタッフが厨房の方へ消えた。

 手持無沙汰となった俺は、店内を眺めて暇を癒すことにした。



「……、」



 元は何かのオフィスだったのだろうか? お仕事の香りは居酒屋感に上塗りされて希薄だが、「他所から持ってきて設置しました」みたいな小上がりの畳席には何とも言えないちぐはぐ・・・・感がある。


 過剰に撒き散らされた居酒屋っぽいアイテム(赤達磨とか金言を載せた暖簾とか酒瓶のコレクションとか)は涙ぐましい努力の類か、或いは店主の性癖か。ただ客には愛されているようで、よく染み込んだ活気の気配はまさしく居酒屋のそれだ。


 和酒の揃えもちょうどよく我が強い。俺にはそこまでの心得はないが、見知った銘柄だけでも舌が湿るようなラインナップだ。


 ……つまみにバクライがあるな。神奈川でこの文字を見る日が来るとは思わなかった。



「……、……」



 残る暇はスマホで潰した。

 やがて届いたみそ汁の湯気に、俺は卓上から視線を持ち上げた。



「お待たせしました」



 どうもの一言の代わりに会釈を。

 配膳がしやすいようにお冷をどけると、机を一区画覆い隠すような立派なお盆が載せられた。


 その上には、焼き立てに脂を沸かせるホッケと白米と、カツオが香るみそ汁と、幾種類かのお新香がある。

 元来はここにさらにいくつか小皿が乗るらしいのだが、それらは俺の腹の具合で断らせて頂いた。


 ホッケを選択したのも、味の濃い食事に指が進まなかったためだ。

 さて、胃の炉に火を入れるつもりで、俺は初めにみそ汁を啜った。


 ……香るカツオの奥に、微かな煮干し。

 華やかな風味と苦渋い旨味を繋ぐのは、微かに酸味がかった味噌である。小さく切られた豆腐が、汁に紛れて口に流れ込む。


 舌が濡れてくるのを感じて、次は白米に箸を伸ばす。摘み取った一口分は、炊き立てということはないだろうが旺盛に湯気を吐いている。


 頂くと、まずは熱気。その奥に甘みを探し、俺は数度米を咬む。十分に噛んで飲み込んだら、熱くなった口中を覚ますつもりでお新香を一枚かじる。


 然る後、お冷を一口。

 指先を紙の濡れ布巾で拭ってから、ホッケの端を指で押さえて、腹骨を箸でつまみ上げる。骨はするすると剥がれていって、剥離する度に脂の湯気をあげる。骨を端に除けて、一口分の肉を箸で摘み取る。


 思えばホッケを食べるのは久しぶりだった。魚には案外それぞれで違う匂いがあるモノで、焼いたホッケの匂いというモノを俺は久しぶりに思い出した。


 頂くと、舌の根に残ったホッケの脂が米を呼ぶ。茶碗から一口分を箸でつまんで食って、みそ汁を啜る。


 それを続けていくうちに、俺の昼飯は魔法みたいに目の前から消失した。






 §






 店先に灰皿を置いてくれる店というのが、今日日じゃ数少ない。

 そういや、地元に帰った時にはタバコを吸う場所に困った記憶はない。こういう文化の更新の面でも地方は都会と時差があるということか。


 タバコとは、胃に蓋をするための儀式である。

 消化のために腹に血が巡っているときに吸うタバコには、厳密に言えば味はない。


 さて休日の学生街の、歩いて行ける郊外は往来が途絶えて等しい。

 腹が膨れた分からっぽの頭には心地よい静寂感である。俺は家でひと眠りするべく、最後のひと吸いを終えてのちタバコの火を消し、帰路を辿り始めた。



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