第8話 独善の魔王

「す……凄い」

 俺のすぐ横から、マヤのかすれた声が聞こえた。

 デニソン中将をはじめとする騎士団の面々も、みな呆然としている。


 たった一人の男が、超絶の魔法を駆使して一万の魔王軍をほふったのだ。

 魔王軍壊滅の情報は、すぐさま各矢倉から下で待機している騎士たちへも伝えられ、土塁の内側は大歓声に包まれた。


 やがて彼らの中からざわめきが起こってきた。


「もしや、あのお方は……勇者様なのでは?」

「いや、間違いない。

 あの桁違いの魔力を見たか?

 勇者以外にあんなことが出来ようか!」

「おお、ついにわが王国にも勇者様が降臨されたのだ!」


 そこかしこから湧きあがる〝勇者〟という言葉は、矢倉の楼上にも届いていた。

「本当に……勇者殿だったのか!」


 振り返った騎士団長の目には涙が浮かんでいた。

「われらはこの地で果てる覚悟であったが……どうやら命を長らえたようだ。

 感謝の言葉もない」


 片膝をつこうとした彼の肩を、俺は抑えた。

「待て。

 安心するのはまだ早そうだ。

 何かがいる!」


 俺はなお残る熱気で蜃気楼のように揺らいで見える荒野をじっと見つめた。

 魔法で強化された知覚は、その先に何かとてつもない魔力の存在を捉えていた。


「こんなところで済まない。

 マヤ、俺に力をくれ!」


 俺は彼女を抱き寄せると、その豊かな胸に顔を埋めた。

 マヤは顔を赤らめながらも、しっかりと俺の頭を抱きかかえ、優しげな表情で髪を撫でてくれた。


 最初の夜以来、俺は自分から彼女の肌に触れようとしたことがなかった。

 だが、俺がマヤの乳房、それも乳輪に異常に執着していることを知った彼女は、夜になると自分から添い寝をするようになった。


 そして俺の頭を抱き寄せ、自分の胸に押し当ててくれた。

 そうすると、俺が子どものように安心した表情で眠りに落ちるのだ――マヤはそう説明してくれた。


 俺にはその記憶がない。

 押しつけられた肌着越しの乳首と乳輪の感触で感極まってしまい、なぜだか涙が流れ、すぐに意識が飛んでしまうのだ。

 ただその際に、身体中に湧きあがる魔力の高まりだけは記憶していた。


 二、三日もすると、俺は確信するに至った。

 彼女の大乳輪こそは、俺の魔力の源泉なのだと。


 もちろん俺の魔力は、周囲の魔素を自動的に取り込むから、ほぼ無尽蔵だという説明は受けていたが、実際には大量の魔力を消費するとその補充には時間がかかった。

 だがマヤの胸に触れると、それとは比較にならないほど急激、かつ大量の魔力が蓄積されることを感じるのだ。


 今、新たな強敵の存在を察知した俺は、魔王軍を一掃する際に使い果たした魔力を、わずか一分ほどで全回復させた。

 大乳輪に隠された能力は驚くべきものだった。

 俺はこの騒ぎが収まったら、論文を書き上げて学会に発表する決意すらしていたのである。


「どうやら、これまでの相手とは桁が違うようだ。

 騎士団長、マヤのことを頼む。彼女を守ってやってくれ」


 俺はそう言ってマヤの身体を引き離し、デニソン中将の方へと押しやった。

 彼女は抵抗しようとしたが、中将がその肩を抑えてくれた。


「お願い、ショータ様。

 私のために無理をしないでください。

 私は魔王を倒すことより、あなたが無事に帰ってきてくれることを願っているのです」


 そう訴えるマヤに、俺は微笑みを返した。

 きっと俺の表情は、自分自身が見たこともないほどに優しいものだったろう。

「心配するな。

 君を一人にはしないさ」


 そして、視線をデニソン中将の方に移した。

「騎士団長、万が一にも彼女が傷ついたら、騎士団八千名の命はないものと思え。

 これは脅しや冗談ではないからな」


 俺はそう言い残し、矢倉の楼上からふわりと跳躍した。

 まずは数メートル下の土塁の上に降り立つ。

 さらに十メートル近い高低差の地面へと降り立ったかと思うと、俺の姿はその瞬間に消えた。


 数キロを超加速して移動したのだ。

 灼け焦げた荒野のほぼ中央に、俺の姿が再び現れ、見守っていた騎士団から感嘆の声があがる。


 俺の目の前には、灰色のフードつきマントとを身にまとった小柄な人物が立っていた。

「お前が〝独善の魔王〟か?」


 俺の問いかけを無視して、マントの人物は周囲を見回している。

 やがてこちらを向いた奴は、屈辱に震えた声を発した。


「貴様のことは監視していたというのに……まさかここまでやってくれるとはな。

 慌てて飛んできたが、間に合わなかった。

 許せ……お前部下たちよ」


 その声は、男ではなく明らかに女のものだった。


「なんだ、魔王というのは女だったのか。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。女だろうがオカマだろうが、ブチ殺すことには変わりない」


 俺のつぶやきに、ようやく女は反応を示した。

「ブチ殺すだと?

 この私、独善の魔王ミーシャ・クライゼルをか!」


 何の前兆もなく、いきなり天から光の矢が無数に降り注いだ。

 俺の周囲には半球状のバリアが自動展開して、それらの攻撃をすべて防いだが、防御が破られるのではないかと危惧するほどの強烈な攻撃だった。


「おいおい、技を放つ前には魔法名を叫ぶのがお約束だぞ。

 行儀の悪い女だな。

 そんなにお仕置きしてほしいのか?」


「ふざけろ!」

 女は目深にかぶっていたフードを背中へ跳ね上げた。


 顕れたのは十四、五歳に見える美少女だったが、その顔は怒りに歪み、栗色のショートヘアは静電気でも帯びたように膨れ上がっている。

「髪の毛の先まで凍てついて眠れ――氷龍の嘆き!」


 いきなり彼女の周囲に水柱が立ち上り、それが龍の頭部となってぐねぐねと踊り狂う。

 そして、一斉にその背が七色に光ったかと思うと、大きく開けたあぎとから、青白い閃光がこちらに向けて吐き出された。


 俺の立っていた大地が一瞬で凍りつき、周囲の大気に含まれる水蒸気が固体化して、ダイヤモンドの粒のようになってばらばらと降ってくる。

 俺の身体を守るバリアが白く視界化している。

 凄まじい冷気だ。


「焼き尽くせ、炎龍!」

 俺が命じると、身体の周囲に唐突に出現した赤い炎が球状に駆け回り、次の瞬間暴発した。

 凍りついた世界が沸騰し、水蒸気爆発を起こす。


 あまりの温度差に局地的な竜巻を巻き起こし、白い煙が風に吹き飛ばされると、そこには俺とマント姿の魔王が何事もなかったかのように対峙している。


「ミーシャ・クライゼルと言ったか?

 俺は高山昇太だ。

 お前個人に恨みはないが、俺の大切な女を悲しませた罪は万死に値する。

 女だろうが子どもだろうが、俺は容赦はしないぞ!」


「子どもだと?

 ふん、笑わせるな。

 私はこれでもよわい百歳を超えている。

 魔族は貴様ら人間とは寿命が違う。もちろん、戦いの場数もだ!」


 彼女の周囲に拡がる荒野からぼこぼこと巨岩が浮き上がり、凄まじい勢いで飛んでくる。

 こちらも同じように大地から岩石を生成し、対抗してぶつけてやる。

 跳ね返る岩石はやがて集結して、体長十メートルを超す岩のゴーレムと化し、プロレスのような取っ組み合いを始めた。


 俺と魔王の力は互角に近かった。

 敵ながら大したものだという驚きはあったが、俺は負ける気がしなかった。

 この身体に蓄積しているマヤの魔力が、さっきから俺の身体の中で暴走していたからだ。


 そこには、両親を、弟を殺された凄まじい怒りと悲しみが渦巻き、決して魔王を許さないという意志がこもっていたのだ。


「お前がこの王国を侵略しようとして、情け容赦なく惨殺した人間の恨み……そろそろ味わってもらうぞ」

 突き出した俺の右手が、ぼこぼこと音を立てて膨れ上がる。

 過剰に集中した魔力の暴走を抑えきれないのだ。


「ふん、貴様は踏み潰したアリの家族の嘆きを思いやるとでも言うのか?」

 嘲笑う独善の魔王の言葉に、俺の何かがぷつんと切れた。


 深夜にふと目覚めた時、隣で眠っているマヤが泣いていることがあった。

 怖い夢を見ているのか、彼女は肩を震わせ、うわごとのように「お母さん、お母さん……」とつぶやいていた。

 ふいにその時の涙に濡れたマヤの表情が浮かんで、俺は魔力の暴走を一気に解き放った。


「体内魔力充填百二十%!

 ターゲット、ロックオン!

 総員、対閃光・対衝撃防御用意!

 収束魔導砲、発射!」


 叫んだ瞬間に、圧縮された魔力に耐え切れなくなった俺の手指が千切れて吹っ飛んだ。

 そしてなおも突き出され血まみれになった手首から、魔力の奔流が青白い光となって独善の魔王を貫いたのだ。


「ぐうっ!

 これは……っ?」

 ミーシャはとっさに展開した七重の防御魔法が、あっさりと抜かれていくのを感じていた。


 そんなはずはなかった。

 彼女の膨大な魔法力ならば、神が扱うという第七水準レベルの魔法をも防ぐはずなのだ。


「あ奴、第七水準レベルを超えたというのか?」


 凄まじい熱量が彼女の身体に向けて収束し、すでに防御結界は霧散していた。

 今、ミーシャの身を守っているのは、魔王の制服であるマントだけであった。


 それはみすぼらしい灰色のマントだが、彼らの上司である最凶の魔王から与えられた特殊な素材である。

 ある程度まで物理と魔法、両方の攻撃を無効化する魔法具なのだ。

 それが、たかが人間の放った一撃で、ぼろぼろになって崩壊していく。


 だが、マントは消滅しながらも敵の攻撃をとにかくも無効化してくれた。

 七重の防御結界で威力が減衰していたせいかもしれない。


 おかげで恐るべき攻撃が止んだ時、マントはただの糸くずと化して地面に散乱していたが、ミーシャの身体だけは無事だったのだ。


 ただ身体は無傷だったが、彼女が受けた心理的なダメージは大きかった。


 独善の魔王は絶対の信頼を置いていた防御魔法を撃ち抜かれ、呆然として立ち尽くしていた。

 そして、この凄まじい攻撃を放った俺の方もまた、脱力したように両膝をつき、呆けた顔で魔王を見つめていた。


「お、おおおおお、お前……」

 俺は再生した右手の人差し指をミ-シャの方に突きつけた。


「なっ、なんじゃあ~、そのけしからん胸はぁっ!!」

 魔法で増幅された俺の絶叫が空気をびりびりと震わせ、荒野に響き渡っていた。

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