第二部 高山昇太

第1話 トラック君は逃がさない

 俺の名は高山昇太。

 自分も周囲も〝たかやま・しょうた〟と呼んでいるが、戸籍上では〝たかやま・のぼった〟が本名となっている。


 まだ小学生の頃に、なぜ〝しょうた〟ではなく〝のぼった〟なのか、親父に聞いたことがある。


「高い山のような困難に遭っても、それを一歩ずつ登って乗り超えていく子になってほしい」

 そんな願いをこめた……と説明する親父に、俺は納得してそれなりに誇りにも思っていた。


 だが、俺が高校に入学する直前、酔っ払った親父が口を滑らせた。

 親父の青春時代、〝心のバイブル〟だった漫画があったらしい。

 旧海軍の戦艦を改造して波動砲を撃ったり、宇宙空間を蒸気機関車で走ったりする漫画で有名な人の作品だそうだ。

 その主人公が〝おおやま・のぼった(大山昇太)〟だったのだ。


 ちょうど反抗期だった俺はブチ切れ、高校に入ってからは〝しょうた〟で通すことにして、それ以来ずっと〝しょうた〟として生きてきたのだ。


 俺はあまり成績がよくなかったが、高校当時ウィンドウズ98が発売されたこともあり、パソコンに興味を持っていた。

 そして高校卒業後、デザイン専門学校のPC学科に入って、イラストレータやフォトショップを学んだりした。


 社会に出てからは、多くのデザイン事務所や印刷会社を渡り歩き、今は社長(営業)と奥さん(デザイナー)の二人だけという小さなデザイン事務所でオペレーターとして働いている。


 オペレーターというのは、奥さんから渡されたレイアウトに従って版下を作成する作業者のことだ。

 クリエイティブな職種とは真逆の、何の創造性もない単純労働者に近い。


 おまけにそこは凄まじいブラック会社で、期末の三月になると土日の休日出勤は当たり前、締め切り前には深夜二時、三時まで残業を強制されるのだった。


      *       *


 もう季節は晩春の五月、地獄のような繁忙期からは脱していた。

 おかげでその日は、珍しく夜七時過ぎには会社を出ることができた。


 アパートへの帰り道、コンビニに寄って弁当と九%の缶チューハイを二本買う。

 もう四十歳を過ぎたというのに結婚もできない俺は、アパートに帰って弁当を温め、酒をあおって眠るだけだった。


 いや、久しぶりに早く帰れたというのにそれではあまりに空しい。

 俺は気を取り直して馴染みのレンタルビデオ屋に足を向けた。

 そこは大手のチェーンではなく、いわゆるアダルト系のレンタル屋だった。


 自分好みの女優やジャンルは決まっているので、俺は真っすぐにその棚に向かった。

 お気に入りの女優の新作を二本、そしてしばらく見ていなかった好きな作品を一本選び、ほかに何かないかと見ていると、ぽんぽんと肩を叩かれた。


 振り返るとにやけた顔の奴が、いつの間にか隣に立っていた。

 奴は名前も知らないおっさんだが、よくこのレンタル屋で顔を合わせる。

 ある時、同じ作品を、そいつと同時に取ろうとしたことで、言葉を交わすようになっただけの仲だった。


「兄さん、今日は何を借りたの?

 ほお、倉○茜に白石茉○奈の新作かい。相変わらず巨乳好きだね~。

 おっ、北乃はる○とは懐かしいね! いい娘だったが一作で引退ってのは惜しかった。うんうん」


 何が「うんうん」だ。

 こいつは何も分かっていない。俺をただの巨乳好きだと思っている馬鹿だ。

 俺は適当におっさんをあしらってレジに向かった。


      *       *


 店を出るともう夜八時だった。

 小学五、六年生くらいの女の子の集団がきゃっきゃと笑いながら俺の脇を駆け抜けていく。

 塾の帰りだろうか、こんな時間だというのに小学生のうちから気の毒に……。


 〝とんっ!〟

 ぼんやりと小学生の列を眺めていた俺の身体に、軽い衝撃があった。


 振り返ると女の子の一人が俺にぶつかり、尻餅をついていた。

 同時に彼女の手から、カラカラと音を立ててスマホが道路の方に滑っていく。

 どうやらスマホを操作しながら歩いていて、俺にぶつかったらしい。


「おい、大丈夫か?」

 俺は女の子に声をかけ、手を差し出そうとした。

 ところが、女の子は起き上がると、いきなり道路の方に飛び出していった。

 自分の手を離れたスマホを拾おうとしたのだろう。


「やめろっ、危ねえぞ!」

 俺の声は女の子に届いていないようだった。

 小学生の女の子にとって、スマホは命より大事な物だということは分かる。


 だからと言って道路に飛び出して車に撥ねられては洒落にならない。

 そしてこういう場合、往々にして物事は悪い方に転がるのだ。


 女の子が飛び出して、スマホを拾い上げた瞬間、振り返った彼女の目の前には、けたたましい警笛を鳴らしたトラックが迫っていたのである。


 なろう小説なら、俺は女の子を救おうとして彼女を突き飛ばし、代わりにトラックに轢かれて死ぬのだろう。

 そして異世界転生をして面白おかしい第二の人生を送ったのかもしれない。

 今のブラックな会社で社長のパワハラに耐える毎日より、よほど楽しい日々に思える。

 もちろん、異世界転生とやらが保証されていればの話だが……。


 だが、そんな夢を見るには俺は歳をとり過ぎていた。

『うわっ、嫌なもん見ちまうな……』

 そう思うだけで、俺は一歩も動かなかったのだ。


 気の毒なのはトラックの運転手だった。

 彼には何の罪もないのに、いきなり目の前に子どもが飛び出してくるとは、どれだけ運が悪いのだろう。

 とっさに鳴らした警笛が何の役にも立たないことは明らかだった。

 もちろん彼はそれだけでなく、精一杯の急ブレーキを踏んでいた。


 トラックは暴走していたわけではない。時速四十キロ程度、きわめて常識的な速度だった。

 しかしそれでも制動距離は二十メートルを超えてしまうのだ。

 突然の飛び出しには、ブレーキすら無力なのである。


 しかし、トラックの運転手は諦めなかった。

 彼にも同年代の子どもがいたのかもしれない。

 運転手は少女を轢かないためにあらゆる手段を取ったのだ。


 彼はとっさに急ハンドルを切った。

 ブレーキよりは、よほど現実的な緊急回避法である。

 トラックは恐怖にうずくまる女の子の身体をかすめるように方向を変え、奇跡的にその命を救ったのだ。


 ただ一つ不幸だったのは、トラックが向きを変えた先は歩道であり、そこには俺が立っていたことだった。


 恐るべしトラック君! 君の魔の手から逃れることは許されないのか?


 車と衝突する刹那、俺が考えたのは手に抱えていた借りたばかりのAVのことだった。

『ああ、これを警察官に見られるのか……』


 その先のことは、アダルトDVDの運命を含めて何も分からない。


      *       *


 目を覚ますと、畳の匂いがした。

 お日様に長年照らされて焼けた畳の匂いだ。

 のたのたと起き上がると、俺は四畳半の上にいた。


 それを部屋と呼んでいいのだろうか。

 四角い四・五枚の畳、その中央には丸い卓袱台ちゃぶだいが置かれていた。

 イラスト資料で見たことがある、足を折りたたむことができる昭和のアイテムだ。

 だがそれ以外に壁も天井も何もなく、謎の四畳半は空中を浮遊していたのだ。


「おう目を覚ましたか」


 そしてその卓袱台の向かいには、長髪に髭を生やした老人が座っている。

 髪や髭と同じくらい真っ白な、シーツみたいな服をまとっている。


 俺はあぐらをかき、ぼりぼりと頭を掻いて溜め息をついた。

「あー……。

 あんた、ひょっとして神様かい?」


「いかにも」

 老人はうなずいた。


「俺はあんたの手違いで〝うっかり〟死んじまったから、代わりに異世界に転生させてくれる……ってか?」


 神様はにこりと笑った。老人のくせに白くてきれいな歯並びが胡散臭うさんくさかった。


「おうおう、ここまで物わかりのよい転生者は初めてじゃ!

 読者も二度目のやり取りを読まされるのは面倒というもの、さぞや喜んでおるじゃろう」


「読者って何だよ?

 まぁいい。それで、俺は当然チートな能力が与えられるんだろうな?」


 神はおごそかかに宣言した。

「無論よ。

 ただし、条件が一つだけある。

 おぬしの望みが聞きたい」


「望み?」


「そうじゃ。

 おぬしには神の力に匹敵する魔法力が付与される。

 その力を使って、異世界で何をしたいのか――それを問うておるのじゃ」

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