第11話 加速装置 

『時間よ、停まれ!』


 ――僕は確かに脳内でそうイメージしたはずだ。

 しかし、目の前にいるハンジもセシリアも、ちゃんと呼吸をしているしまばたきもしている。


『ちょっ、レム。これはどういうことなんだ?』

 僕の問いかけに〝呆れ果てた〟というようなレムの回答が戻ってくる。


『お前はア・ホ・か?』

 まるでのこぎりを叩いて曲げるような、不思議な声色を彼女は出した。


『時間を操るなんて、界王神様がお使いになる第十水準レベルの魔法だっぺ!

 お前の扱える神様レベルの魔法じゃ、絶対に使えないっぺ』


『えっ、そうなの?』

 聞き返した僕に、レムは憮然としながらも説明してくれた。


『もし神様に時間停止が出来るなら、そもそもお前がトラックに轢かれることだって防げたはずだっぺ!

 時間操作が実現できたら、チートどころじゃないっぺ。普通に考えたら分かるっぺよ』


『……そうかぁ』

 しょんぼりと俯いた僕を憐れに思ったのか、レムは一つの提案を持ちかけてきた。


『時間停止は無理だっぺが、似たようなことならお前のレベルでもできるっぺよ。

 〝超加速〟だっぺ……』

『超加速?』


『んだっぺ。

 常人の認識を超える速度で移動して再び戻ってくれば、相手には一瞬、姿が消えたように見えるだけだっぺ。

 その時間は一秒にも届かないけど、お前だけは十数秒の時間を体感できるっぺ。

 魔法で保護されたお前以外に適用すると、普通は超加速に身体が耐え切れずに崩壊するっぺが、獣人はもの凄く頑丈だから、その娘なら移動が可能だっぺ』


『え? なんで高速移動するだけで時間に差が出るんだ?』

『アインシュタインが国会で決めたっぺ。

 お前、高校生にもなって相対性理論を知らないのけ?』


『よ、よく分からないけど、とにかくやってみるよ』


「加速そおっち!」


 僕は少し裏返った声でそう叫び、同時に奥歯をかちんと噛みしめた。

 その行為自体に大した意味はないが、いわゆる動機づけという奴だ。


 瞬間、世界がぐにゃりと歪む。


 ハンジの顔もセシリアの顔も、スローモーションのように輪郭がぶれている。

 そして周囲の景色が、わけの分からない抽象画のように変化する。


 高速で移動しながら目的を果たす。それでも許された時間は数秒だ。

 僕はどことも分からない空間を走り抜ける。

 そして獣人の娘を抱えたまま、その腕をぐいっと持ち上げた。

 当然、獣人だけあって胸も腹もわきも毛に覆われている。


 だが、背中側の茶色に縞模様の入った毛並みとちがって、それらの部分には雪のように真っ白で柔らかい毛が生えている。

 僕は娘のわきに思いっきり顔を突っ込んで存分にモフり、その香りを堪能した。


 猫の肉球よりも純粋で雑味のない匂いだった。

 だが、僕は慌てて首を振ってその〝甘い〟表現を頭の中から追い出した。

 こんな直接的な比喩しかできないようでは、一流のわきテイスターにはなれないのだ。


 深く息を吸い込むと突然、頭の中に〝しゃんしゃん〟という軽やかなベルの音が鳴り響く。

 同時にアルムの山の斜面をかける山羊たちの映像が目に浮かんだ。


「これは……ハイジ? しかもアニメ版だ。なぜこんなイメージが……?」


 疑問は嗅覚からの信号が解決してくれた。

「これはお日様の匂い!

 快晴の日に干した布団……いや、違う!

 干し草だ!

 干し草のベッドの匂いだ。そうか、それでハイジのイメージが――いや待て! まだ何かある!」


 香ばしく少し埃っぽい太陽の匂い――その奥から何か秘かな香りが隠れているような気がする。


「チーズだ!

 間違いない! それもアニメで見た、パンの上に乗せられた暖炉で焙られトロトロになったチーズの匂いだ!」


 ああ、何とこうばしく食欲をそそる匂いなんだろう。

 僕は思わず感涙にむせんだ。

 明らかに動物性の香りをベースに、ぎりぎり悪臭の一歩手前で踏み止まった発酵臭。そこに焦がしたような香ばしさと欲望を掻き立てるフェロモンの隠し味を感じる。


 僕は夢中で白い毛を口に含み、ちゅうちゅうと吸い上げた。

 ああ、背中を抱いた腕に感じる毛並みの固さに比べ、このわき毛の何とはかなく柔らかく、そして繊細なことよ!


 間違いない! 彼女もまた僕のハーレムの一員にふさわしい〝花嫁〟だ!

 何としても手に入れたい!


 ――そう決意した時には、僕は元の位置に戻っていた。

 現実の時間にして、一秒にも満たないだろう。


 ハンジがごしごしと目をこする。

「どうしたんだハンジ? ゴミでもはいったのかい?」

「いや、何か旦那が一瞬消えたような気がしたんですが……ははは、気のせいですよね。

 それより、この獣人をどうなさるおつもりで?」


「とにかく話をしてみよう。

 今はマタタビに酔っているから、解毒の魔法をかけてみるよ」


 僕は頭の中にフラスコを思い浮かべる。

 中に入っている液体は濃い紫色をしている。

 それが一瞬で透明になる――そんな情景を思い描いたのだ。

 そんなことで解毒魔法につながるのか心もとないが、僕の想像力ではそれが精一杯だった。


 しかし、それで十分だった。

 とにかく思い描いたイメージを、僕自身が〝解毒〟だと認識することが大切らしい。


 膝の上の獣人の身体がぼおっと燐光を放ち、淡い紫のもやのようなものが立ちのぼった。


      *       *


 獣人の娘はいきなり目を開いた。

 そして次の瞬間、彼女は僕の膝の上から三メートルほども飛び上がって、地面に四つん這いで着地する。

 見事なキャット空中三回転だ。


「えーと……」

 どう声をかけていいか分からず口ごもっていると、四つん這いの獣人はその頭を地面にめり込むほどに打ち付けた。


「まいったにゃ!

 お前は強いにゃ、完敗だったにゃ!

 負けたからには奴隷となるのが一族の掟にゃ。

 だけど、あたしの部下たちはどうか許してほしいにゃ。

 責任は指揮官であるあたし一人が取ればいいにゃ!」


 僕は見事な土下座姿勢をとっているネコ娘に声をかける。

「頭を上げてくれ。

 君の部下たちをどうこうするつもりはないよ。

 それより名前を教えてくれ。僕は騎龍だ」


「リーニャにゃ」

「にゃにゃ?」

「にゃにゃにゃ!」

「にゃにゃにゃにゃ?」


 いかん、話が進まない。


「何だって語尾に〝にゃ〟をつけなくちゃいけないんだ。

 話しづらくないの?」


「別に平気だにゃ。

 早口言葉だって得意だにゃ。

 にゃにゃめ……」

「ストップ! それ、やらなくていいから」


 僕は小さく溜め息をついた。


「君は僕の奴隷となると言ったけど、そんなものは求めていない。

 第一、僕らは君たちのテリトリーを犯そうとは思っていない。ただ暴虐の魔王を倒すことが目的なんだ。だから最短距離のこの森を通り抜けたいだけなんだ。

 僕についてきたら危険な目に遭うかもしれないんだよ」


「にゃんだ、それならそうと早く言うにゃ!」

「え?」


「魔王を倒すと言うなら、ますますキリューのお供をするにゃ!

 最近、この森にも魔物の侵入事件が増えてきたにゃ。

 だから、みんな気が立っているにゃ。

 族長はアスラン王国で魔王を倒す遠征軍が組織されたら、一族の者を派遣するつもりだにゃ。

 キリューのように強大な魔力を持った勇者が現れたと知ったら、きっとあたしに一緒に行けと命じるに違いないにゃ!」


 僕は心の中でガッツポーズを取った。

『よぉし、エルフ娘に続いてネコ娘もゲットだぜ!』


「分かったよ。

 そこまで言うなら一緒に行こう。

 でも、そういうことなら族長に会って、君を連れて行くことを断った方がいいね。

 案内してくれるかい? リーニャ」


「もちろんだにゃ!

 族長もきっと喜ぶにゃ」


 ふと、僕は気になった。

「リーニャ、その族長ってどんな人なんだい?」


 彼女は嬉しそうに答える。

「族長はこのジャスティンの森で最強の男だにゃ。

 見た目はちょっと線の細い中性的な感じだけど、実はもの凄く凶暴だにゃ。

 鋭い牙は巨木も齧り倒し、強靭な尻尾は岩をも砕くにゃ。

 しかも地上だけでなく、水中でも自在に動けてダムを造るのが得意だにゃ」


「ジャスティンの森って、まさか……。

 ねえ、リーニャ。そのジャスティンの森の族長って何の獣人なんだい?」


 頼む、この話をこんなくだらないオチで終わらせないでくれ!

 僕はそう天に願ったが、リーニャの答えは非情なものだった。


「もちろん、ビーバーだにゃ!」

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