第2話 走れトラック君!

 小学生にして将来を覚った僕は、見事に平々凡々たる人生を送っていた。


 だが、高校二年生になった春、教室の席が後ろから二番目、しかも窓際になった時には、ついに自分にも人生の転機が訪れたのかと胸がときめいた。

 その席はアニメであれば、主人公である高校生男子がハーレムへの第一歩を踏み出す、約束の地であったからだ。


 しかし年度が変わって一か月、僕の周囲には宇宙人の美少女も、ドジな魔女っこも、メガネをかけた未来人も、金髪巨乳のハーフ美女も……とにかく物語を華々しく彩る転校生など、誰一人して現れなかったのだ。


 それはただの窓際の席でしかなかった。

 ――僕が後方に追いやられたのも、今時の若者にしては珍しく、裸眼で一・五という視力の結果に過ぎない。


 僕は身長が百七十二センチ、体重五十六キロ。ジャニーズ事務所のスカウトから声をかけられたことはないが、多分不細工ではないと思う。

 一応、中学校時代はクラスの女子と、お父さんお母さんに申し開きできる程度の清い交際をした経験だってある。


 残念なことに未だ童貞ではあるが、まだたった十六歳の春なのだ。

 絶望して深夜に校舎の窓を叩き割ったり、盗んだバイクで湘南を爆走するにはまだ早すぎるだろう。


 謎の転校生こそ来なかったが、僕の前の席には女子が座っていた。

 麻宮という昔から知っている地味なだった。

 一応、朝には「おはよう」くらいの挨拶は交わす仲だ。

 できればもう少し親密なお付き合いをしたいと思うのは、健全な男子として当然の欲望である。


 だが昼休みには、女子たちは固まってお弁当を食べるしきたりだ。

 その周囲にはバベルの塔もかくやと思えるほどの高い壁が築かれている。

 もし僕に、ロデムのような変身能力があれば、女子になっておしゃべりの仲間に入れるのだろうが……。


 ――いや、済まない。

 僕は親父の英才教育で、幼少時から古いアニメを見せられてきたせいで、時々同年代の友人には通じないことを言う癖があるのだ。

 今どき「バ〇ル2世」を知っているなどとバレたら、たちまちオタク扱いされて人生が破滅してしまう。そのような汚物は見つかったが最後、市中引き回しの上、火刑に処せられるのだ。


 話が横道に逸れてしまった。


 神の悪戯か何か知らないが、実を言うとこの麻宮沙希というクラスメートは、偶然にも僕と同じ町内に住んでいたのだ。

 当然、小中と同じ学校で、同級生になったことも何度かある。

 全然仲良くしたことはないが、幼なじみ……と言えないこともない。


 だからこそ、こんな平凡な男である僕に、大人しい彼女は挨拶を返してくれるのだ。

 三十六回に一回くらいは、そこに笑顔が加わることだってある。

 もちろん彼女は〝マッポの手先〟でもないし、超電磁ヨーヨーを振り回すこともない。


      *       *


 僕は特に運動が苦手というわけではないが、部活は囲碁部だった。


 もし、バスケ部とかサッカー部だったら、もう少しモテていたのかもしれない。

 なぜ文化部――それも思いっきりマイナーな囲碁部に入ったのか、その理由は後で説明するが、とにかく囲碁部の活動は週に二回だけだったから、僕はその日も授業が終わるとどこにも寄らずに家路についた。


 いつもの通学路。

 何も見るべきもののない、平凡な街並みを、僕はぼんやりと歩いていた。


 ふと顔をあげると、十メートルほど先を歩いている麻宮の後姿に気がついた。


 彼女が図書委員を務めているだけで、部活をやっていないのは知っていた。

 同じ町内なのだから、こうして同じ道筋をたどっているのは、何の不思議もなかった。


 まだ衣替え前の、彼女のブレザーの背中で、二本の三つ編みにしたおさげが〝ぽんぽん〟と踊っているのから、僕は目が離せなかった。


 そう言えば、麻宮ってどんな顔をしていたっけ?

 僕には女子の顔をまじまじと見つめる勇気なんて持ち合わせていない。

 ただ、彼女は背が低くてとても色白だったが、顔にうっすらと残るそばかすを酷く気にしていることを僕は知っている。


 それは彼女の欠点ではなく、むしろ魅力だと僕は思う。

 まるで口紅でも塗っているのではないかと思うくらいの赤い唇、そして青い静脈が透き通るような白い肌。

 いつも涙を湛えているような潤んだ黒目がちな目と、その周囲を彩る薄っすらとしたそばかすの痕跡……。


『あれ? どうして僕は彼女の顔を、こうも鮮明に思い浮かべることができるのだろう……』

 そんな疑問を感じながら、僕はあることに気がついた。


 僕と彼女の間隔が、いつの間にか五メートルほどに近づいていたのだ。

 こちらの身長は百七十以上、彼女は百五十センチをやっと超えるくらいだ。

 当たり前だけれど歩幅が違う。普通に歩いていれば、距離が詰まるのは必然だったのだ。


 僕は焦った。


 このままだと、あと数分で確実に彼女に追いついてしまう。

 追いついたら、無視をすることはできない。何か言葉をかけなくては、明らかに不自然だ。

 でも、何を言ったらいいのだろう?


 心臓が高鳴る。

 首筋やこめかみの血管がどくどくと脈打って、「さあ、さあ!」と決断をかす。

 思い迷ううちに、もう彼女の背は手を伸ばせば届くくらいに迫っていた。


 その時、ちょうど彼女は交差点に達していた。

 進む方向の歩行者信号は青。

 麻宮は立ち止まることなく、横断歩道を渡っていく。


「やあ、今帰り?」


 これだ! 自然で何の下心も感じられない完璧な声かけ。

 僕の言うべき最初の一言はこれ以外にない。


 その後は……なるようになれだ!


 横断歩道の三分の一も進まないうちに、僕は麻宮に並びかけようとしていた。

 すうっと息を吸い込み、何度も脳内でシミュレーションした言葉を発しようとする。


 ――その刹那。

 視界の端に何かが映った。


 違和感。


 とても嫌な感じ。


 切迫した危険!


 はっとした僕は、麻宮の背中から視線を無理やり引き剥がして横を向いた。



 僕の視界を覆い隠すように、小型トラックの前面が迫っていた。

 運転席にいるべき操縦者の顔が見えない。

 ハンドルに突っ伏している男の姿が一瞬見えた。


 ――居眠り? 発作?

 分からない。

 ただ、トラックの前面のメッキされた「IKEZU」というロゴだけが、きらりと光って目に焼きついた。


 僕はほとんど無意識のうちに、目の前に見える紺のブレザーの背中を突き飛ばしていた。

 その後は――暗転。


      *       *


 何が起きたのか、どうなったのか、痛かったのか……何も覚えていない。

 ただ、テレビのリモコンの電源ボタンを押したように、ぶつりと映像が途絶え、すべてが真っ暗となっていた。


 気のせいか、どこかから歌声が聞こえてくる。

「……れー、……れー」

 次第に歌声がはっきりとしてくる。


「走れー、走れー」


 間違いない、それは親父の歌声だった。

 親父は不良中年と言ったらいいのか、若い頃はバンドを組んでいたのが自慢だった。

 母親の話では、バンドではなくフォークグループだそうだ。

 ギターの三人組で、高校の学園祭のステージで歌ったのが唯一の実績だったらしい。


 メンバー三人ともギターなのは、「ギターがモテる」という理由で、三人ともベースやドラムをやりたがらなかったためらしい。


 僕は幼い頃から、酔っ払った親父がギターをかき鳴らして歌うのを聞かされてきた。

 その曲も聞き覚えがあった。

 確か「走れコータロー」という、遙か昔のヒット曲だったはずだ。


 聞こえてくる親父の歌声は、そのサビを歌っていたが、少し歌詞が違っていた。


「走れー、走れ、トラック君! 異世界転生お約束~♪」

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