死亡→
その女は、身長170~180cmはあるかと思われた。僕は大きく見下ろされた。無駄な肉のない細身で、一見してそれがわかるタイトな上下、長袖のタートルネックとパンツ、その上から胸と腰の辺りに布を巻いているだけ、全体が草木で染めたような鈍い色のシンプルな服装だ。履物は靴ではなく、革製の靴下のようなものだ。
視界から外れていて顔は分からない。
黒髪で頭頂部に結ったポニーテールが肩甲骨辺りで遊んでいる。
身体が動く前にそんな情報をインプットする。
鳩尾への一撃は強烈ではあったが、それにより動きが制限されることはない。僕の身体はそういう身体なのだ。
身体の硬直は、僕の身体のコントロールが下手くそなせいだ。その硬直が解ける。
超近接状態である。中華包丁でどうにか出来るほどの間合いではない。僕は女の首根を掴もうと腕を突き出すが、女もそれに合わせて動きをみせた。
しかしそれは、まるでスローモーションだ。僕の方が早い。
…と思った。
しかし、僕の手は女には届かない。手が女の身体から逸れていく。それもやはりスローモーションのようにはっきりと見えた。
不思議な力で、僕の身体は意図しない方向に流される。視界にあるのは森の枝葉とその隙間に見える空だけだ。攻撃目標である女の姿でもなければ、守護目標であるメイコさんの姿でもトアちゃんの姿でもなかった。
僕は木の根に後頭部を打ち付けられたが、ダメージはない。肘を支点にして素早く横回転し地面を蹴ると、女からは5m程の間合いを取ることに成功した。
女は正面から向き合っているにも関わらず、顔に影がかかっていて表情が読み取れない。女の黒い口が開くと、その容貌とは不釣り合いな可愛らしい澄んだ声が発せられた。
「おまえ、固いな。身体に鉄板でも入っているのか?」
ま、似たようなものだけど、答える義理はないな。この女がメイコさんとトアちゃんを追っているという宗教の人間か。
「はは、お話し好きか?あんた、2人を追って来たんだろ?話なんかしてる余裕あるのか?」
「闘いに来たのではない。連れ戻しに来ただけだ。お前は別だが?お前は何者だ。抵抗するのならば容赦はしない。おとなしく2人をこちらに渡せ。」
目の前の女と僕との違い。おそらくは技術と、あとは経験の違い。闘って勝てる相手ではない。ならば逃げの一手である。2人を逃がすことができれば、今は勝ちである。スピードだけでいえば、圧倒的に勝つ自信が僕にはある。
「ま、落ち着きなよ。」
「私は冷静だ。少し様子を見ていた。誘拐犯というわけではないようだから、こうして話を聞いている。2人を渡すならば良し。」
「それはできないな。」
「ならば、叩きのめす。」
「それもごめんだよ。」
言い終わるが早いか、僕は2人の方へと跳ぼうと一歩を踏み出す。しかし、歩はそれ以上進めなかった。
頭が揺れ、視界が歪む。三半規管を揺らされたのだろうか?いや、違う。何かは分からないが、違うと感覚が言っている。
足場の感覚もおかしい。
泥濘に嵌ったのかと思ったが、それも違う。足元は縦横無尽に木の根が張り巡らされている。ぬかるむ隙間なんて存在しない。
足が溶けて無くなったのだ。足だけではない。僕の視界には、半分溶けて骨が剝き出しになった腕が映っていた。
これは、何だ。魔法か?
それ以上は何も考えられなかった。
視界も泥を被ったように見えなくなった。
最後の光景は、無表情に僕を見下ろす女の姿だった。
「ヤトリ!」
真っ黒な視界にトアちゃんの声だけが、やけにはっきりと耳に響いた。
◆
「おぉ、ヤトリよ。死んでしまうとは、情けない。」
光がさしたように、急に視界が黒から白へ反転した。その白の中に丸い影が浮かんだ。声はその丸から発せられているようだ。
誰だ?
僕はヤトリじゃない。本当の名前は忘れてしまったが、それが違うことはわかる。…名前なんてどうでもいい。
そんなことより、あなたは何者だ?
「ふがいないお前に、もう一度だけチャンスをやろう。」
随分と偉そうだな。神様でも気取っているのか。
だんだんと目も慣れてきた。その御尊顔をじっくりと拝見しようじゃないか。
…なんだ、カプセルか。
8本ある足の手前の2本を左右に広げて、天を仰ぐ姿に後光が差して見える。どうにも、AIの学習能力の賜物らしい。中二病を発症したようだ。
それにしても視界が戻るだけで随分と時間がかかったな。僕はそんなに長いこと寝ていたのか?目は覚めたが身体の感覚もおかしい。フワフワと水に漂っているかのように現実感がない。
今、僕の右手は動いてる?足は?
「…。」
カプセルの声が遠くなった。あわせて意識も遠くなる。
心地よい感覚に包まれる。夢見心地というのか、何せ宇宙を彷徨っている30年は、一睡もしていなかったから。
たまにはこういうのに身を任せるのも良いな。
…。
「ヤトリ。」
何処からか、僕を呼ぶ声がする。だから、僕はヤトリじゃないって言ってるのに。
心地よい睡眠を邪魔されたことにイラつきながら、僕は目をあけた。
知らない人がいる。
男性と女性。
どちらも髪のほとんどが白い。目を輝かせてこちらを見ている、その表情に刻まれる皴からも、彼らが過ごした年月を感じられた。
「お、おじいさん。この子、目を開けたぉ。」
「うん、うん、開けたぉ。ばあさんよぉ。」
「かわいい目じゃぉ。」
「んだぉ。」
「ここは何処?僕はヤトリじゃないよ。」と、言おうとしたが、喉に何か閊えたように言葉が出てこなかった。先程と同じ、やはり身体も動かない。視界にはカプセルの姿はない。状況を確認したいのだが、通信も切れている。
どのみち、身体が動くようになるまでは、何もできない。危険は無いようなのでしばらくじっとしていようか。
「いやぁ、この子が鉄の船に乗って、川上からどんぶらこぉ流れてきたときには、どぉなるかと思ったぉ。」
「んだぉ。ワシが山から帰ったら、ばあさんが鉄の船かけぇてた時にはびっくりしたぉ。」
「ほほほ、火事場の何とかでぉ、意外に軽かったぉ。今は全然もちあがらんどぉ。って、おじいさん。この子おねしょしとりやがぁよ。」
「ありゃりゃ。おしめ、おしめじゃ。」
「ほほほ、なんだぁ嬉しいのぉ。こんなめんこい赤子を、この歳でもらうたらよぉ。」
「んだ、んだぉ。」
赤子?
なんだかな。
あれ、そういえば…僕、何かやらなきゃいけないことを忘れているような…。
ま、いいか。
…あぁ、なんだか、あったかいな。まるで極楽にでもいるような感じだ。また、眠くなってきた…。
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