第116話 『ローレライの歌声』
平穏な時はいつだって愛おしく感じる。ただゆっくりと流れていく時間、そんな変わらない日々を過ごすことは何よりの至福である。
時にそれを退屈と呼ぶ人間がいる。それどころか、苦痛とまで言う者も。フレドリック・グライナーに言わせてみれば、そんなものは贅沢な悩みだった。安全と安心というものが、いかに尊いものか知らないのだから。
「王国軍が進軍を再開……か」
フレドリックは「ふう」と息を吐いて新聞を置く。一応報告も受けていたが、こうして新聞で報道されるとどうしても意識してしまう。
(まあ一ヶ月近く待ってくれたのだから、まだマシな方か)
敵がセザール・ランベールの回復を待っている間は、当然帝国側もそれなりに準備を整えていた。特に兵站面ではフレドリックとベルンハルトが苦心して調整をつけたので、それなりに機能するようにはなっている。
(そういう意味ではこの将軍の位にも感謝しなければいけないんだろうけどね……。というよりかはそもそもここまで無茶苦茶なオペレーションを組んできた、前任の担当者達に文句を言うべきかもしれないけど)
フレドリックは地図を開き、自分が付けている印を一つ一つ指でなぞっていく。自分の考えが正しければ、おそらく一大決戦はこの場所になるはずだ。
「『ライン川』周辺、おそらくこの河畔が帝国にとっては最大の反撃チャンスになるはずだ」
フレドリックはそう言うと、注いでおいた水を口に含む。今日の所は日々の楽しみであるワインは無しにしよう。おそらく昨日の一杯が最後だ。
戦いは近い。
「セザール様。アーヘン地域の攻略が終わりました。これで再び、進軍が開始できます」
「わかった。あとはライン川を越えれば帝国の半分は制圧したようなものだな」
セザールは自分の脇腹をさすりながら答える。報告を聞く限りでは、停戦状態が続いていたようだ。おかげで王国にとって英雄の療養期間を作ることができた。
「まだ、痛みますか?」
「いや、休みをもらったお陰でかなり良くなった。……本当はもっと早く復帰してもよかったのだがな」
「無理をなさらないでください。セザール様が不在の間でも、王国の騎士達は懸命に戦線を維持し続けますから」
兵士はそう言いつつも、やはり英雄の復帰がうれしいのだろう。どこかうれしそうに答えてみせる。セザールはそんな彼の態度に自然と笑みがこぼれていた。
(とはいえ、本当ならばとっくに治っているというのは本当だがな)
セザールは「ありがとう。戻って良いぞ」と部下を下がらせる。そしてもう一度脇腹をさすり、そして服を脱いだ。
(傷自体は塞がっている。だが、やはり言い表せない何かがこの傷跡からは感じられるな)
王都に帰還してから、すぐに一流の秘術士に治癒の秘術をかけてもらった。変に感染症などにかかってしまえば英雄といえど命にかかわる。それだけに相当に念入りに検査している。その観点から言えば問題はないはずだった。
(となればおそらくは、魔術と呼ばれる類いか)
セザールはあたりをつけていく。
自分自身、魔術師との戦闘はなんども行っている。彼等は一律の術を使い、火や雷によって攻撃する。しかしその術は秘術に比べ準備が必要であり、威力も秘術ほどではなかった。
(彼も、そしてあの黒い騎士も、術の類いを使ってきていた。ただの魔術師ならば恐れる必要はないが、兵士に使われるならば厄介かもしれんな)
そう考えつつもセザールは秘術と魔術の違いについて十分に理解はしていなかった。少なくとも秘術よりも低位のもの程度にしか考えてなかったのだろう。それは後の誤算でもあった。
戦場で見た彼の男。自らに初めて剣を突き立てた男を思い出しながら、再び服を羽織る。
次に相見えるのはいつだろうか。セザールはそんなことを考えていた。
「これより作戦を説明する」
帝都にある会議場。将官達を集めたその部屋でフレドリックが木製の掲示板に地図を貼り付け、話を始める。将官といっても、帝国軍の大権を握る一握りの高級将官達だ。
本来であればそこには豪華な椅子と長机が並んでいた。しかし「説明の邪魔だから」とフレドリックが全て外へ出してしまっている。それが不思議な空間を生み出してもいた。
「近い距離だから説明も聞こえるとは想いますが、聞こえない人、質問がある人は随時挙手してください」
フレドリックはそう言って掲示板を囲むように椅子に座る将官達を見る。普段あの豪華な机に十分なスペースを空けて座っている彼等には、この訓練兵のブリーフィングのような空間は慣れないのだろう。今も横の人間との距離の近さを気にしているようであった。
しかしフレドリックはそんな余裕を与えない。説明できる状況ができたのであれば、後は話者の技術によって注意を引くまでだ。
「それではこれより王国軍を叩き、この一連の戦争にケリをつける作戦を説明します」
将官達の視線が此方に集まるのを感じる。それもそうだ。彼等だってそんな作戦なら聞いてみたくなる。
(皆こちらを見ているな。もっとも、アウレールは興味と言うより、如何に批判してやろうかといった感じだけども)
フレドリックは作戦プランを説明していく。各々の将官達の役割、そしてその意義まで。丁寧に、シンプルに。各々が自分の働きの意味を理解していれば、多少不測の事態が起きても判断が狂わない。
フレドリックが説明を終えると、不意に一人の手が上がる。魔術師のカサンドラ大佐である。
「一つ良いか?」
「どうぞ、カサンドラ大佐殿」
「これでは魔術師部隊の負担が大きくないか?それに失敗すれば、そもそもの作戦自体も崩壊しかねん」
カサンドラの指摘に、周りの将官も頷く。調子の良い将官は「大佐ともあろう方が不安ですかな?」と言ってみたりする。しかしそんな将官もカサンドラの蛇のような目に睨まれては、まさに睨まれたカエルのようであった。
「無論、指摘の通り、これはかなり魔術部隊に依存しています。ですが、十分な準備とカサンドラ大佐率いる部隊であれば、かなりの確率で成功すると考えています。魔術はその再現性こそが強みですので」
「しかし……」
「それに心配しないでください。魔術のバックアップとして、工作部隊も用意しています。一応過度な依存はしない予定です……が、」
フレドリックは続けて言う。
「私はあらゆる場面でのリスクの管理はしていますが、カサンドラ大佐のところは基本的には忘れることにしています」
「……言ってくれるわ。若造が」
カサンドラはそう言って腕を組みながら着席する。隣の調子の良い将官はそんなカサンドラをうれしそうに肘で小突いている。
「もう一つ忘れているぞ」
不意に一番後ろで手が上がる。ベルンハルト将軍だった。
「この作戦、名前は何とする?」
「ああ、それね。えっと……」
フレドリックは一度咳払いをして、皆を見渡す。それぞれが自分の回答を待っていることを確認してから、ゆっくりとその名を口にした。
「『
フレドリックは力強くそう言った。
決戦が始まろうとしていた。
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