幽霊の創造

天池

幽霊の創造

物を見るためには、その戯れを見てはならなかったのである。世俗的な意味での見えるものは己れの前提を忘れているのであり、それは、再創造され、そうすることで見えるもののうちに捕われていた亡霊を解き放つ、一つの全体的可視性に支えられているのである。           ――モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』



 九時に開け放った窓から一種の上澄みと言える冷たい空気が入って来て、音もなく作動するエアコンの下で白いカーテンが女神の残像のように重々しくはためく。椅子に座り直して、しばらくそれを眺めている。カーテンが動くのは気分が良い。順騎(じゅんき)は毎晩九時に新鮮な空気を取り込んで、木くずの匂いの立ち込めた長方形の作業場をそれがとんとんと掃除するのに任せる。しかし眠るときには、その匂いがなくては駄目で、木くずの眠りと毎夜の来訪とが転がる指輪のような小さな暮らしを基礎づけている。

 朝になると牛丼屋かコンビニに行き、昼を過ぎたくらいに大体眠る。お腹が空いていればその前に何か食べるが、食べるものがなければ諦めることもある。電気を消した部屋から外にいられなかった居候の昼が段々姿を消していく頃合いに目を覚まし、ときには白い厚みの向こうに夕焼けのご苦労な景色を透かし見たりしつつ、二度目のその日に自己の調子を合わせてから夜ご飯を食べに行く。そうして帰って来て、九時を待つ。変わっていく日付や人々のあまりの多様性、恒常性を欠いたあまりに沢山の身近な事柄が恐ろしく思え、ただ最低限のことをこなしたりこなせなかったりしながら、視界の端に積もっていく何かの負債に反射する呪詛や哀れみをそれでも睨みつけていた日々が確かにここにあったが、それはもう一年前のことだ。そのときから何が去った訳でも何が来た訳でもない。女神は相変わらず窓を開けた瞬間に去っていく。部屋は空気の通りやすい構造をしている。

 多くの人々が家に篭るようになって少し経った頃、たまに覗く外の上澄みの空気が穏やかなものに感じられたので、思い切って自らの生活にわざわざ規則めいたものを組み込んでみたのだ。それが存外上手くいって、毎日の暮らしが楽だ、と感じるようになった。元々必要最低限に近かった外出が苦ではなくなり、段々溶けて流動体となった負債は窓を抜けてベランダから流れ落ちていった。その痕跡からはしばらく甘い香りがしたが、やがて綺麗に洗われた。すると木材や木くずの匂いがより一層立ち込めるように感じられた。ここは僕の住処で、作業場だ、ここでこうして暮らしていて良いのだ、と思うとどうしようもなく嬉しく、世間の暗鬱な雰囲気とは裏腹に、白い木材そっくりのホワイトチョコレートにでも齧りつきたいような気分になった。

 仕事についても、その頃思いがけない順風が吹き始めた。室内装飾や工芸品の領域においてまたとない好機が訪れたのか、順騎の彫るレリーフの在庫がどんどんなくなっていったのである。注文は安定して届き、順騎は情熱的に彫り続けた。腕も上がり、潜在的な生きることの不安感も少し取り払われた。救済とも思い込みとも違う、実際的で根拠のある安心がいきなり飛びつくように手元にやって来て、怯えもしたが、それを失うまいと順騎は木材を削り続けた。なんとなく定めた生活のルールに固執し、空気の流れを今日もやって来た安心の証拠のように考えた。順騎の住むマンションは区立図書館の上にその四辺を縁取るような形で建てられており、割合広くとられた中庭には池もあったが、ベランダに出るとよく眺められるこの長方形が順騎には長い待機状態にある恰好の彫刻材に思えた。実際に制作する作品の大きさは以前と変わらずほんの小さなものが大体である。しかし藁を絶えず投入される炎のように不安定の中で安定しようとしていた順騎の意欲や意思は、もっと大きな何かを夢想的に追っていたのだった。


 固い椅子に横向きに腰掛け、順騎はいつものように、背もたれを肘掛けにして、肩甲骨と後頭部を壁に預けながら窓の方を眺めている。空の降臨と人工物の抵抗。物の側にある重力と、芸術的な静かなるさざめき。女神による掩蔽と絶え間なく落ちる空気の圧力。慣例的な訪(と)いはしめやかに行われ、池の水は図書館の外壁を滑り落ちる。しかしうっとりするようなこの引力の最前面における秘密に今一つ何か物足りない気がするのは、頭の後ろから骨伝導的に聴こえて来るアコーディオンの音色がないからだ。いつもの音色が、ここ一週間届かない。ある角のほど近く、僕は彫像のように足と椅子と肩甲骨と後頭部によって生活の土台と接続し、第二幕の山場をこうして見ながらも作り上げているというのに、第三の入口からやって来るシグナルが欠如して、全て亡き後まで、彫像の世界から抜け出せなくなるかもしれないというような懼れを感じさせる。一度あのどこか遠い山の樹上で起こった鳥達の攻撃的で優雅な物語のような、或いは、凍りかけの川をどちらかの方向へ進む魚達の煌びやかな身体がつくる距離感の永遠の変化模様や、無数の落ち葉がそれぞれの直線を舞い落ちる一面の風景のような音が聴こえてきたら、重力の共犯関係にある後ろの壁はぱっと楽器の蛇腹に姿を変え、僕は小石が投げ込まれるようにその中に取り込まれてしまうだろう。

 中庭の表面は手つかずの凹凸を保っている。木の剪定は行われている筈だが、全て常緑の針葉樹であるし、ここに暮らし始めてから四年間、見た目の上での変化は基本的にないと言って良い。窓を開けている部屋は一つもない。頬をカーテンに撫でられながら大きなガラス窓をスライドさせて閉じると、どんなときよりも際立つ静寂がこだまのように部屋を一周した。そのとき、戸の開いたクローゼットの下部に整理してある梱包用の空箱が目にとまった。淡い色のものも深い色のものも、大き目なものからごく小さなものまで沢山用意してある箱達は、敢えて無秩序に積み上げられながら、その端が大体揃うように工夫してある。作品が完成すると適宜最適なものをそこから抜き出すのだが、その度に床に座り込んで、その部分より上に位置する全てをもう一度組み上げ直すのである。

 そのとき順騎には、空箱の一つ一つが持つ空間性とでも呼ぶべきものが突然意識されたのだ。互いに接着されることなく、自分だけの紙製の六面によって何の特徴もない空無を閉じ込めそこでじっとしている、積み上げられた箱達。自分がいつか、商売の為に購入したもの。全体の形状にばかり気を配り、頻繁な組み直しに解放感を抱き、未完成のまま完成している一つの作品のように考えてもいた集合的かたまり。

 洋菓子の入っていそうな、乾いた紙粘土のような手触りをした柄付きの小箱を抜き取り、そのせいで少しずれた右側の一群を整えた。真上には長目の箱が横向きに収まっているから、ひと時も眼を離さない狂いなき力による埋め合わせが起こることはなく、空間を抜き取られた空間にぽっかり穴が空く。それをそのままにしておいて、順騎は椅子に腰掛けた。酸素を沢山吸ったこの一室は肌寒く、雪原のように澄んだ広がりを持っているが、手中のこの暗室が意味するものはそれとは全く無関係なようだった。横向きに壁に倒れてみる。肩をずらして、耳の触れる部分の表面積がより大きくなるようにする。静寂と静寂が耳と壁を介して隣り合う。それも全くの静寂である。足裏の間隔が遠のく。順騎の中で、両手に収められた空無の存在感が巨大化していく。

 側面に沿って手を動かせば、目に見えない奥の手とこちら側の手との間に侵入出来ない領域が現れる。しかしその実、そこに何かがある訳ではない。何もないのに、順騎はそこに引き寄せられた。吹雪の中、託された物品を目的の場所まで運ばなければならない伝令の兵のような場所に行き着いたのであり、座り直した半身が震えた。大きさも丁度合うし、今作っている作品が出来上がったら入れるのだということにして、作業机を挟んで壁沿いに設置してある木材用ラックの、ピラミッド状に長い板が積み上げられている最上段の一番上に置いた。大きな板は作品に即したサイズの板がないとき自分で切り出す為に置いてあるものだが、殆ど使うことはないし、ラックの一番上に置いてあるので薄く埃を被っている。その上に、壁に沿わせて順騎は箱を置いたのだった。最上段は綺麗なシンメトリーを維持している。手を離すと、順騎は幾らか安堵した。しかしラックの屋根のようになっている茶色の木材と、仄白く軽い小箱とは、少し不釣り合いのようにも思えた。壁との隙間から風が吹いて、平面のピラミッドを前面から転がり落ちて来ないのが不思議だった。箱はクローゼットの中にあったときと同じように、ただそこでじっとしていた。

 彫刻に取り組みながらも、視線が捉えようとするその箱のことが気にならない瞬間はなかった。それは順騎にとって何かの対象ではなく、順騎を見詰め返すというのでもまたなかった。夜がすっかり更けた頃、順騎の頭の中には幽かにアコーディオンの奏でる曲が流れていた。人々の一日が終わりに近付いていることを知らせるように始まるその演奏は、どれくらい前からか、必ず決まった曲で終わるのだ。その曲が今度は順騎にとって仕事を始める合図になった。壁の向こうからやって来た音が、いつも順騎を通して部屋中に放射され、最後は窓から抜け出ていった。うろ覚えなのに、完全な曲であるかのようにそれは流れていた。ふんだんに詰め込まれた繰り返しの旋律が織りなす軽やかなテンポの中に、滑らかで自由な動きのようなものを想像させて、そして唐突に終わる。まるで城の塔から飛び出した何らかの動物が、人生で一番の自由を初めて目にする広がりの中で堪能し、力尽きて何でもないような場所でその目を閉じるようなのだ。でもそれは、悲惨な終わり方だとは思えなかった。その上翌日になれば、その動物はまた再生し、どこかの広い世界を望むままに動き回るのだ。

 脳内で何度目かの曲の終わりが訪れ、少し休憩しようと思った。色塗りの作業をご飯を食べた後でやるとして、工程には幾らか余裕がある。

 順騎はベッドの前に座り込んだ。すると目の前に祭壇が控え、小箱が安置されていた。あちら側の面は、作業机の横にあるからか、全体が一枚の板のように思えて来ることがある。まだ彫られていない、どんなものとしてももう一度生み出され得る壁。とすれば、そこに密着したこの箱は、なんと危ういのだろう……。壁の向こうも未知なら、小さな六面の内側も未知だ。無は押し寄せて来ない。しかし無が有に変わるとき、それはどんなものも出し抜いて、もしかしたらその周囲やこちらへ、近付いて来るのではないか。たとえばその内に太陽が昇って、その光が窓ガラスも重厚なカーテンもすり抜けて、電気を消すまで目立たないけれどここに居候を始めるように。

 そのとき、順騎の頭に浮かんだのはこんな考えである。――今度あのアコーディオンの音色がこの部屋に届くとき、壁際の暗室はそれを吸い取って、その独自の空間の中に閉じ込めてしまうのではないか。そう考えているとまた同じ曲が脳内に流れ始めた。それは風のように目の前や身体の周りを移動していくようでもあり、やはり脳内から発せられるようでもあったが、この部屋も順騎の脳も、音を閉じ込めるには不適格だった。どこにも捕らわれない音のような何か、それがここにあるような気がする。そうしてピラミッドと空箱を見詰めている内に、順騎は誰かが言ったことを思い出した。目に見える世界の影や光、色の具合、それ等は皆亡霊であり、そのことを知っている画家は神聖なその手で亡霊を捕え、また別のところから連れて来たりして、そうすることによって画布の上に一つの視界を作り出すのだ――。

 池や木やベンチの上に六階分積み重なった夜は、また朝日が昇って来るなり圧迫され、押し流されつつどこからもいなくなってしまう。その夜にやって来るもう一筋の風――順騎の身体を森の奥へ誘い込むような戯れ、小さな事実。それをささやかな箱に閉じ込めて、いつでも眺めることが出来たら、どれだけの安心となることだろう。壁に阻まれているどこかに亡霊がいるのなら、どうかそれをこの空間に……。順騎はベッドに反り返るようにしてもたれかかり、壁の上の方で、梁に当たった天井からの光が細い帯の模様を作り出しているのを見るともなく見詰める。次の夜からこの船着き場で僕はそのようにして待とう。有が前触れもなく入り込んで来るとき、それに飛び乗って流れ去るのに、この部屋の無程うってつけな場所はない!


                 ***


 麻理かと思った。四面の内二つを土塀に似た壁に、二つをガラスに囲まれた中庭の、左右のごく近いところに針葉樹のあるベンチに、アコーディオンを持った人影があった。まんべんなく注がれ続ける昼の光が水面を光らせていたが、楽器の光沢ある黒いボディは些かも霞むことなく、足元の石畳によく映えていた。順騎は静かにガラス戸を押して開け、足裏に段差を感じ、石畳に着地した。ここに入ったことはほんの数度しかなかった。風に押されて扉は強い力で閉められた。木は十本やそこらしかないが、この奇妙な空中の長方形の中で、その数に意味はなかった。有か無か――順騎は彼女の座るベンチに歩き出した。頭上の青空からうろ覚えの完全な曲が降って来て、四面を順に反射してその響きを鈍く大きくさせていった。

「あの」

 その人は風船が揺れるように顔をこちらに向けた。いかにも休憩中といった面持ち。いや、本当にそうだろうか? 寒さの残る三月の風、緩やかな流れのある池と石畳、それ等と身体の間に閉じた楽器。一体何を考えていたのだろう。

「もしかして、よく九時くらいに部屋で演奏されている方ですか」

「はい……。すみません、ご迷惑でしたよね」

「いえ、違うんです。そんな、違います……」

 何を言えば良いのだろう。こんな風に僕の側から干渉することなんて、想定外のことだった……。順騎は申し訳なさに押し潰されそうになりながらも口を開いていた。

「ただ、その……、最後に……いつも最後に弾かれている曲、あれが耳に残って」

 するとその人は何度か小さく頷き、あれは自分のオリジナルなのだと語った。

「『死都ブリュージュ』という曲です。あれを弾くと、私は旅立つことが出来るんです」

 死都ブリュージュ。学生のときに読んだことがある小説のタイトルだ。その作者を街を後景にぼやけた筆致で描く憂鬱な絵があり、それを授業で扱ったのである。話自体はそんなに面白くもなかったが……あの陰鬱で代り映えしない、どうしようもないような港湾都市の雰囲気……それを想像してみると、確かにあの曲にもそういったところがあるような気がして来た。地上の澱んだ暮らしや引力と、それを蹴って飛び上がるような持続的な力、その二つが溶け合い、反転し合って、一つの終着点に向かって巻き付きながら進んで行く、(音はどんどん大きくなっていく……)そんなイメージがぱっと浮かび、順騎は感動を覚えた。

「夜、窓を開けてぼんやりする時間があるんですけど、そのときに聴こえて来るんです、そのアコーディオンの音が。それだけなので、全然迷惑なんかじゃないです。でも最近聴こえて来ないのはどうしてですか」

 訊いてはいけないことなのかもしれない、と言ってしまってから咄嗟に思った。もはや自分は定められた区画から遊離して、壁の中へ彷徨い出てしまっているような感覚があった。後にも先にも道はなかった。洪水のような昼、昼のような音――。

 途端に全てがけたけましい音声を上げて凝縮し、その一点の闇が広がるように順騎は目を覚ました。

 部屋は川岸の砂のように静まり返っていた。薄暗がりに電気を入れると、部屋としての性質は変わらずに、自分だけ、まさに昨日と同じ自分として均一な重力の元に落とされたような気がした。単純な舞台演出の中で、物言わぬ第二部がまた始まり……演じつつ演じられる。自分で電気を点けたのだから、そこから逃れ去ることは出来ない。

 夜ご飯を済ませ、中庭のある三階にエレベーターで上がった。互いに姿の見えない対角線上の二台のエレベーターは、一階から最上階まで通じるものと、三階から上だけのものの二つであるが、後者の方が利用者が少なくて気が楽なので、順騎は降りるときには基本的にそちらを使っていた。しかしその後短い用事を済ませて、今度は一階から直通の方を使うとなると、向こうのエレベーターは三階で止まったままになってしまう。真ん中に空洞のある人気のない三階に、自分が連れて来たその箱は、次に誰かがそれを使う、いつか分からないそのときまで放置されてしまうのだ。それがどうしてか嫌だった順騎は、上りのときにも三階で一度エレベーターを降り、中庭に沿って共用通路を歩くのが習慣になっていた。角を曲がる前の一辺では、その壁はガラス張りになっており、ドアが付いていた。中で何かが起こった様子はない。針葉樹は僅かにその輪郭を揺らし、石畳は乾燥している。全く見慣れた景色だ。

 何かの機械が低い唸り声を上げている他には何も聞こえて来ず、一切は一つの保持の様相を呈していた。一つのエレベーターからもう一つのエレベーターへ、順騎は殆ど足音も立てずに進んで行く。角を曲がると飾り気のない一本道が現れ、突き当りを少しばかり右にずれれば自分の用意した現在が待ち受けている。ボタンを押すとすぐに開いた空間を前に、来た方へ振り返って土塀色の壁を一瞥した。その向こうにまだ厳しい寒さが渦巻いているなどと容易には想像出来ない、暖かい場所の仕切りとしてそれは続いていた。

 優しい手がすっと押し上げたのは現在だった。素早く開く扉によって順騎の身体を廊下に投げ出したのもまた現在で、二重の長方形が作り出すドーナツ状の廊下を順騎は毎日の自分の分身のようにまた歩いた。道に面した窓に広大な夜が映り、船の形をした半月が殆ど垂直になってぽっつりと浮かんでいた。遮るものは、あるとすればガラス一枚だった。船は止まっている。しかし外界は常に進行の最中にあって、押し寄せて来る瞬間というものがある筈なのだ。止まっているようで、この現在が誰にも触れられない場所で滑らかに進み続けているように――。


 九時を待たずに来客があった。麻理だった。順騎は九時を待っていたことなどすっかり忘れ、つややかな髪の下に並んで動く二つの目にあらゆることを司る霊力を見た。麻理は近付いて来た。けれども一連の短い音が突如として鳴り響いてドアが開いたそのときから、順騎の眼に距離を測る力などは奪い去られていた。

 急いで椅子から立ち上がった順騎は、自分が椅子に座っていたことをもう忘れていた。いや、一年の歳月を丸ごと忘れてしまった。二度と同じ風が吹くことはないのであり、今正面から吹いている風はそれまでの風向きを全て変じてしまったかのようだった。奥行きを認識する力が戻ると、途端に順騎には部屋の形が明確に意識された。それは行動可能域として所有することが許された広がりであり、とにかく四面が囲っているだけの閉鎖的に開けた空間ではなかった。順騎はその部屋に、落とされるのではなく煙から現れるように存在していた。キッチンの横の廊下に麻理もまた存在していた。

「休みが取れてね、今日の勤務が終わってから少しの間」

 胸を突かれた。睡眠もままならず、勿論連絡を取る時間も殆どなく、日々のしかかって来る重大な事態とあらゆることのしわ寄せ、そして対処しなくてはならない全てのことを、身も心もすり減らして受け止めていた麻理。知っているかのようで、本当の状況は何一つ知らなかった、知る由もなかった。そんな毎日が延長や悪化を繰り返して続き、一年が経った。言葉が出なかった。

 クッションを持って来て並んで座った。間に少しでもクッションの本体が盛り上がって入り込むと寒々しい感じがしたので、それを追っ払ってただ一つのへこみが出来るようにした。麻理はまだご飯を食べていなかった。しかしこの部屋にちゃんとした食料となるものは今のところなく、それを伝えるとくすっと笑った。後でコンビニに行くことにして順騎はキッチンからまた床のクッションに戻った。今度はもっと隣り合うように座った。向こうの部屋はもうずっと掃除らしい掃除をしていなくて嫌になることもあるけれど、ここも似たようなものねと麻理が言った。順騎は見慣れた木くずを一瞥した。そういえば、もうすぐ九時だ。順騎は少し行動を迷った後、伝わるという確信を抱けないながらも、自分の新たな習慣について語ることにした。麻理の一年間の詳細な話をすぐに聞く勇気がなく、時間的理由からそれが一番手頃な話題に思われたからである。

 視界の前方で、小箱は閉ざされたままぽつんと置かれていた。話している内に九時を過ぎたが、窓を開ける気にはならなかった。その時点で、順騎の話は同時的神秘や時間的必然性という後ろ盾を失い、ただの話になってしまった。重大な事柄でも面白い体験でもない話。説明も上手くまとまらず、順騎はすっかり恥じ入ってしまった。それでも麻理は幾つかの箇所に興味を持ったようだった。

「ねえ、聴いてみないの? 壁の近くで耳をそばだてれば、その演奏が聞こえて来るかもしれないんでしょ」

 その一言で、祭壇の燭台に炎が灯された。とはいえ壁とこことは全然離れていないし、部屋はこんなにも静かだ。正直なところ、順騎にはその儀式が始まっているとは思えなかった。

「うん、確かに……。ちょっと聴いてみようか」

 順騎は麻理に椅子を勧め、自分はその後ろに立って、二人して壁に耳を付けた。首が痛くなり、生ぬるい質感があるだけで何も漂っては来なかった。

「駄目かー」

「駄目だったね」

 各々が独自調査を断念し切れないでいるように、その場を動くことなくしばらくの無言の時間が流れた後で、コンビニでも行こうかということになった。本棚の上の箱からマスクを二枚取り出し、一枚を机の横に佇む麻理に手渡した。木くずの箱の中でそれを身に付け、外に出た。麻理は一階から直通のエレベーターがある方に身体を向けていた。麻理はいつも向こうの方を使うのだった。二台のエレベーターが今この平面上に揃っていること、廊下は明るいけれども、窓から流入する夜に浸されていること、この廊下は切れ目のない周回する帯で、その小さな小さな場所の中で自分は今普段通らない道を歩こうとしていること。それ等のことが鍵を仕舞った順騎の身体を駆け巡った。

 上るときもエレベーターは中庭のある階を素通りし、からくりのように二人は自分達の階の廊下に下ろされた。

 小ぶりのテーブルに向き合って麻理は食事をし、順騎はお茶を飲んだ。温かい緑茶をぐいぐいと流し込むのが心地良かった。ゴミをまとめて使った食器と共にキッチンへ持って行き、テーブルのところに戻るとき、順騎は消え入るように流れて来るその音を捉えた。すかさず目配せすると、麻理も気が付いており、深く頷いた。

 僕達は身動きをやめ、白くてかっちりとした壁にそれぞれの感覚を集中させた。

     壁はいつにも増して壁であるのに、亡霊はそれをすり抜けて来る。

 幽霊なんだよ。この音。とテーブルや空間越しに麻理にだけ囁いた。

     箱はどう? 私からは見えない。と麻理。

 ぴったり、ぴったりだよ。順騎は靴下を滑らすようにテーブルに近付く。

     麻理はごく僅かに椅子をずらし、本棚の上のリモコンに手を伸ばした。

 私は電気を消した。

     順騎の手が暗がりの中でテーブルに触れた。

 二人はテーブルを挟んで立ち、小箱のあるところへ視線を注いだ。

     僕は息を呑んだ。瞳孔の中に取り込まれたみたいだった。

 ねえ、思ったことをそのまま言うけど。

     何? と順騎。片手でテーブルの天板を掴みながら。

 音だけじゃなくてさ! ほら、今この部屋……

     幽霊

 幽霊だらけだよ。どこもかしこも、

     光るものはWi-Fiルーターとテレビの小さなランプくらいだった

 ちょっとこうして見方を変えてみれば……

     部屋は暗かった

 窓は開いていないのに、木くずの中から浮き上がっていくものとか

     いたるところに

 君が抱えていた全部

     ……ここにある目にしか見えない。

「ほら、どんな音楽も人によって聴こえ方が違うのと同じでさ。暗室が一つあれば、カメラみたいなことで……」

「幻影を映すカメラ」

  幻影を映すカメラ

    幻影を映すカメラ

      幻影を映すカメラ

        幻影を映すカメラ

          幻影を映すカメラ

「全てを見る目が亡霊を逃がすって――。でもさ、全てを見る目にしか幻影は映らないかもしれない」

 目が慣れて来て、互いの顔をぼんやりと描くことが出来るようになる。耳も慣れて来たのか、アコーディオンの幽かなメロディはもはや部屋中に広がって向かいの壁にまでぶつかっていた。

「電気を消しているのは昼の時間ばかりだから、暗室自体の幻影に気が付かなかったんだ」

 二人は向かい合わせに腰掛けた。一つは作業机の椅子だ。順騎は麻理がテーブルに置いたリモコンにそっと触れる。照明のリモコンなんてずっと使っていなかった。

「全ての幻影は、この部屋では真実」

 部屋の中の暗室は神聖な神聖なものだった。一度それに捉えられたものは、秘密の場所に保存されて永久に消え去ることはない。

「全ての幽霊は、私達には真実」

 二人の顔の下にあるテーブルの平面だとか、部屋の全ての隅だとか、音の間だとか、光ることを止めた照明だとか、椅子の下だとか、あらゆるところに溢れんばかりの幽霊を二つの知覚は共有していた。最も小さな音も聞き逃さないし、どんなに細かなものも決して見逃さない。捕らえられているから、全てを捕らえることが出来た。


 最後の曲が始まった。順騎は暗闇の中で合図を送り、麻理は小箱のところを振り返った。殆ど見えはしない。そうしている内にも演奏は押し寄せて来ていた。

 あっ、と麻理が顔を向けた。

「これ、バッハの平均律クラヴィーア、二巻の二番だよ。間違いない」

 潜めた声でそう言いながら、麻理は得意気な表情を浮かべていた。死都ブリュージュではなかったのだ。

「……そう」

「多分何かの課題曲なんだと思う。ここって高さの割に家賃控え目だし、学生さんかな」

 順騎は蛇腹を伸び縮みさせながら今横の部屋でその曲を練習する学生の姿を想像しようとした。試みはすぐに断念されざるを得なかった。漂って来るのは音でしかない。だいたい、会ったこともない隣人の姿をどうやって想像すると言うのだろう。

 麻理が一度帰宅した後、順騎はこの曲の本当のタイトルを思い返した。聞いたこともない名前の知らない曲。でも実在するのだ。それは麻理が知っていたこと、それを今では自分が確かに知っている。麻理はゴミ箱を開けたりしなければ目に見える痕跡を残さず去って行った。部屋は明るく、六面によって正確に画されている。

 箱の中身は誰にも分からない。たとえ天井に穴を開けたって、側面を取っ払ったって、余計に分からなくなるだけだ。それは順騎と麻理にしか見えない記憶だった。



(エピグラフの引用は富松保文訳・注『メルロ=ポンティ『眼と精神』を読む』(武蔵野美術大学出版局、二〇一五)九一―九三頁による)

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