第6話 外つ国の恋歌と傾く月は

 薄絹のカーテンに仕切られた奥の部屋に見える影は女主人のもの、ひとつ。カナヤが座している次の間にも、少女の他に人影は無い。

 カナヤの経験では、こうした大きなお屋敷ともなれば、たとえ姿は見えずとも侍女たちは控えの間に待機しており、何らかの気配はするものであるが。

 父親に溺愛されている様子の女主人の身の回りの世話をするのがあの少女ひとりとは、高貴な身分の姫君にしては侍女の数が少な過ぎはせぬか。


 屋敷の中に人の気配がうかがえないことも、先程から気がかりではあった。

 酔狂が過ぎて、旅の楽師風情を部屋に引き込んだとも考えられる――実際に彼の身にもこんなことが何度かあったので――が、それにしては手引きの少女の態度がぎこちない。先刻からの態度をかんがみても、女主人が示唆したとは、到底考えられぬ。


(なにか……、なにか肝心なことを忘れているような気がする。僕のカイザリ女神さま。御心豊かで音楽の守護者でもあられる女神さまよ、どうかお教えを。僕はなにを忘れているのでしょうか)


 女神は無表情のまま、煙のように立ち消えた。





 ***





「  ねえ、恋しいひとよ 白い花を摘んだよ

   緑の葉に埋もれそうになっていた 小さな花びら


   風にそよぐ 白いかわいい花びら

   葉の影から わたしに微笑みかける

   まるで あなたのように


   わたしはあなたの名も知らない

   知っているのは あなたを恋しいと想うこの気持ちだけ

   どこの誰とも知らぬあなたに恋するわたしを

   あなたは愚かと笑うのか


   いいや 優しいあなたはそんなことはしないだろう

   ルルル ラララ……

   白い花のようなあなた 小さな花のようなあなた


   あなたにこの気持ちを伝えたならば

   白い花と共に この想いを伝えたならば

   あなたはどんな顔をするのだろう

   わたしの想いを受け取ってくれるのか それとも風に飛ばしてしまうのか


   野原に咲いた 小さな花 白い花

   あなたによく似た 白い花

   わたしの想いを伝えておくれ

   ルルル ラララ……

   そして この尽きぬ涙を 癒しておくれ



 これは海峡の向こう、アーギア大陸の南にある、セネカと云う国から流れてきた女から教えてもらった恋歌でしてね。かのお国でも、恋とはせつないもののようでございますよ。

 音階がわれらの耳に慣れ親しんだものとは少し違いますが、見知らぬ遠い国の恋歌も、なかなか良いものでございますねぇ。


 いかがです。青白き月のように静かで、冷ややかなまなざしの女主人様きみ



 流行はやり歌に民謡、古歌――。果ては海の向こうの恋歌まで。

 吟遊詩人アシックカナヤは三弦シードを爪弾きながら、果てることなく歌を披露する。

 歌が終わると、少女が歓喜の声を上げた。


「ええ、ええ。遠き国のお歌も興味深きこと。それにつけても、なんて素敵な歌、そして心ふるわすお声なのでしょう! 

 主人もお喜びになっているわ。さあ次の歌を、それからワクワクする物語も聞かせてちょうだい」


 少女は頬を紅潮させてそう言うが、帳の向こうからは絹連れの音も息づかいさえも感じられぬ。果てして本当に女主人はお喜びなのかと、カナヤは少々不安になった。


「お教えいただけまいか。愛らしき鈴の音の声色の君。あなたのご主人は、どんな物語がお好きなのか」


 ここで吟遊詩人アシックは、視線を少女から薄絹の奥に潜む女人へと移した。ニッコリと人好きのする笑顔を見せるのも忘れない。それから、より一層やわらかな声で帳の奥の影に話しかける。

 内気な(――とカナヤは想っているのだが)女主人の心をどうにか開かせようと、流行りの恋歌の旋律メロディを爪弾きながら。


「おもしろい物語といっても、いろいろあるのでございますよ。

 女君であられるから、血なまぐさいお話やまつりごとのあれこれよりも、美しいものや恋のお話の方がよろしいかと思いますが、なかには風変わりなお方もおりましてね。色恋なんぞより、背筋の凍るような恐ろしいお話をお好みになる女人も、ごくたまにおいでになるんです。

 赤い色が好きなお方がおれば、青い色がお好みのお方もいる。だから世の中は面白いんでございますがね」


 吟遊詩人は、しゃべりながら爪弾いていた三弦の音を、ここで大きく震わせた。聴き手の気を引く為だ。

 されば、帳の前で熱心に耳を傾けていた少女の肩がビクリとする。それをチラリと目の端に捉え、しめしめと思いながらも、肝心の女主人に反応が無いのは面白くない。


「せっかく、この吟遊詩人アシックカナヤが、あちこちで見聞きした話をお聞かせしようというのです。あなた様がお知りになりたいことや、聞いてみたい歌や物語なぞがありましたなら、なんなりとおっしゃっていただけませんか?」


 大胆にも、カナヤは身を乗り出し、探るような目線で帳の奥に探りを入れる。はたして女主人は、何と答えるのであろうか。

 その女人の声は、甘いか涼やかか。たおやかか、儚げか……。若い詩人の頭の中では、期待が甘い夢へとすり替わっていく。


 このとき夜風が、ふわりとカーテンを揺らした。慮外な風は、うすものの帳を巻き上げる。

 垣間見えたは薄紅色の衣の裾。百花の刺繍と縫い取られた貴石が、わずかな光を受けて鈍く光る。長椅子に座る女主人が身にまとう優雅な召し物であろうか。

 まばたきの間の出来事。されど面紗ヴェールから覗いた華やかな衣の色彩は、カナヤの目に焼き付いていた。


 しかし風の悪戯はそこまで。気まぐれに浮き上がった帳は、宵闇のように静かに降りて、ふたたびかの女人ひとの姿を隠してしまう。

 惜しむ心を知ってか知らずか、風はふわりとカナヤの元へ。途端に嗅覚に感じる強い香気と、ひとつの予感。

 なにゆえかと目をやれば、香炉から昇る香の煙が大きく風に凪いで床に拡がり、沙漣を描きつつ音も無く押し寄せて来る。


 幻覚と共に、脳内に拡がる薄紅の色。


 運ばれてきた香気は官能を通り越し淫靡さえ思わせて、鼻腔のみならず毛穴からもじわりと染み込めば、吟遊詩人アシックも到底穏やかではいられぬ様子。煽られた煙のように、ゆらりと揺らぐ。

 心は逸り、弦を抑える指が震える。息をつくことさえ疾苦となる。肩を揺らし大きく息を吐くカナヤの姿を見て、少女がクスリと笑みをこぼした。


「どうしたの? ねぇアシック……」

「いえいえ。お気遣いなどいりません。少し……薫物たきものの香りが悪さを致しまして……この吟遊詩人アシックを無用に刺激したのでございますよ」

「まあぁ。これは貴重なお香なのよ。特別な客人のために、特別に焚いたものなのに――。つれないことを言うのね」

「ああ、お許しを。鈴の音の……君」


 少女とのやり取りも半ば空ろ。

 この気忙しい熱は、やはり薫物たきものの仕業なのかと瞳を閉じる。くすくすと笑う少女の軽やかな声。


(やはり媚薬が調合わされているのか……!?)


 熱ばかりか同時にひやりと背筋に冷気を感じ、舌がもつれるほどなのだから、女たちの悪ふざけも、少しばかり度が過ぎているのではとカナヤは煩わしさを感じた。

 しかし、これしきの事。最下層の階級である「流浪の民ヒタノ」対する悪戯としては、まだまだ生易しい内で、女たちがカナヤに対して興味と好意を抱いているからと思えば、然したることも無しと笑ってやり過ごせる。


 それよりも。ふと見た明かり取りの天窓から、月の姿が消えているのをカナヤは知る。思うよりこちらの屋敷に長居をしているようだ、とも。


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