第5話 くゆる香りに酔うて歌えば

 少女の後について部屋に入れば、濃厚な香の匂いが彼を包んだ。部屋のそこかしこに香炉が置かれ、女性の部屋らしく甘く華やかな香りが立ち上っている。天井から吊るされたいくつものランプには燈火の存在はなく、明かり取りの窓から降る青い月の光だけが、この部屋の照明だった。


 薄闇に目を凝らせば、次第に部屋の様子がわかってくる。

 彼はさりげなく部屋の隅々にまで視線を走らせ、部屋の様子から女主人のひととなりを連想した。

 調度品の意匠からすれば、かの女主人ひとはまだ年若いのだろう。そして高貴な身分であることは、間違いない。おそらく未婚で、まだ両親の庇護の下、なに不自由なく暮らしていると思われる。



 父親から溺愛されているのか、部屋はいろいろな国の、多くの宝物で飾られていた。かわいい娘のためにと、父親が惜しみなく与えたのだろう。衣装や宝石の質で娘の生家の豊かさが量れるなら、調度品の数は娘にかける父親の愛情の深さの尺度。


 壁に掛けられた掛毛氈タペストリーは、バンディア大陸の強国アーギアのもの。かの国の創世神話をもとにした絵巻物仕立てになっている。

 足元の絨毯はアズタンザイヤの特産品で、しなやかな毛足の長さを考慮すれば、上等なハバの毛を織り込んだもの。デザインは古典的な植物柄で、流行はやりのものとは違うが、決して古臭いということはない。格式高い伝統の文様といえよう。しかもこれほど手の込んだデザインの織りならば、一流の織り手が長い年月をかけて仕上げた一級品に違いない。

 置かれた衣装箱はおそらくイゾルタンの製品もので、造りの確かさと細工の華やかさに特徴が表れていた。しかもあちらの水差しはカラ・シーンあたりから、『王の道』をたどって流れて来たものであろうか。独特のきめ細やかな磁器は、かの国の門外不出の秘法で焼き上げられていると教えられたことがある。


 なんと見事な品ばかり。吟遊詩人は舌を巻いた。



 自身は下層階級の「流浪の民ヒタノ」の生まれだが、生業のおかげで高貴な方々の屋敷に上がる機会もあるカナヤは、いつからか審美眼を磨くことに情熱を傾けるようになった。もちろん目利きの手ほどきも受けたのだが、立派な屋敷や宮殿や神殿に上がるたび、自分で知識を広め、目を肥やしていったのが大きな糧となっている。

 培われた審美眼は、おおいに彼の役に立った。招かれた屋敷や城の懐具合や、貴人のひととなりを、それらの品から推し量ることが出来たからだ。

 「これだから卑しき民は……」と後ろ指を指されようとも、下層階級に生まれた者が、世知辛き世を生き抜く術のひとつとして、この特技がたいそう有効であったことは否めない。



 もともと美しいものが大好きなカナヤは、溢れる美術品に目を奪われ、すっかり夢中になっていた。そしてそれ以上に、これらの調度に囲まれ、あの少女が恭しく世話をする謎の女主人に思いを馳せていた。


 想いが募れば旋律が湧き出でてくる。


 ああ、早く歌いたい――!


 弦を爪弾き、掻き鳴らし、思う存分この気持ちを音に乗せたい。

 それを早く披露したくて、三弦楽器シードを持つ手が震えるほどに――。



 だから後ろで静かに閉じた扉のことは、まったく気にならなかったのであった。





 ***





 部屋の奥、何重にも重ねられたとばりのそのまた奥に、ひっそりと人影が――。

 吟遊詩人は目を細め、薄闇にまぎれそうな姿を探す。長椅子にでも座っているのか。華奢な躰つきなのは遠くからでも見て取れた。

 贅を尽くした豪奢な衣装に包まれて、埋もれてしまいそうな様子なのだから。


 胸元耳たぶ両の手首に足首と、月の光を受けて鈍く光るは銀の装飾品かざりであろうか。

 白い小さな顔の表情は窺えない。青年の好奇の視線を阻むのは、揺らめく薄絹のとばりと、女主人が頭からすっぽり被った薄絹の面紗ヴェール。足元まで覆い尽くす。

 小首を傾げた拍子に面紗ヴェールが揺れて滑り落ちでもしないかと、不心得な想いがカナヤの心をかすめる。が、どこの馬の骨ともしれぬ流浪の男ヒタノに、万が一にも素顔をさらしてしまわぬようにと、かの少女が怠りなく目を光らせているのでは、そんなことはあり得ないのだろうけれど。


 気付いているのか、いないのか。部屋に充ちた甘い香りが、カナヤの心を騒がしている。

 みずみずしい果実や芳しい花の芳醇な香りが鼻腔をいっぱいにすると、その奥から香辛料のような刺激的な香りが顔を覗かせ鼻の奥をくすぐった。それに驚いていると、その後からむせるような濃厚な香りが追い付いてくる。

 心の臓の高鳴りがさらに早くなる。乱れていく。

 軽い興奮が血に交じり、脳や神経の緊張が解かれる。躰は火照りを覚えはじめていた。



 帳の前に立つ少女が手招きをする。

 誘われるまま、彼は部屋の中央へと歩を進める。

 ふわふわとした心持ちは脳が麻痺したか、足元は沙の海の上を歩むよう。心もとない足取りも、少女の笑い声が助奏となりて舞踏の律動を刻むよう。

 浮かれた気分に視界が揺らげば、奥津城の典雅なたたずまいも調度の数々もいびつに歪む。


 薫物の香りに酔うたか――。


 これから吟遊詩人としての力量が試されるというのに、このままではならぬと、カナヤは頭を大きく左右に振った。


「さあさ、吟遊詩人アシック。あなたの自慢の喉と三弦楽器シードの腕前を、あたしのご主人様の前で存分に披露してくださいな。

 珍しい異国の話、美しい音楽。麗しい王子と王女の素敵な恋物語。賢い召使が主人を助けるお話。不思議な魔神や生き物が主人公の行く手を阻もうとするのを打ち破り、栄光を勝ち取る冒険譚。遠いお国にいるという夜啼き鶯より甘美な歌声を利かせて欲しいの。


 この長い夜を楽しませてくれる、素敵なときを作り出してちょうだい。


 さあさあ、


 月は昇りぬ 宴の支度を

 このひとときを楽しく過ごさん

 金と銀の沙が 天の杯から残らずこぼれ落ちるまで


 ご主人様は、それを望まれているわ」


 招かれるままにカナヤは女主人の御前――と云っても十重二十重とえはたえに下ろされた薄絹のカーテンの前ではあるが――に座ると、抱えた三弦楽器シードをかき鳴らした。


 部屋の中だというのに空気が冷たく感じるは、カナヤの気のせいであろうか。香の甘い香りの端に、どうかすると乾いた空気が混じる。夜気のせいにするには、どこかこころ落ち着かぬ。彼の鼻が震える。

 嗅ぎ分けると消える。追えば、巧みにまぎれる。

 どこかで嗅いだ覚えのある、凍てつく冷たさと乾いた匂いに、彼の躰が縮み上がる。が、怖気の正体が浮かばない。


 探ろうとすれば思考の糸は解け、くらりくらりと頭が揺れる。吐き気を覚え、指が滑った拍子に、触れていた三弦楽器シードの弦を強く弾いてしまった。

 低い音が、一音、響き渡る。


吟遊詩人アシック!!」


 少女が悲鳴のような鋭い声を上げた。


「ああ、お許しを!」


 カナヤは慌てて陳謝の言葉を述べる。放たれた一番低い弦の音が、ビリビリと空気を震わせ消えていった。

 余程驚いたのか、一瞬だけ見えた少女の怯んだ表情と気まずさに目を塞ぐ。


 同時に、吟遊詩人は調音に狂いが生じていることを感じ取っていた。

 微妙に、それこそ素人には分からない僅かな歪みであろうが、弦の音が乱れている。音が濁る。誰にわからぬとも、カナヤにははっきりと感じ取れたのだ。


(どうしたことだ)


 カルの愛弟子ともあろうものがと恥じ入って、少女らに不注意を気付かれぬうちに、そっと糸巻きを締め直し弦を整えた。


「いくらでも唄いましょうとも! そのために今宵はここに参上仕つかまつりましたゆえ。



  夜の衣の袖を引いて その微笑みを我が腕の中に閉じ込めよう

  ああ なぜ 足早に去りゆかんとするのか――――



  金の沙 銀の沙

  こぼれ こぼれて どこへ流れ行く


  流沙の海に舟を浮かべて 共に流れを楽しもう

  あなたがそれを 望むなら


  かぐわしき花の香りは やさし腕のもたらす ひとときの夢

  目には花の微笑み 渇きを潤すのは水蜜桃

  耳に響くは三弦シードの旋律

  波の間に 間に 夜啼き鶯は密やかに鳴く


  面影は蒼き光のかなたへ 残り香も消えゆく

  冷たい仕打ちに涙を浮かべようとも 沙の波が乾かしてしまう


  戸惑いを覚え あなたの影を探そうにも よすがは無し

  月は満ち欠け うつろう姿に われの心は騒ぐばかり


  衣の裾を追いかけるうちに

  気付けば いつしか 舟にはひとり


  時間ときのうつろい 人の定め

  流れに逆らうことなく 舟は漂う



 ナッスールの大海よりも御心深き女主人様のお情けに――――」


 吟遊詩人は三弦を鳴らしながら、にんまりと笑った。目じりに蠱惑の色が浮かぶ。


 ――視線の先には女主人。



 帳の前の少女がそっと視線を外したのも、カナヤは知っていた。


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