第4話 月明かりも届かぬ迷路

 少女は慣れた足取りで、テペラウの街並みを歩いていく。

 城壁を降りると、凱旋大通りを横切り、ごちゃごちゃと粗末な小屋の立ち並ぶ下層階級民の居住区を抜ける。大きな広場を素通りし、人足の途絶えた夜の市場バザールを抜けると、外観を高い塀に囲まれた市民居住区域へと入っていった。



 すでに月は天空そらの一番高い処にある。明りは白々とテペラウの街を照らすのだが、漂う空気はどこか冷たく余所余所しげで、カナヤは居心地の悪さを感じていた。


 この街は、『王の道』往く隊商カールヴァーンを受け入れる、乾いた大地に点在する貴重な緑地であり、自治が認められた大きな宿場のはず。ましてや客人をもてなすはアルイーンの慣習でもあるというのに、この冷々たる情調はどうしたことだろうか。彼の鼻腔から乾いた匂いが離れない。


 おかしなことよと思いはしたが、好奇心に逸る心に、その時その理由までは思い至らなかった。



 前を歩く少女の影が、突然するりと壁の向こうに消えた。吟遊詩人アシックは驚き、慌てて、後を追う。見失うまじと、足を速め、踏み込んだ先は暗くて狭い路地だった。



 表通りと違い路地は狭い。道幅は、ようやくすれ違いが出来る程度。

 加えて周囲は高い塀で、月明かりも届かない。目が暗闇に慣れるまで、カナヤの脚はおのずと慎重になる。少女の後ろ姿も闇に隠されてしまいそうだ。


「早く、早く、こっちよ。こっち……」


 暗がりから愛らしい声が彼を急かす。


「待ってくれよ、こんなに暗くては進めやしない。麗しい鈴の声をしたお嬢さん、君の声も姿も、夜の女神の衣装の向こう。長衣の袖が揺れる度、闇が邪魔して僕の足を止めてしまう」

「まあ、おっしゃること。目なんかすぐに慣れてしまう。夜の女神は、寛容なお心の持ち主。あたしの姿を見たいと思えば、両のかいなを開いてくれましょう」


 無邪気な声で、少女は返す。誰にそんな大人びた口の利き方を教わったのかと、吟遊詩人は口の端を歪めた。





 路地は続く。道筋は緩やかだが右へ左へと曲がりくねり、見通しが利かない。その上少し進めばすぐに道は二股に分かれ、左右どちらかに進路をとっても、数ディルも進まないうちにまた突き当りに阻まれてしまう。何度かそんな状況を繰り返しているうちに、方向感覚が鈍ってくるのをカナヤは感じていた。


(ああ、どうしたことだい。まるで水を持たずに、沙漠さばくを歩いているようじゃないか。どこをどう歩いているのか、皆目見当もつかない気分になってくる。頭の中が、ボーっとしてくる。息が苦しくなってくる。街の造りのせいなのかい?)


 足元が怪しくなり、ぐらりと景色が崩れる。


(おおっと、いけない!)


 彼は急いで迫って来るような土壁に手を付き、ふらついた躰を支えていた。



 掌から冷気が伝わってくる。背中にまで伝わるような冷たい感触。それが混乱した感覚を揺り起こす。

 彼は思う。道の両側にそそり立つ壁の存在が、圧迫感を増幅するのだと。





 沙漠のなかの都市らしく、テペラウの家屋の造りは中央に泉や池を設けた中庭があり、その周囲をぐるりと二階三階建ての居住空間が取り囲む。開放的な内側の造りとは反対に、路地に面した外側の壁には極力窓が無い。煉瓦の上に泥を塗り頑丈に作られている。


 第一にすなの侵入を防ぐためであるのだが、同時に外敵からの防壁の役目も兼ねていたし、これが家々の間を通る薄暗く窮屈な路地を意図的に形成することになっている。要塞のような家並みが隙間なく延々と続くのは、彼のような異邦人には心地悪さを超え不気味さを感じさせた。


 まるで迷路のようではないか。深く、深く街の内部へと足を踏み入れていくうちに、彼はくらくらと頭の芯が痺れてくるような感覚に捕らわれて始めていた。



 だから用心深いカナヤの脳裏に浮かんでいた疑問も、


「こっちよ、こっち。吟遊詩人アシックさん」


 という、愛らしい少女の呼び声にかき消されてしまったのだった。


 すっかり眼も闇に慣れた。見れば、数歩先を歩く少女が手招きをしている。くすくすと小さな笑い声を立て、惑うカナヤを面白がっている様子だった。


「ああ、どこまで行くんだいお嬢さん。君のうるわしきご主人様のお住まいになるお館は、まだまだ遠いのかい」

「いいえ、もうすぐよ。だから、急いで吟遊詩人アシックさん」


 少女の声に促され、彼は遠のき始めた意識の中で足だけを速めていた。





***





 どれだけ歩かされたのだろうか。

 壁に一部に小さな扉が現れ、その前で少女は立ち止った。


「ようやく到着かい。どれだけ歩いたことだろう。テペラウの街を出て、次の宿場街まで歩かされてしまうのではないかと心配なったところだよ。ほら、ごらん。月があんなに昇ってしまった。心優しい夜の女神の支配する時間が、どんどん無くなっていくじゃないか」


 高い壁と壁の間から、小さく天空の月が見える。


「ああ黙って、吟遊詩人アシック。ご主人様は、騒がしいのはお嫌いなのよ」


 ぴしゃりと言われ、カナヤはあわてて口をつぐんだ。


「さあ、ご主人様のお部屋まで案内するわ。ただし、途中で口を開いておしゃべりを始めてはいけないわよ。吟遊詩人アシックの声は小声でもよく通るから、ほかの連中に聞かれでもしたら、大変なことになる。絶対、声を漏らしてはダメよ」


 小柄な少女は背伸びをして、吟遊詩人アシックによくよく言い聞かせるのだった。


「はいはい、心得ましてございます」


 カナヤはおどけて少女の前で優雅な礼を取った。


「ほら、言ったそばからふざけるのね!」


 少女はこぶしを振り上げたが、カナヤはそれをそっと受け止める。


「約束は、守るよ。僕の師カルの名に掛けて、ね」


 彼はあまたの女性を惑わせた甘い笑顔で、少女に誓う。すれば少女の怒りが、戸惑いに変化していく。


「カル? ……まあ、いいわ。絶対の、絶対の約束だから」


 少々顔を赤くしてしまった少女は、急いでくるりと扉に向き直ると、それが合図なのか奇妙なリズムで扉を3回叩いたのだった。





***





 屋敷の中は、驚くほど静かだった。

 青い光に満ちた庭も、それを取り囲む回廊も、その奥に広がる部屋も、人の気配がないと言っていいほどの静寂に支配されていた。足音さえ、影に吸い込まれていくようだ。


 大きな屋敷なのだから、どれほど音を消し去ったとしても、なんらかの気配はあるもの。空気の動きや、匂い、温度などなど。ひとが動けば、熱が生じる。それらは気配となり、目には見えども肌に伝わる。


 それが感じられないとは――。それとも、それを感じられなくなるいほど、自分は戸惑っているのだろうか。


(ああ、あの迷路のような路地を歩かされたおかげで、カイザリ女神に与えられたもうた僕の冴えた感覚は、泥水のように濁ってしまったのだろうか)


 吟遊詩人アシック三弦琵琶シードを握る手に、少しだけ力がこもった。


 さらにカナヤには、ある疑問が浮かんでいた。

 少女は、彼の師匠カルの名を知らない様子。アルイーン全土に名の知られた『盲目めしいのカル』の名を――知らぬとは!?


 すでに世を去ったとはいえ、彼の残した詩や演奏は今も語り草だし、高貴な身分の方々の御前では、カルの弟子だというだけで優遇されもする。


 生涯ふたりしか弟子を取らなかった、孤高のシード弾き。カイル王の英雄譚、バボロハフサの冒険の語り部。

 生きながら伝説となった、偉大な男の存在を知らぬとは!


 まだ若い彼女のことだから、知識が無いだけなのか。それともテペラウには、師のうわさが届いていないのだろうか。いやいや、それはあり得ない。ここは人と物が行き交う商業都市なのだから。情報は、なによりも尊ばれる。


 ましてや高名な吟遊詩人のうわさ話は、あっという間に広まるものだ。そして我先にと、吟遊詩人を屋敷に招きたがるもの。


 なれば、うわさが届いていないのは、この奥津城だけかもしれぬ。

 それはなんとも残念なこと。彼の最後の弟子として、師の素晴らしさを、深層の女主人にも伝えなければならないと彼は思った。


 いや、テペラウは――――。


 くらり、と彼の視界が揺れた。



 違和感が彼を襲う。

 だがカナヤの脳裏に肝心なことが浮かびかけると、不意に前を歩いていた少女が振り返り、にっこりと笑った。ふわりと近づくと、顔を寄せて小声でささやく。


「もうすぐよ。もうすぐ、ご主人様の御前ですからね。アシック」


 小さな唇が動き、甘い香りと共に柔らかく面紗ヴェールも揺れる。

 彼は黙ってうなずいていた。



 もう少しと云いながら、いくつかの部屋の前を通り過ぎ、角を曲がり、屋敷の奥の奥へといざなわれ、おしゃべりの虫の我慢もそろそろ限界に達しようというとき、カナヤの前に重そうな扉が現れた。


 女主人の部屋にふさわしく、たいそう立派な造りの扉であったが、あまりに重そうである。だから不遜にも本当に開くものかと疑いの目を向けたのだが、少女が軽く扉に触れると、彼の疑念もなんのそのと、扉は音も無く左右に開いていった。

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