第2話 少女
「おおっ、寒ッ!」
カナヤは、ブルブルと身震いをした。
寒さのせいだけではない。昨夜の可愛い娘が耳元でささやいたことには、このテペラウの廃墟には、
本来ならば、もうとっくに次の宿場町の宿屋で腹いっぱいご飯を食べたあと、葡萄酒を酌み交わし、財布のひもの緩くなった行商人相手に自慢ののどを披露しているはず――と吟遊詩人は大きなため息をついた。
「ああ、なんてこった。夕べは楽園の
冗談じゃない。僕がなにをしたって言うんです。こんな気のいい
まあ、夜露を避けられるってことだけでも感謝すべきかな。偉大なるウル神、芸能の守護者カイザリ女神よ。あなたの下僕、非力な男、下手くそなシード弾き、小心者の哀れな放浪の吟遊詩人カナヤをお守りくださいませ。僕は魔物の類は大ッ嫌いなんですから。
ああ、でもそいつがとびっきりの満月の君、糸杉のような美女でしたら、ちょいとお顔を拝ませていただくってものいいなぁ。
――おおっと、いけない、いけない。それが命取りになるかもしれないってのに。
うるわしきカイザリ女神さま。やっぱり魔物はいりません! そら、震えだしてきましたよ」
そういってカナヤは大袈裟に救いのポーズを取り、耿々と輝く満月を仰いだ。
「せめて酒があったらなあ。そいつを友に―――
たのしくすごせ ただひとときの命を
いっぺんの土塊に もどるまえに
美味し紅の酒を 杯に満たせ
飲めよ 君 憂いなど消えてしまうから
酒と美しい音と恋人のほかに なにもいらない
ああ 君よ なにをそんなに嘆くのか
さあ 傾けよう バラ色の美酒の杯を
僕に悩みは似合わない
酒と音楽と美しい
カナヤは
この青年はそうしていると、先程までの寒さや恐ろしさなど忘れてしまったようで、楽しそうに躰を揺らしながら、次々と詩句が口から飛び出していくのだった。
興に乗った調子の良いアシックの歌は、なかなかに止まらない。だから、
「おやまあ、
と、後ろからいきなり声を掛けられ、腰かけていた城壁から滑り落ちそうになるくらい驚いてしまった。
振り返るとそこには、くるぶしの飾り環のような声にふさわしい、愛らしい少女がひとり立っている。夜気を避けるためもあろう、
まだ乙女と呼ぶには早い年頃の、たいそう小柄な、それながらどこぞのお屋敷で奥仕えでもしているのだろう、整った顔立ちをしている。
「あっはは……、やぁねえ! なにをそんなにびっくりしているの、
少女は、まっすぐカナヤの目を覗きこむ。
「今日のお宿は、決まっていないのでしょう? 安宿を探して歩き回るより、あたしのご主人様のお館へ来ないこと? あたし、吟遊詩人を探していたの。
ほら、人の心を和ませるには、美しい歌が一番だというじゃない。それが本当ならば、あたし、ぜひとも
あたしのお仕えしているご主人様は、満月より輝かしいお顔で、柳のようにすらりとした躰つきで、カモシカのような瞳で、水蜜桃のようなお声の持ち主なの。このテペラウの都で一番のお美しさだわ。
けれど長の月日、その三日月のような眉を曇らせて、気鬱に沈んだまま。あたしではどうしてさしあげることも出来ないの。
ねぇ、だから
ええ、もちろん代金だってお支払するわ。どう?」
そういって、少女はカナヤの傍らに寄り、泣き出しそうな顔をして哀願した。
「えっ、なになに、なんだって。君の願いはさておき、この廃墟の町で安宿って、そんなものがあるのかい!?」
「まあまあ、
廃墟! 廃墟って、このテペラウのこと。この『王の道』の街道一美しい都を? つまらない冗談を言わないでよ」
さっきまでの泣き顔はどこへやら、少女は声を上げて笑い出した。
「おいおい、冗談は君の方だぞ。ここはテペラウだろう」
「そうよ、テペラウだわ」
少女はしなをつくり、カナヤを諭すように語りだした。しぐさだけは女っぽいのだが、まだまだ少女にはそぐわぬ造作で、ませた口ぶりと言い、青年詩人の前で一生懸命背伸びをして、乙女の顔を造っているような具合である。
そこがまた、なんとも愛らしくある――とカナヤは思った。
「噂に高いテペラウの素晴らしさを知らぬ哀れな盲人、お耳の悪い吟遊詩人さん。なんて可哀相な!
ほら、見てご覧なさいな。このテペラウの都の素晴らしさ。
しばしカナヤは、少女の言っていることの意味が理解できなかった。
少女はテペラウの廃墟を、まるで大イゾルタン帝国の帝都サナルか、カラ・シーン神皇国の絹の都チーアンのごとく言うのだから。
「おお、
促され、カナヤは眼下の廃墟に仕方なく首を巡らせた。
ところが、そこにあったものは廃墟にあらず――――!
満月の光を浴びて、テペラウの街は、後世の歴史学者たちにも讃えられた雅やかな姿を、吟遊詩人の前に現していたのだ。
美しい曲線を描いて円屋根が並び、それを快い間隔で断ち切って大聖堂の鐘楼や尖塔が天にそびえ、楼閣やオベリスク、野外劇場の奥手には宮殿の一層大きく美しい屋根も見える。
街の入り口に立つ凱旋門は、両脇に
列柱が作る青い影は月光に輝く舗装された道に落ちて、連連と続くその
――が。そんなはずはないとカナヤは我が目を疑い、二度三度と擦ってみたが、目の前の景色は蜃気楼ではないと見え、ゆらゆらと揺らめき消えてしまうようなことは無かった。
「ああ……ああ……! こんなことがあるのかい。こんなことが……」
唇が震え、
足元を見れば、カナヤが腰掛ける崩れかけた
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鬱金香(テユーリブ)=チューリップ
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