テペラウの月 月のしずく ~吟遊詩人カナヤが月の夜に出会った不思議な出来事~

澳 加純

第1話 テペラウの廃墟

 月が耿々こうこうと照る夜だった。



 夜気を割くような、三弦琵琶シードの鋭い音が廃墟を流れた。

 その余韻が消えぬうちに、今度は地を這うような低い音が放たれる。

 ざわざわとしていた空気が、その音に耳を傾け、少しばかり夜の静寂を取り戻そうとしていた。そこに追従するように、三度みたび三弦シードが響く。



 旅姿の青年が、目を閉じ、辺りの気配を窺いながら、三弦シードの一番太い弦を強くはじいているのだった。

 張り詰めた音は楽曲のためではない。

 魔除けのためだ。

 ひとしきり馴らされた後で、それは哀愁を帯びた旋律へと変わっていった。


 ここはテペラウ いにしえの都

 隊商カールヴァーンの行き交いも絶え 人々のさざめきも消え去り

 月は照らす 花崗岩の宮殿

 昔の栄光を今に伝えん

 テペラウ 永久くおんの都 今は静寂しずかなり……


 青白い月の光に照らされ、無残な姿を浮かび上がらせたのは、その昔、人々が「テペラウ」と呼んだ都市の跡である。

 崩れ落ちた城壁に腰掛け、シードを抱え、青年は姿なき聴衆相手にひとり吟ずる。



 子羊の毛皮で作った円錐形の帽子をかぶり、これまた子羊の毛皮を裏打ちした丈の長い胴衣コートを羽織った遊牧民のようないでたちではあるが、手にした三弦琵琶とそれを奏でる長く綺麗な指、朗々と響く豊かな歌声は、彼が吟遊詩人――アシックである証しだった。



 年の頃は二十歳を過ぎて、3~4年。笑顔は若々しく邪気のないものであったが、キラキラとしたはしばみ色の目ははしこく、口許は喋って良いことと悪いことをよぉく心得ているようだ。

 彼の信条にあるものは、この世のすべてを満喫しようとする青年らしい好奇心と、豊かな愛情。それが彼の伸びやかな声に、一層響きを与えているような。


 美男という訳ではないが、愛嬌があり、くるくると動く明るい表情。そのくせ、ふっと黙り込んでしまったら、思わす「どうした?」と声を掛けずにはいられない寂しそうな表情もちゃんと持ち合わせている。


 男でも、女でも、老人でも、子供でも、人の心を掴むすべを承知した、生粋の流浪の民の顔を持った吟遊詩人アシック――カナヤの姿であった。




***



 彼はハト・ビライザムからマハト・マリクシール神殿に居る、若き大神官ハオスリハン・シブクマル・チェイの許へと急いでいた。大神官の妹ニルフュル・アデインよりの密書を預かっていたのである。


 アデイン自身より「必ずや、兄に……」と手渡されたもので、かの姫の真摯な瞳に恋するカナヤは、何に変えても――とその願いを勅命のように恭しく受け取り、落とさぬよう盗まれぬよう用心を重ねつつ、短くはない道のりを急いでいたのだった。


 だが……






***






 ふとカナヤは手を休め、周囲を見回した。

 彼に覆いかぶさっていた、澱んだ重く不穏な空気は消え、ここに迷い込んだ時のような重苦しさは無くなっていたが、荒れ果て、人々の記憶からも消されかけた古都の、哀しげなため息が聞こえてきそうだった。


「月のせいかな……、うん、月の……」


 カナヤは天上高くに昇った満月を仰ぎ見た。



 その昔、テペラウは、沙漠の中の商隊都市として栄えていた。遊牧ではなく定住の可能な、沙の海に浮かんだ緑の楽園。

 そして、『王の道』の重要な中継点だった。


 アルイーン大陸の主な都市を結び、その先はアヤ海峡を渡り、バンディア大陸最大の都ルテティアまで続くという大陸横断道。数百年のあいだ人や物が移動する、アルイーンの主要街道『王の道』。



 テペラウは、その街道一の美しい都であり、安全な場所でもあった。棗椰子に囲まれた旅人達の休息の地であり、豊かな文化の花咲く麗しの都として、遠くバンディア諸国にまで名を馳せていた。


 そこここに立つ石柱や、崩れかけたタイル張りの壁が、在りし日のテペラウの都の繁栄ぶりを物語っている。

 都市はテペラウの守護神テベルバトを祭る大神殿を中心に四方に広がっていた。大広場、図書館、学問所、病院、王宮、大劇場、天文台、公衆浴場……。


 凱旋門から神殿まで続く広い大通りはコールタールで舗装されていたし、その両側に等間隔で並ぶ脊柱には、アルイーン諸国で使われている言語――すなわち流麗なクルファン・アズビア文字、典雅なマズムール文字、それに東方のカラ・シーンの四角い文字、さらに装飾の多いバンディア文字で、テペラウの成り立ちや戦歴、偉大なる王の名、輝かしい英雄の名、それに隊商貿易に貢献した人々の名が刻み込まれている。


 そしてこの都市がバンディア諸国とも取引があった証拠に、よく見ると家の柱の造りがバンディア風に上下に比べ真ん中が膨らんでいたり、壁画に残るテペラウ人の服装が、それ風であったりするのだ。



 されど――テペラウの最期は、その最盛期に訪れた。隊商貿易による利益で巨万の富を蓄えた都市国家は、その支配力を増大させ付近の小緑地を配下とし、肥大していった。それを周囲の国々が、黙って見過ごすようなことはなかったのである。


 増長する一小隊都市の販路拡大を歓迎しなかったイゾルタン帝とアズシンハン国王によって、アジス歴553年わずかひと月でテペラウは滅ぼされてしまった。


 それが150年ほど前の話だ。



 以来、ここは見捨てられた地となった。


 白い石灰石で立てられた大貴族の館や、狭い路地に密集して立ち並ぶ赤い日干し煉瓦で作られた下級市民や奴隷たちの家も、イゾルタンとアズシンハンの兵に略奪、破壊されたまま、沙嵐にさらされ埋まるに任されていた。

 やがて都市の名さえも、人々の記憶から消えていく運命にあるのだろう。


 今は『王の道』も、この廃墟の南560ディシルのところを通っている。





***





 さて、話はカナヤに戻る。

 アデイン姫の手紙を携えた彼は、アズシンハン王国とカラ・シーン神皇国に挟まれるシクダール山脈のナワンナト山の中腹にあるマハト・マリクシール神殿まで、16,932ディシルの道のりを急いでいたのだが、途中街道を外れこの廃墟の都へと、夜露を避けるために立ち寄る羽目と相成った。


 あいにくここから次の宿場までは、まだ半日は歩かなければならない。

 この先はさして険しい道のりでもなし、廃れたりとは云え『王の道』の旧街道筋、道に迷うような心配はない。カナヤのような健脚の青年ならば、ゆうに村までたどり着いているはずだった。



 しかるに、何故カナヤがここにいるのかと云えば、そもそも昨晩泊まった宿で、最近トルパル峠に盗賊が頻繁に現れるという噂を聞いたからだった。


 これがまた凶悪な奴らで、身ぐるみ剥いだうえに、命まで取り上げる。この5日間に旅芸人がひとり、行商人が3人も被害にあって村人は震えあがっている。おかげで旅人の足も街道から遠のき始めたと、渋顔を作った宿屋の親父が小声で教えてくれた。



 なるほど、いかに公道『王の道』とて、このあたりの内陸部は沙漠のなかで、大都市からは遠く離れている。整備も行き届いてはいない。崩れかけた道標が、ようやくその存在を示す程度のありさまで、寂れた田舎町をつなぐ細々とした道と大差無いのである。


 特に山頂のあたりは道幅も狭く、山肌と崖がせめぎあったつづら折りの難所で、逃げ場がない。

 警備も万全な大人数の商隊ならばともかく、ひとりふたりの道行きでは、盗賊に襲ってくださいと誘っているような危険極まりない場所であることは、以前ここを通った経験のある人間であれば、すぐに想像がついた。



 そこでカナヤは考えた。

 多少の護身術を心得てはいるが、これまでの彼の人生で、それが役立ったことなど一度としてない。自慢の舌先でけむに巻いて、そのあいだにすたこら逃げ出すのが、彼の常套手段なのである。


 しかし今は、大神官の妹君の密書を預かるという使命を帯びているのだ。それをチェイ様に届けるのが第一と合点したカナヤは、安全を優先して危険な街道を避けることにした。

 昨晩泊まった宿屋で、楽しい一夜を共にした可愛い娘――なんとこの娘の兄弟が噂の盗賊だという!――から聞き出した、山羊飼いが使用する脇道を選んだのだった。彼女が言うには、この道の存在は、山羊と山羊飼いしか知らない秘密の道だとか。



 ところが、その安全なはずの脇道で、盗賊と出会ってしまった。

 辛くも盗賊からは逃げ切ったものの、逃げまどううちに日が傾き、気が付けば『王の道』からも大きく外れていた。温かい寝床を求めたくとも、近くに人里も放牧者の天幕テントも無い。夜道を星の光を頼りに急ぐのも手だが、また盗賊たちに出会ってしまったら、今度は逃げ切れる自信が無い。



(ああ、ツイてない。僕の守護神さまは、今日は機嫌が悪いと見える。――こうなったら仕方無い……)


 そんないきさつで、彼は夜気を避けられる場所を求め、このテペラウの廃墟へと足を向けた訳である。


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