趣味じゃない黒猫のTシャツ

あさひこ

趣味じゃない黒猫のTシャツ

 休日の惰眠を貪る間もなく、布団の片側の温もりが、まだ明けない空の暗がりに溶けていく感触で目を覚ました。

「もう、いくの」

「ん。今日は午前中に、同居人が帰ってくる。それまでに鍵を開けておかなくちゃならない」

 少し疲れたような声が降ってくる。彼はベッドの下に散乱したパンツやらズボンやらベルトやらを回収して、拾うたび身につけていく。その様子を、目をこすりながら見つめる。

 昨日は随分、と言いかけてやめる。やめた余韻で彼は振り返る。

「……何」

 下世話な推測を見透かされたようで、心臓をやすりでひと撫でしたようにざらりとした痛みが走る。なにも言わないことがわかる間の後、再び身支度を整え始めた。

 昨日は随分、荒れてたね。

 引っ込めた言葉を、胸の中で反芻する。

 同居人というのは、彼の別れた恋人だ。

「あ、それ」

「え?」

 彼は僕のTシャツを着ていた。

 カーテンの隙間から漏れてくる微かな光を頼りに探し物をしていたせいだ。彼は元々、妙に似合わない、黒地に小さく猫の描かれたTシャツを着ていたはずだ。

「電気、つけていい?」

「やだ」

 この空間が壊れるのを拒む。

 家に着いてから、今日は明かりをつけていない。シャワーすら浴びずにいた。

 僕の部屋はそう綺麗に整頓されていない。読みかけた雑誌や、飲みっぱなしの缶ビールなんかがそこらに放置されている。

 つい数時間前まで彼を独り占めしたこの部屋。彼に独り占めされたこの埃っぽいベッド。これらを愛せるのは、夜の闇が日常というものに布を被せているからであって、野暮な明かり一つで元通り自分の生活する空間になるのは嫌だった。

「いいよ、そのまま着て行っても」

 少しの間の後、彼は僕の反抗に反抗する形で、容赦なく部屋の明かりを点けた。

 味気ない蛍光灯の白い光が無遠慮に目に刺さってくる。眉間に皺が寄る。

「ここにあった」

 彼は誤って身につけた僕のTシャツを脱ぎ、自分の正しいTシャツを着た。

「同居人に借りてるやつだから、着て帰らないわけにはいかない」

 別にそんなこと言う必要もないのに、わざと言ってくるあたりがこいつの嫌いなところだ。ぬるま湯に浸からせてくれればそれなりに弁えてやるのに、我慢が効くか効かぬかあたりの微妙な火傷を自覚的に負わせてくる。一体どうしたいと言うのか。

 台無しだ。今日はせっかくの休日だったのに。何もかも。

「じゃ。また連絡する」

 そう言って彼は、再び、部屋の明かりを消す。

「あっそ。おやすみ」

 わざと拗ねたような声でさよならを告げ、背を向けた格好で布団に潜りなおす。鼻の奥が既にツンとしていた。

 背中で彼の去っていく気配だけでも追いかけようと耳をそば立てていたが、彼はその場から動かずいるようだった。スマホでもいじっているのかもしれない。

 しばらくそのままじっとしていると、彼がベッドの端に体重を乗せたのか、引っ張られるように傾いた感触があった。目を瞑って身を固くしていると、やがて気配が僕のこめかみを撫でていく。

 柔らかいものがちろりと目尻に触れた。

 元々あった塩辛い湿り気が、昨晩僕を鳴かせたのと同じ湿り気で上書きされる。

 泣いてんの、と掠れた低い声に図星を刺される。

 僕が無視を決め込んでいると、やれやれ、と意訳できそうな上擦ったため息が聞こえる。それで、今度は喉の奥が焼けるように疼いた。鼻を啜る音が鳴らないように注意深く呼吸をする。

「女に拗ねられても鬱陶しいだけなのに、男に拗ねられるとほっとけなくなるの、何でなんだろうな」

 知るか、と胸の内で悪態をつく。

「お前がバイじゃなくて、本当はゲイだからだろ」

「相手が自分だから、と言わないあたりがお前の美点だと思う。俺はお前のそう言うところが好きなんだろうと思う」

 意味がわからない上に何となく懐柔しにかかっているのが透けて見え、どんどん気持ちが萎えていく。

「はやく、帰れば」

「そうする。おやすみ」

 今度こそ彼は、荷物を持つとそのまま立ち止まらずに部屋を出て行った。

 ほっとけないと言った割に、こうも呆気なく帰るのか。

 こんな落下を僕は幾度となく繰り返している。彼の自律したところが僕は大嫌いだ。

 相手が自分だから、と言わないあたりがお前の美点だと思う。

 先程の言葉が耳の奥で鳴っている。ああ、そうか、と気付く。

 彼は結局、僕が必要以上に踏み込んでこないから都合が良いのだ。元恋人との同居を解消しろなんて言ったこともないし、一緒に住めとも、揃いのものが欲しいとも言ったことがない。

 僕が彼の恋人であるのに、だ。

 彼は彼で別れた恋人に未練があるに違いないのだ。身体を重ねた時の振る舞いでわかる。今でも傷付け合っている関係が、そこに見え隠れしている。昨晩の彼が僕を見ていないことなど明白だったのだ。

 踏み込まないことそれ自体を、愛だと勘違いしてここまで来てしまった。今更後に引けず、事情があるのだと言い聞かせて、臭いものに蓋をする。

 事情って何だろう。僕は何に気を使う必要があるのだろう。

 何度も自分に問い掛けていることだが、問い掛けるべき相手は自分でないのは明白だ。

 寝返りを打って、微かな汗と馴染んだ香水の残り香を追う。暗闇を彷徨った視線は、先程彼が誤って身につけた僕のTシャツに留まる。ミルク多めのココアのようなグレーで、胸のあたりに幾何学的な模様の入ったシンプルなものだ。置いてけぼりを食らったように、情けなくくしゃくしゃになっている。自分で脱ぎ捨てた時とは、表情が違っている。

 僕は彼にとって、脱ぎ捨てて置いて行かれるような程度のものに過ぎないのかもしれない、などと言う陳腐な感傷がよぎる。それは、妙に的を射ているような気がした。

 彼をどうしようもなく傷付けてしまいたい。

 その衝動は、けれども実行する余地がないのだった。

 





 

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