【捌】
◇◆◇
父に貰った鞠がどこかに消えた。すみや侍女達に庭の隅々まで探してもらったのだが、どうしても見つけることができない。
「新しいものを用意します」
すみはそう言ったが、牟宇姫はどうしてもうん、と言うことができなかった。
空色、花色、薄浅葱。
淡い青の糸を幾重にも縫い付けた鞠。雀が飛び立とうとしている絵が刺繍してある。
牟宇姫が好きな、青色の鞠。伊達家の象徴である、雀の模様。政宗には色々な物を与えられてきたが、この鞠はその中でも特に気に入った品だった。だから遊ぶ時はいつでもこの鞠を使っていたのだ。しかし少し前、庭で鞠を突いて遊んでいたら、橋の下に落としてしまった。慌てて追い駆けたものの、水の流れが早くて追いつけなかった。
すみ達と手分けして探しながら、川の方を小走りに走り回る。早く鞠を取り戻したくて、必死で走り続けた。そして、
「ねえ、そこの」
聞き慣れない、優しい声が降り注いだ。顔を上げると、甘い花のような匂いを目にする。
濡れたような、艶やかな黒髪。切れ長の、黒鳶色の瞳。そして、雪のような真白い肌と、紅を塗った紅い唇。
魂を奪われたように立ち尽くしていると、自身の名を呼ぶ母の声が聞こえた。
「これはこれは……」
母・お山の方は驚いたように、牟宇姫と女人の間に割り込んだ。
「失礼致しました、姫様。我が娘が、とんだご無礼を……」
どうやら、いつの間にか自分の庭ではなく、この女人の庭に入り込んでしまっていたらしい。
「叱らへんでおくれやす。責めとるわけちゃうんどすえ」
女人は穏やかに笑みをたたえると、牟宇姫に視線を合わせてくれた。
「この子が、牟宇姫……。父様から聞いてます。久しぶりの娘で、目に入れても痛ないほど可愛らしい、と」
きれぇい。
どこかで幼い声が響き渡る。それが自分の発したものだと気が付いたのは、お山の方に叱られてからだった。
(でも、このひとはほんとうにきれい)
非の打ちどころのない美女、というのを初めて見た。母であるお山の方も美人には違いないが、目の前にいる女人はそれ以上だった。
「牟宇姫」
女人は唇を緩め、目を細めた。うっすらと紅を塗った唇が弧を描き、牟宇姫の心を穏やかにした。
女人は牟宇姫に手を伸ばした。あっ、と声を上げる。五郎八姫の手には、牟宇姫の鞠があった。どうやら、拾っておいてくれたらしい。
「私の名は、五郎八。時々、仙台に住むことになりました。西館の方に部屋があるさかい、機会があればおいでやす。甘うて美味しい菓子、用意しときまひょ」
優雅に結った髪の結び目には、幼い牟宇姫でも分かるほど上等な紐が揺れている。まるで、蝶が花畑の上を舞い踊っているかのようだ。
「きれぇい……」
牟宇姫が声を漏らすと、お山の方は微笑んだ。
「そうでしょう。あの方は、五郎八姫様と言うのですよ」
「いろはさま……」
「奥方様の娘御です。つまり、そなたの腹違いの姉君じゃ」
「あねぎみ……」
兄はいる。しかし、姉という存在に実際に出会ったのはこれが初めてである。政宗が時折、「いろはが云々」と言っていたのは、文字のことではなく、あの美しい人のことだったのだろうか。
(いろはさま……おうつくしいかた……。でも、どこか、さみしそうだった)
牟宇姫は、この後母や侍女達からの小言が控えていることも忘れ、五郎八姫が去って行った方角をぼうっと眺めていた。
◇◆◇
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます