【玖】
*
……ま。――様。姫様、
(………だぁれ?)
――お
懇願するような声が、牟宇姫の名を呼ぶ。この声を、牟宇姫は知っている。
(待って。今、起きるから。そなたは意外と弱虫だから……わたくしがおらねばならぬゆえ……)
ゆっくりと、瞼を持ち上げる。視界がはっきりするまで、しばしの時を必要とした。まるで雷でも浴びたかのように、体が固まって喉が灼けるようだ。痺れる体を叱咤しながら、牟宇姫は自分の名を呼ぶ声に応えるべく、目線を動かした。
「姫様」
最初に視界に映ったのは
本来、角田にいるはずの宗昭がなぜ仙台にいるのかが気になったが、声が出ない。喉が焼け付いたようにひりつく。牟宇姫が顔を動かすと、宗昭が水差しに手を伸ばした。
喉が渇いていたのは事実だし、水が欲しかったのも本当のこと。言わずとも理解してくれる宗昭を嬉しく思う反面、夜着の上に乗せられていた掌から、宗昭の掌が離れて行ってしまったことは、寂しかった。
「く、ま」
水を飲むと、喉がようやく声を絞り出すことができた。
「なにゆえ、そなた」
「殿から報せをいただき、馳せ参じた次第にございます。……無事にお気付きになられ、まことにようございました」
牟宇姫は小さく頷くと、部屋の中を見渡した。すみの姿が見受けられない。しかし、それを問いかけるよりも先に、胃の中のものが逆流するような感覚に襲われた。傍に置かれていた桶に、胃の中身をぶちまける。しかし、固形物は一切なく、ただ胃液を吐き出すだけに終わった。
(たし、か……わたくしはカステーラを食べて……そしたら急に息が苦しくなって……気持ち悪くなって……)
牟宇姫は辺りを見回した。しかし、そこにすみの姿はない。
「はは、え」
お山の方に、すみはどこにいるのかと問い質す。お山の方は眉間に皺を寄せながら、
「すみも、おりも一命は取り留めております」
お山の方が牟宇姫の傍に寄ると、頭をそっと撫でた。
「2人とも、意識は戻っていません。特にすみは飲んだ毒の量がそなた達よりも多く……。毒の正体が分からぬ以上、対処の仕様がありませんでした」
「姫様、吐き気と眩暈以外、何かありませんか?」
牟宇姫は吐き気、眩暈、息苦しさ、それから腹痛がすることなどを訴えた。
(すみ……)
牟宇姫は天井を見上げながら、視界を歪めた。
(わたくしのせいだ)
疑るすみを「大袈裟だ」と笑い、毒見を命じた。すみが目を覚まさないのは、牟宇姫とおりよりも多くカステーラを食べたせいだ。
「可能性は……曼殊沙華、でしょうか」
宗昭が苦々しそうに呟く。曼殊沙華は、畑などでモグラなどの獣を追い払うのに埋められる。花全体に毒があり、特に球根が毒素を多分に含んでいるという。人が口にしても死に至ることは稀らしいが、二度と歩けなくなる場合もある、と宗昭は言った。それに、稀である、というだけで死に至らないというわけではない。
「大丈夫、心配するでない」お山の方の掌は温かく、牟宇姫の目元を拭ってくれた。「すみは必ず目を覚まします。今は、自分のことを第一に労わりなされ」
お山の方は、牟宇姫が目覚めたことを報告するため、部屋を出て行った。牟宇姫と宗昭だけが部屋に残される。外では侍女達が慌ただしく動き回る気配がするのに、誰も部屋に入って来ない。一応、気を遣ってくれているのだろうか。
牟宇姫は体を揺らし、褥を出ようとした。しかし、一瞬揺れただけで、えずきそうになる。
「姫様」
「いろはさまを、呼べ」
支えてくれる宗昭の手の甲に、爪を立てる。
『――
すみは、口癖のように、恨み言のように、言い続けていた。ずっと、注意するように言ってくれていたのに。
伊達家の娘である前に、五郎八姫は徳川家の、他の家の嫁御寮でもあった女だ。真実信頼に足るか否かなど、考えるまでもないのに、上辺だけの優雅さに騙された。
牟宇姫が起き上がろうとすると、宗昭が力いっぱい肩を押さえて来た。
「離せ、熊」
「どこに行かれるのです」
「父上に、会いに行くのじゃ」
「おやめください」
床に倒れ込んだ牟宇姫の肩に力が籠もった。ついこの間まで、大して体格に差はなかった。年の差は、たったひとつ。しかし、牟宇姫がどれだけ暴れようと、押さえつけて来る手が緩むことはなかった。
「五郎八姫様が犯人と断ずるは、まだいささか早うございます」
「何が早い。わたくしもすみも、五郎八様の菓子を食べ、倒れたのじゃ。そうじゃ、おりはどこじゃ。おりは五郎八様の手先なのではないか」
「今、五郎八姫様は仙台におられませぬ」
「ならば、直接父上にお目通りを」
「――姫様」
宗昭が眉間に皺を寄せた。
「お聞き届けくだされ」
宗昭は厳かに告げた。
「五郎八姫様は、ご正室腹の姫御前。しかしあなたは妾腹の娘御にございまする」
「それはつまり」牟宇姫は唇を噛んだ。「わたくしが、五郎八様より格下と申すか」
「そうではございませぬ。なれど、お立場を弁えられませ、と進言しておりまする」
「分かった。もう良い」
牟宇姫の胸の裡は急激に冷えて行った。
大切な乳母が命を奪われかけた。その上、牟宇姫自身もまた、命を脅かされた。それなのに、政宗も宗昭も、五郎八姫を糾弾するなと言うのか。五郎八姫が、正室の娘だから、側室の子である牟宇姫は勝てないから、と。
「下がれ」
たとえ許婚であろうと、盃を交わさなければ、宗昭は伊達家の家臣でしかない。牟宇姫の一番の味方ではないのだ。
(どうして)
牟宇姫は枕に爪を立てた。
(熊は、わたくしが欲しいものをくれぬ)
宗昭が居住まいを正す気配を感じる。顔だけ振り返ると、宗昭が頭を垂れていた。
「ご無礼をお許しください。なれど姫様、どうぞご自分の目を信じてください。人の言葉ではなく、心の目で見なければ、真実は見えて来ぬものです。――御免」
顔を再び背け、牟宇姫は振り返らなかった。戸が閉まる音がすると、牟宇姫は堰を切ったようにうずくまった。それでも嗚咽を漏らさないのは、まだそう離れていない許婚に対しての、最後の自尊心である。
すみは、お山の方や政宗よりも近い立場で、牟宇姫の傍にいてくれた。口うるさくて、2人きりの時は愚痴ばかり零してくる女ではあった。それでも牟宇姫が間違ったことをすれば本気で心配し、怒り、危ない目に遭いそうになれば必ず護ってくれる。そんな人だった。
(もし、すみに何かあったら、わたくしはわたくしを赦せぬ)
牟宇姫は目元を拭った。
五郎八姫は正室の娘で、
(熊は、わたくしのことなぞまことにどうでも良いのじゃな……)
宗昭が大切なのは伊達家であって、牟宇姫ではないのだと改めて分かった。
牟宇姫が好きなのは、本当は澄んだ空のような色や、淡い桜の花弁のような色だというのに、贈られてきたのは、しゃれっ気なぞない、渋茶のような色の反物。
牟宇姫はただ一言、「お支え致します」と言ってくれればそれで充分だった。災難な目に遭ったと肩を摩ってくれれば、充分嬉しいのに。
宗昭は牟宇姫のことを何も理解していないし、理解する気もないのだと、改めて分かった。
牟宇姫は歪みかけた視界をもう一度拭うと、夜着を頭まで深く被り直した。
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