【質】


   *


 梅雨が訪れた。宗昭むねあき五郎八いろは姫が千台にいたことは、幻だったのではないかと思えるほど静かで味気ない日常が戻って来た。

 牟宇姫は庭師に頼んで伐ってもらった紫陽花を活けながら、雨の音を聞いた。

 じめじめとした空気と、髪が頬に張り付く。幸い牟宇姫の髪は硬く癖も少ないので良いが、癖毛気味の侍女達は大量に油を塗り付けて押さえなければならないらしく、朝の支度に手間取っていた。庭では、雨粒に驚いたのか、池の中の鯉がばしゃりと水を跳ね上げていた。

 実際に今の宗昭と会ったせいか、許婚の評価を見直したすみは、あれ以来牟宇姫の輿入れに関して文句を言うことはなくなった。むしろ「心穏やかに暮らせるなら」と、牟宇姫の婚儀を心待ちにしているくらいである。

(心穏やかに……か)

 かつて、政宗は天下を本気で狙っていたという。そんな父が娘の幸せを純粋に祈るだろうか。五郎八姫にしても、牟宇姫にしても、政宗にとっては生まれた腹が違うだけで、伊達家の姫という点においては、何も変わらない気がする。そもそもそんな殊勝な父親であれば、「むう」などという奇天烈な名を付けるわけがない。

(父上のお考えになることは、時々よう分からぬ)

 牟宇姫にとっては、大好きな父ではある。しかし、「独眼竜」の伊達政宗ではない。父であるあの政宗が好きなのだ。独眼竜は、理解しきれない、分からない相手だから苦手でもある。

「失礼致します」

 そこへ、侍女が入って来たことで牟宇姫は思案するのをやめた。見覚えのある顔である。牟宇姫は、なぜここにいるのか、と疑問を持った。なぜなら牟宇姫やお山の方の侍女ではなく、五郎八姫の侍女がいたからだ。

(あの時、花瓶を割った……)

「いかがされた」

 てっきり五郎八姫となにか約束をしていたかと焦りを覚えたものの、どうやらすみも寝耳に水だったらしい。すみが訝しげに問いかけると、ひっ、と侍女が肩を竦めた。すみの顔は怖いが、今、五郎八姫は仙台にいない。何故この侍女だけ――と、牟宇姫は首を傾げた。

「五郎八姫様からの、贈り物をお持ちしました」

 おり(・・)と名乗った侍女は、五郎八姫の乳母の名を挙げた。

「姉様から」

 牟宇姫は姉の名に、特段警戒することもなく破顔した。これまでも、江戸の五郎八姫から贈り物を届けてもらうことは、少なくなかった。

 おりは差し出した中身を開くと、「ひっ」と息を呑んだ。

 塗りの箱の中身――黄色いふわふわとしたものの側面を、茶色い皮が覆い隠している。箱いっぱいに甘ったるい香りが染み渡り、口の中に唾液が浮かんだ。

「これは……カステーラ、じゃな」

 幾度か、政宗が手ずから振る舞ってくれたことがある。口いっぱいに広がる甘さは、なんともいえぬ高揚感。卵の匂いと香ばしい焼き加減。苦手な茶も、カステーラと一緒ならば、2杯でも3杯でも飲むことができる。

「懐かしいのう」

 牟宇姫は口元を緩め、すみを見た。

「初めてカステーラを食べたのは、熊と一緒の時じゃ」

 宗昭と夫婦になることが決まった時である。2人の婚約祝いだと、政宗手製の南蛮菓子を振る舞ってくれたのである。初めて食べる異国の甘味に、牟宇姫はもちろん、宗昭もどう反応したらいいか分からなく、戸惑ったものだった。

「おり、礼を言います。五郎八様に、文を書くのでそれを持って帰ってもらえるだろうか」

 すみは怪しんでいたが、そもそもすみは、何事も大げさに考えすぎる節がある。

「すみは、大袈裟なのじゃ」

 先日だって、宗昭との婚姻を五郎八姫は大層喜び、江戸からわざわざ駆け付けて祝いを告げてくれたのだ。この菓子も、機嫌伺の品である。

 牟宇姫が手を伸ばすと、ぴしゃりとすみに手を払われた。

「独実も付けずに召し上がるなど、なりませぬ」

「毒味とな」熱を孕んだ手の甲を摩りながら、牟宇姫は頬を膨らませた。「五郎八様は、わたくしの姉上様なのだぞ。毒など、盛るはずがないでしょう」

「毒だなんて」

 おりが蒼褪めた。しかし、すみは睨み付けるように拳を握り締めた。

「いいえ、分かりませぬ。五郎八姫様はかつて――」

「またそのような世迷い事を」

 牟宇姫は溜息を吐いた。すみに見せつけるように、大きく。

 五郎八姫が松平忠輝の正室であったのは、もう何年も前のことだ。

 いくら政宗が「独眼竜」と恐れられ天下を狙っていた過去があったとしても、今は五十を過ぎた老人である。徳川が伊達家を取り潰す理由はない。

「いいえ。姫様が思うよりもずっと、徳川は伊達家を目の敵にしております。もっとも、かつての殿の所業を考えれば――」

「もう良い」

 牟宇姫はうんざりしながら、カステーラが入った箱を指差した。

「ならばすみ。そなたがこの菓子を毒味せい。そなたが食し、死ななければ、わたくしが食べても問題ないでしょう」

「ええ、それならば」

「そうなさい。カステーラは、本当に美味しい菓子、極上の品です。そなたも、お毒味の役目を忘れてしまうに違いない」

 すみはぱくぱくとその黄色い菓子を口に入れ、頬を綻ばせた。

「これは……なんと……」

 いつも気難しい顔ばかりしているすみが、表情を輝かせた。

 砂糖の甘さは、水菓子とは比べ物にならない。その上、空に浮かぶ雲のように柔らかい。毒味用に切った分も、すみはあっという間に食べ終えてしまった。

「すみ。疑り深いのは結構。なれど、今は乱世にあらず。もう少し、わたくしの傍にいる間は、肩の力を抜いておくれ」

 牟宇姫はカステーラを自ら切り分けた。すみの更にもう一切れ乗せ、自分の分と、そしておりの分を切り分ける。

「さ、そなたもいただきましょう」

「よ、よろしいのですか?」

「ええ。おりも、江戸から遥々疲れたでしょう。カステーラは、甘くて美味しいのですよ。すみも、今度は毒味ではなくただの茶菓子として食べてちょうだい」

「姫様……」すみが急に眼を潤ませた。「まこと、姫様は大きゅうなられましたな。すみは、嬉しゅうございます。牟宇姫様にお仕えできましたこと、この上なき果報として、心に刻みまする」

「急になんじゃ」

 突然の言葉に、牟宇姫は手をもじもじとさせた。

 おりが目を細めながら、2人の顔を交互に見つめる。

「お二方は、本当に仲がよろしゅうございますね」

 すみがおりの顔をじっと見つめた。睨まれたと思ったのか、おりははっと縮こまった。

「何を、当たり前のことを――」すみは呆れたように、深い声で言った。「私は、牟宇姫様の乳母なのですよ」

 牟宇姫はカステーラに噛みついた。得も言われぬ甘さに舌を打つ。思い出の中のカステーラとは少し味が違ったが、成長すれば、味覚も変わる。はじめて食べた時のような感動にならないのは、当たり前のことだった。

 おりも同じようにカステーラを食している。皿の上に生地の欠片を零しながら。

 すみは牟宇姫がカステーラを食べる光景をじっと見つめていた。食事の様子など、些細なことからも牟宇姫の体調の変化をうかがい知ることができる。すみにとっては、最早癖になっているのだろう。

 今更気にすることでもないので、牟宇姫は気にせずカステーラを飲み込んだ。

「おりは、五郎八様のもとにお仕えして長いのか?」

 牟宇姫はカステーラを食べ勧めながら問いかけた。おりはゆっくりと食べながら、まだ三月ほどだ、と答える。

「そうか。城勤めは慣れましたか?」

「よく、おたい殿達に叱られております。私が覚えが悪いせいで……」

「はじめのうちは、そんなものじゃ。五郎八様は優しいお方。ゆえに、安心してお仕えしておくれ」

 牟宇姫が微笑みかけると、おりも嬉しそうに笑った。ああ、笑うと存外愛らしいではないか――なんとなく嬉しくなった。

 ふと、どこからともなく隙間風が入っている。寒くはないが、随分と騒がしい。

(すみ、格子を閉めて)

 お願いしようとしたのに、声が出ない。そして、寒くもないのに手が震えた。

(あれ……?)

 胸が、苦しい。頭のどこかで、怒鳴り声が聞こえる。

(やめて。お願い。頭が痛い。気持ちが悪い)

 助けを求めるように手を伸ばす。牟宇姫が伸ばした掌を、誰かが掴んだ。

(父上、母上、すみ、五郎八様……)

 息ができず、体中が寒い。視界が激しく揺れ、起きていることもままならず、冷たい床板の上に倒れ込んだ。

(たすけて、熊――)

 いつも不貞腐れたような幼馴染の背に手を伸ばす。しかし、伸ばした手が宗昭に届くことはなく、牟宇姫の意識は途切れた。

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