【肆】



      ◇ ◆ ◇



 ◇◆◇



 すすり泣く声と、重くるしい風が部屋中を満たす。

 衣擦きぬずれの音と、ほほを流れ落ちる涙の雫。匕首あいくちを突き立てられたような胸の痛み。いっそこの身に刀を突き刺すことが許されていたのなら、どれほどよかったことだろう――。

 いつもなら、顔を伏せたり頬を膨らませたりすれば、夫はなんでも言うことを聞いてくれる。


 なんでもひとつ言うことを聞いてやる。だから、泣いてくれるな。


 その言葉は、仲直りをしようという合図であった。

 しかし、此度こたびは違う。夫が和睦わぼくを持ちかけてくることはない。当然ではある。そもそも喧嘩をしたわけではないのだから、和睦などできるはずがなかった。

「頼む」懇願するような口調は、夫の方がずっと多くの涙を流しているようだった。「儂を困らせないでくれ……」

 夫が唸るように、まなじり

「頼む」懇願するように、名を呼ばれる。「儂を困らせないでくれ……」

 夫が唸るように、眦を下げた。雨の下に置き去りにされた子犬のような顔だ。

「そなたに泣かれると、儂はどうすれば良いのか、見当も付かぬ……」

「そやけど、殿……」

 濡れた瞳で、夫を見つめる。同じくらい、悲しみを湛えた瞳と視線が絡み合う。しかし、未練がましい己と違い、夫の方は覚悟を決めていた。


 ――離れ離れになったが最後、二度と会えぬ覚悟を。


「私は、殿のお傍におるとお約束したのに。そやのにその約束、嘘になってまいます……」


 何があっても傍にいる。


 ずっとひとりきりで育った夫に、そう誓いを立てたのは他の誰でもない、自分自身だった。そして夫は嬉しそうに、はにかんで、その申し出に頷いてくれた。ずっと傍にいてくれと、望んだ返事とともに。

「……そなたが、好き好んで反故にしたとは思わぬ。儂とて、そなたが底意地の悪い女だとは思わぬ」

「やったら、連れて行っておくれやす。私は、どこやって平気や。殿と一緒なら、どないなことやて頑張れます。やから……!」

 夫の唇が震えた。こちらに向けて、傷だらけの掌が伸びて来る。しかし、いつもなら撫でてくれる指先が頬に触れることはなく、落ちた。

「……ならぬ」

 夫は自嘲するように唇を歪めた。

「この先、儂には何もない。そのような何もない旅路に、そなたを伴うことなど考えられぬ」

「殿!」

 立ち上がると、夫は縋ることさえ許さないように、素早く離れた。伸ばした手は空を切り、夫の袖を掴むことはできなかった。

「……殿……」

 戸に手を掛けた夫の背に、恨みがましく、濡れた声をぶつける。

「殿……」

 床板に突き立てた爪が割れ、赤く染まった。

「もし、私が#伊達__だて__#家の娘やなかったら……どこにも行き場のあらへんような身分の女子やったら、お供できたのでっしゃろか……?」

 返って来たのは、戸を閉める音。息災であれという言葉さえもかけてもらえない。

(いいや)

 頭を振る。そうではない。

 夫は、本来もっと感情をはっきりと面に出し、己を偽ることをしない人だ。まっすぐで、曲がったことを誰よりも厭う。だから、何も言わなかった――言えなかったのだろう。

(殿は、何も申されへんかった……)

 頬を撫でながら抱き締めてくれることはおろか、一緒に連れて行く気はない、と突き放すことさえしてくれない。

 いっそ、嘘でも足手まといだと罵ってくれれば、諦める理由になるのに。

(せやけど……きっと、それが殿のまことの想いなのどすなぁ……)

 胸に手を当て、下ろす。夫は、一番言いたかったであろう想いを隠した。もし夫が伝えてくれたら、自身も秘密を打ち明けるつもりだった。

(殿。今生では、二度とあなた様にお会いしまへん。そやさかい、この秘密は、私が墓場まで持って行かしてもらいます――)

 掌を重ね合わせる。これから起こり得るであろう夫の波乱に満ちた旅路が、少しでも歩きやすいものであることと、そして自分達に降りかかるであろう雨の冷たさに耐えられるように、未だ来たらぬ先々の行く末を、祈らずにはいられなかった。



 ◇◆◇

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