【伍】
*
三日後――
(なにもお天道様まで……)
運の悪さに不貞腐れていると、お
「お牟宇。じっとしていなさい。紅が塗れません」
「すみません」
頭を下げると、今度はすみから「動かないでください」と注意された。じっとしていろ、というのは、牟宇姫にとっては生身を裂かれるような拷問である。しかし、逆らえばあとでどのような罰が来るかは分からない2人だ。大人しくしているしかない。
牟宇姫の化粧を終えたお山の方は、満足げに頷いた。
「そのまま大人しくしているように。紅が落ちてしまいますから」
「……はい」
うやうやしく頷きながら、渡された鏡を覗き込む。鏡に映ったのは別人のようで、不安になる。そんな牟宇姫の後ろで、すみは器用に髪を結い上げた。
「姫様」
「ん?」
「打掛、とてもお似合いになられております」
牟宇姫はすみの言葉に頷き返しながら、そっと鶴の模様を撫でた。
鶴はまるで大空に羽ばたくのではないかと思うほど、細かく縫われている。2羽のうち、1羽は牟宇姫自身だ。
(そうだ。何を恐れることがある――)
牟宇姫は唇を結ぶと、前を見据えた。
(わたくしは、乱世の姫ではない。なれど、乱世を生きた、独眼竜の娘。輿入れは、女子の戦。
すみに礼を言い、牟宇姫は父が待つ広間に向かった。
広間では政宗や近習達、他の兄弟。側室達の中に、角田の一行――勿論、見覚えがある若者の姿もあった。
政宗は牟宇姫を、宗昭と並んで座らせた。牟宇姫は小さく礼を述べてから、膝を突いた。
座には政宗とお山の方がいる。傍には
「
兄弟の中で、一番政宗の傍に座る佳人は、牟宇姫に向かって穏やかに微笑んだ。
「少し見ぃひん間に、立派になって――ほんまに嬉しゅう思います」
ゆったりとした、京言葉。優雅なたたずまいに見惚れながら、牟宇姫は
「わたくしも、五郎八様にお会いできるとは思いませんでした。遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました」
「父上から、姫の晴れ舞台や言われては、来ぃひんわけにはいきまへんやろ。やけど、来て良かった。江戸のお土産をたくさん買うて来てます。後で差し上げましょ」
「江戸のお土産……まあ、それはとても楽しみです。では、後でお部屋をお伺い致します」
「……そのくらいで良いか」
政宗が咳払いをしたので、五郎八姫が頷く。牟宇姫は俯いたふりをしながら、隣を伺った。
(なかなか男前じゃな)
鬢付け油で整えられた頭には烏帽子を被り、銀の糸で石川家の家紋である
牟宇姫はつんとすました顔をしながら、そっけなく昨日の礼を言った。
「そなたが持って来た菓子は、甘くて美味しゅうございました」
「それは、ようございました」
「ただし、次はもっとたくさん買うて来ておくれ。2つは、いささか少なすぎる」
宗昭は小さく首を傾げた。
「しかし――世の中には、風情、というものがございます。姫様がお気に召されるかも分かりませなんだし……」
「ならば、別のものも一緒に持って来なされ。菓子と渋いお茶を楽しみながら会話するというのも、風情と呼べはしませんか?」
「……それは、一理ありますな」
宗昭は真剣に考え込んでいた。
「では、姫様が気に入られそうなものを、次はいくつかお持ち致しまする。姫様が角田にお越しになった時は、一番気に入ったものをたくさん用意致しましょう」
2人が話をするのを眺めながら、政宗は牟宇姫の輿入れを改めて宣言した。
「最も、輿入れしたとしても、お牟宇が
鬢削ぎ――顔の周りの髪を切り揃える儀式である。女人にとっての元服であり、同時にそれは、幼くして夫婦になった男女が正式に契りを交わす、という意味合いもあった。
牟宇姫は後で悪戯でも仕掛けてやろうかと内心で政宗を睨み付けながら、
(
と、願わずにはいられなかった。
広間から自分の部屋に戻ると、牟宇姫は肩の力をようやく抜くことができた。すみ以外の侍女を退室させると、打掛を脱ぎたくなった。今日は特別な日だったので髪は垂髪風に結ったが、もうそろそろいつも通り、総髪にしても良いはずだった。
すみは牟宇姫の肩から打掛を抜き取ると、皺にならないように整えながら壁にかけた。牟宇姫は無断で髪を解き手櫛で適当にまとめた。いつもならすかさず櫛で梳いてくれるはずなのに、今日は何も起こらない。不思議に思って振り返ると、すみはじっと打掛を見つめていた。金の鶴の模様を。
「すみ、如何した? うっかり汚してしもうたか?」
「いいえ。姫様にしては恐ろしいほど大人しくしておいででしたので、シミひとつどころか、塵ひとつ付いておりません」
「では、如何した。何か悩みでもあるのか?」
時に母より傍にいてくれた乳母である。
病を経てからというものの、すみは口うるさく、愚痴っぽくなった。しかし、牟宇姫が熱を出せば寝ないで看病してくれた。眠れない時は声を掛けるよりも先に、隣から来て添い寝してくれた。牟宇姫が何か傷つくことがあれば、誰よりも早く駆けつけ、守ろうとしてくれる。
もしすみが悩んでいるというのなら、牟宇姫ができる範囲で力になりたかった。
牟宇姫が拙いながらも一生懸命伝えると、すみが顔を上げた。いつも顰め面をしているすみの、珍しい、穏やかな微笑である。
「いえ。
民部、と言われても一瞬分からなかった。牟宇姫にとっては「熊」のまま。諱はおろか、仮名など呼んだこともなかったからだ。
牟宇姫は頬を染めた。
「てっきり、熊はわたくしとの縁組に不満があるのかと思うた……」
「何をおっしゃいます。主家の姫君を賜れるなど、これほど名誉なこともないことですのに」
「うん、分かっておる――分かっておるが、もし父上の命によるものゆえ、断れないのならば申し訳が立たないと……」
「姫様に不満がある者などおりません!」
すみが急に大きな声を出した。
「姫様は、太陽のようなお方。きっと民部様にとって、欠かせぬお方にございます。私がお育てした、大切な姫様。絶対に、よきご縁になります。……もう、心配はありませぬ」
「……何を言うか」
牟宇姫は目を細めた。視界が少し潤みそうになる。すみの胸に顔を埋める。白粉と香の匂いが混じった、女の匂いがした。
「もっと、もっと心配しておくれ。わたくしに、口やかましくお説教をしてくれる者は、そなたしかおらぬ。どうかこれからも、角田でも同じように」
背中で、すみの白い掌が弾んだ。恐い夢を見た時、すみはいつもこうして背中を叩いてくれたのを思い出す。
「将軍家と縁続きになるよりも、見知った親戚に嫁ぐことの方が、幸せかもしれませぬな……」
すみが何とはなしに呟いているのが聞こえる。
牟宇姫は頷きながら、宗昭の姿を思い浮かべた。記憶にいる熊増丸よりも引き締まった体と、太くなった腕、厚くなった胸。何より、傷だらけの手。毎日の鍛錬を欠かさない、努力することを知っている手だった。
「……きっと、よきご縁に……」
すみが続けようとした時、陶器が割れるような音が響いた。驚いた牟宇姫が振り返ると、廊に割れた花瓶の破片が散らばっている。
「何をしているのです!」
すみがすかさず眦を釣り上げた。ひぃっ、と破片の中にいた女が頭を下げる。
(確か、この者は……)
見覚えのある顔だ。五郎八姫が連れていた侍女である。健康的に日焼けした肌とは対照的に、黒目は小さい。右往左往する目は、可哀そうなほど怯えていた。
「すみ、やめて」
牟宇姫は立ち上がると、五郎八姫の侍女に近付いた。侍女の手の皮は割れた花瓶の破片が突き刺さり、血を流していた。
「すみ、手拭をちょうだい」
牟宇姫は渡された手拭いを侍女に向かって渡した。
「これで押さえてから戻りなされ。その手のままでは、五郎八様が心配なされよう」
「姫様」
すみが眉を潜めたが、牟宇姫は振り返らなかった。五郎八姫が抱えている侍女の数はそれほど多くない。しかしその分、侍女達の五郎八姫に対する忠義が強いのは、五郎八姫自身が下々の者にも心を砕き、配慮を欠かさないからだ。
「行きなさい。この花瓶は、わたくしが割ったのじゃ。それでよいな」
侍女はぽかんと口を開け、呆けていた。
「それでよい。――行け」
牟宇姫が命じると、侍女は慌てて頭を下げ、その場を辞した。
他の侍女達に片付けを頼みながら、牟宇姫は溜息を吐いた。メジロの羽のような、明るい色の花瓶だったのだろう。普段、桜色などの淡い色を好む五郎八姫には少々意外な趣味かもしれない。
「まったく、姫様は人が良すぎます」
「そうか? わたくしはよく花瓶を割ったり縁を踏み抜いたりして、母上やすみにはよく叱られているが」
「それはそうですが。……ご母堂様が違うご兄弟やその配下の者に、そうやすやすと気を許すものではありませぬ」
「またその話か」
牟宇姫は若干うんざりしたように顔を背けた。
すみは、どうしてそんなにも五郎八姫を目の敵にするのだろう。確かに、正室の娘が側室の子を虐げる――ということはある。伊達家に限らず、東北は
すみが戻って来た日、牟宇姫はお山の方に教わりながら、はじめて文を書いた。半月ほど経った頃に送り返された文は、美しい文字だった。礼には及ばないということと、文字が上手だと褒めてもらった。そして、そこから牟宇姫は五郎八姫とも文を交わすようになった。
「そもそも、五郎八様はわたくしと母娘ほども年が違う。しかも、互いに家督を継ぐ立場でもない。わたくしをいじめたところで、何の利がある?」
「利、は人にとってはそれほど重要なことではございませぬ」
すみは怖い顔をした。眉間の間に皺が寄り、白粉の粉がぽろりと落ちた。いつも愛想があまりないのを抜きにしても、険しい表情である。
「利があろうとなかろうと問わず、人は残酷になれるものです。その時に心が動いてしまえば、姫様に恨みがなかろうと、何者かが害意を与えようとたくらむかもしれません」
「五郎八様も、利の有無に問わず、わたくしを虐めるということか?」
「……そうやもしれませぬ。ゆめゆめ、油断なされませぬように」
(すみは、大袈裟が過ぎる)
五郎八姫は出会った時から今まで、牟宇姫に対して親切に接してくれる。手習いの見本に文字を書いてくれたり、京や江戸の珍しいものを贈ってくれたり。季節ごとの文も欠かさない。
(五郎八様にとって、わたくしは初めての妹。そして、五郎八様はわたくしの唯一の姉君)
他の姉妹達とは違う絆が、自分達の間にはある。そうに決まっている。牟宇姫は俯きながら、すみの言葉を聞き流した。膝を抱え、掌を見つめる。
すみは言い過ぎたのかと思ったのか、流石に居心地が悪そうだった。空気を変えるために、「そういえば」と口を開く。
「五郎八姫様のところに行かれなくてよろしいのですか? 確か、姉姫様はお土産をご用意されている、と」
「そうじゃ!」
牟宇姫は手を叩いた。五郎八姫は江戸からの土産を持って来ている、と言っていた。そして牟宇姫はそれを受け取りにいかなければならない。
「すみ、水を用意してくれるか? 顔を洗う」
「あら、せっかくのお化粧、落としてしまうのですか」
「化粧は、あまり向かん。肌が重苦しくて敵わぬ」
お山の方、すみ、五郎八姫……。奥で生活する女達は、白粉を塗り重ね、眉を描き、唇の上に紅を乗せている。わずかな時間でも、牟宇姫は顔じゅうに碁盤でもぶら下げられたような気持ちにさせられた。
すみが持って来てくれた桶で顔をよく洗う。手拭で濡れた頬を拭いていると、すみが髪を梳き直してくれた。右手には、藍の結紐がある。牟宇姫が一番気に入っている紐だ。
「姉様に、この間調合した香袋を差し上げようと思うのだが、気に入ってくださるだろうか?」
「ええ、きっと。姫様が一生懸命作ったのですから、気に入らぬはずがありません」
牟宇姫はえへへ、と笑うと、箱の中から桜色の袋を取り出す。
一番上の
「姉君ではなく、民部殿に差し上げればよろしいのに」
「良い。熊には別の物をやる」
綺麗な塗りの箱に入れ、先触れを出している間に添える文を書く。歌でもすぐに詠めたら格好がつくのだが、そこまでの教養はまだない。代わりに、会えて嬉しいのだという気持ちをしっかりと込めて箱に添えた。
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