【参】


      ◇◆◇


「――……様。牟宇むう姫様?」

 何度か呼びかけられ続け、牟宇姫ははっと我に返った。

 すみはやれやれ、とわざとらしい大きな溜息を吐いた。

「何度もお呼びしておりますのに。ぼうっとなされたりして……」

「ご、ごめんなさい。と、とにかく衣の方は、それで頼むぞ」

「仰せつかりました」

 すみはこうべを垂れると、ほかの侍女達に指示を出しはじめた。

 牟宇姫は御簾をくぐると、縁側に立った。日がすっかり高く昇っている。ちょうど、正午の鐘が鳴り響いたところであった。

 角田かくだの一行は、もう間もなく仙台せんだいに到着するだろうか。政宗まさむねに挨拶をしたら、宗昭むねあきは牟宇姫の部屋に来てくれるだろうか。

 甘い期待が胸をくすぐる。明後日みょうごにち、いよいよ牟宇姫と宗昭が来年祝言を挙げるのだということが、お披露目されるはずだった。


 熊増丸くまぞうまるが元服し、民部みんぶ宗昭と名乗るようになってから、会うのはこれがはじめてだった。


 熊増丸が度々仙台城を訪れていることは知っていたが、すみがなにかと理由をつけ、牟宇姫と会わせようとしなかった。

 牟宇姫としては、会いたい、という気持ちはあった。しかし、あの反物の意味を問うことは、怖い。もし宗昭が主命でしぶしぶ牟宇姫を娶るのだとしたら、切なくもある。

 文のやり取りは交わしながらも、顔を合わせるのはおよそ3年ぶりだった。

(熊、背が伸びたであろうか……)

 牟宇姫が目線を膝の上に落としていると、別の侍女に呼びかけられた。

「姫様。城下の石川いしかわ屋敷に、民部様ご一行がお着きになられたそうです」

「まこと?」

 牟宇姫は自分で思っているよりも高い声が出たことに驚いた。咳払いで仕切り直し、侍女に対して言葉を続ける。

「く――民部は、父上にご挨拶は済ませておるのか?」

「ええ。大殿じきじきにお言葉をかけられた、と……」

然様さようか」牟宇姫は侍女の横を速足で通り過ぎた。「あれも長旅で疲れておろう。わたくしの方から、顔を見に行ってやることにしよう」

「姫様」

 すみが呼び止めてきたが、振り返ることなく牟宇姫はずんずん廊下を進んだ。


 しょせんは武家の婚姻こんいん。父が決めた縁だ。牟宇姫に断る権利などないし、宗昭にとっては受け入れる義務しか与えられない。宗昭が牟宇姫を本心ではどう思っていたとしても、宗昭は牟宇姫を室として迎え入れなければならないのだ。

(わたくしが気に入らぬというのなら、別に……。側女そばめも許そう。……だから)

 その先に続く想いの名を、まだ精神的に幼いこの姫は知らない。

 庭に降り、本丸の方にまっすぐ向かう。歯を食いしばりながら小走りで辿り着いたのは、牟宇姫が宗昭と共有した場所――「ちょうどいい」木の下である。

(登って待つか。それとも……)

 しかし、2日後にはお披露目を控えている。仮に顔に傷でも作ったら、家臣達の前で面目が丸潰れである。政宗やおやまかたに恥を掻かせてしまうし、すみのかみなりも恐ろしい。

 何より、久しぶりに会う宗昭にがっかりされるのは悲しかった。


「――姫様?」


 記憶にあるよりも、低い声であった。牟宇姫はすみの呼びかけに立ち止まらなかったことを後悔した。きっとすみは、牟宇姫がどこに行くのかを察していたのだろう。そして、立ち止まっていたら髪を綺麗に結い直し、紅のひとつも差してくれたに違いない。

 ざっ、と土を踏み直す音がする。牟宇姫は振り返れないまま、うるさい鼓動を叱り続けた。


「――ご無沙汰しております、姫様」


 最後に会った時は、もっと声が低かった。それこそ、声だけ聞けば女かと思うほど。しかし、あの頃の熊増丸の声はもう聞くことができないらしい。

 ひ、と発した声は緊張で震えていた。

「久しいのぅ、熊」

 牟宇姫は勇気を振り絞って振り返った。

 宗昭は想像通り、その場に膝を突いている。深くこうべを垂れているので、どのような表情をしているかは分からない。

「熊、おもてを上げよ」

 命ずると、宗昭はゆっくりと顔を上げた。

「久しいのぅ、熊」

 牟宇姫はもう一度繰り返した。

(随分、様子が変わった)

 切れ長の、夜空のような瞳。白い肌。きりりと引き結ばれた、一文字の薄い唇。

 顔立ちそのものが大きく変わったわけではない。しかし、指は爪が欠けるほど傷だらけで、皮がけていて痛そうだ。肩幅も広くなり、華奢きゃしゃだった腕も太くなっていた。

「元気そうじゃな、熊。変わりないか?」

 立ち上がるよう促しながら、言葉をかける。宗昭は角田の者は皆、息災であること、近頃は祖父に教えてもらいながら、政務も積極的に取り組んでいることなどを答えた。

「姫様は、いかがお過ごしで?」

「文に書いたとおりじゃ。いつもすみや母上に叱られては、父上に慰めていただいておる。そのあたりのことは、近々送る文で仔細しさいを書いて教えてやろうと思うておったところであったが、そなたが仙台にくる方が早かった」

 ころころと笑って見せると、むっつりとした宗昭の頬が若干緩んだ気がした。

「姫様」

 真剣な呼びかけに、牟宇姫は肩を強張らせた。

「この間お送りした反物の方は、お気に召していただけましたでしょうか……?」

「あ、ああ――ええ、とても」

 牟宇姫は一生懸命、何度も頷いて見せた。

「青空のような、綺麗な反物であった。熊にしてはよきものを選んでくれたと、すみ達とも話しておった。いつぞやの古臭い反物に比べたら、進歩したようじゃの」

「……以前の反物のことは、贈った後でなぜ相談しなかったのか、と祖父に叱られました」

「あれは、ひどかった」

 しゅんとうなだれる宗昭がなんとなく可愛らしくて、牟宇姫は声を上げて笑った。そして、笑い飛ばすことができた自分自身に驚いた。

 花に興味はないと言わんばかりの色を寄越された時は、宗昭は自身に興味がないのだろうかと不安になったし、会うことに躊躇ちゅうちょしてしまった。それなのに、こうして会ってみると、胸に抱いていたわだかまりは一体なんだったのかと思うほど、話を弾ませることができた。

「……桜の花を、今年も一緒に見られませなんだな」

 宗昭が残念そうに言った。

「梅も桜も……です」

「かまわぬ」

 牟宇姫は宗昭の袖を引き、微笑みかけた。

「これから、何度でもともに見る機会はある。わたくし達は、夫婦になるのだから。これから先、何度でも。ずっと一緒なのじゃ」

 宗昭は、まっすぐに牟宇姫を見つめた。あまりにも熱っぽい視線なので、まさか口づけでも来るだろうか――と目を閉じて身構える。心臓が破れそうなほど緊張する牟宇姫に対し、宗昭はあっけらかんと、

「後程、角田の土産をお持ち致します」

 と言い放った。ちょうど、すみが駆けてくるところだった。宗昭は牟宇姫をすみに引き渡すと、あっさり立ち去ってしまった。

「姫様、また勝手に――」

「……すみ」

 牟宇姫はその場にへたりこんだ。すみが慌てて顔を覗き込んでくる。両手で顔を覆いながら、牟宇姫は煩悩にまみれた自らの頭を殴りつけたい衝動に駆られて仕方なかった。

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