【弐】


◇◆◇



 事が起こったのは、牟宇むう姫が8歳。宗昭むねあき熊増丸くまぞうまると名乗っていた頃のことである。


 なんの前触れもなかったのに、急に政宗まさむねの屋敷に呼び出されたのである。すみは「先にお伝えくだされば」と文句を言いながら、厭がる牟宇姫のことを押さえ付け小袖を着替えさせ、庭で子犬のように走り回っていたせいでぼさぼさだった髪をまとめた。およそ女子と思えない身のこなしで準備をさせられた牟宇姫は不貞腐ふてくされながら父の屋敷に向かったが、すぐにすみに感謝した。政宗に呼び出された広間には、行儀良く熊増丸が座っていたからである。

 角田から遥々やって来たであろうはとことの再会に喜んでいた牟宇姫と熊増丸は、唐突に政宗から、


「お前達は夫婦になる」


 と、宣言されたのである。

 驚いて何も言えない2人とは対照的に、熊増丸の祖父である昭光あきみつや、その他の家臣達は大層喜んでいた。

「お牟宇が生まれた時に、決めておった。お牟宇だけは遠くにはやらぬ、と。やるならば熊増丸にする、と……」

 感情の起伏が激しく、気に入らないことがあれば奥まで響くような大声で怒る政宗。しかし、その時見た政宗の顔は、今でも強く瞼の裏に焼き付いている。

「父上、お怪我をなされたのですか?」

 思わず牟宇姫が問いかけると、傍に控えていた政宗の近習が代わりに首を傾げた。

「姫様。何ゆえ、そのように思われるので?」

「だって、小十郎こじゅうろう――」牟宇姫は、父の顔をちらりと見た。「父上が、まるで転んだ時の熊と同じお顔をされているゆえ。もしかしたら、どこか傷でもあるのでは、と――」

 政宗が慌てて表情を変えた。いつもの、牟宇姫が最も見慣れている、穏やかな微笑みだ。

「何を申す。父は、怪我なぞしておらぬ――むしろ、可愛いそなたの輿入れが決まったのだ。嬉しくて泣きそうなくらいじゃぞ――おお、そうだそうだ」政宗は熊増丸を呼び寄せた。熊増丸が座に近付くと、政宗は元服するように、と昭光に勧めた。

「そうじゃな――儂の名と、そなたの祖父殿の名から一字ずつ取って、これからは宗昭むねあき、と名乗るがいい」

 政宗が熊増丸のことをいたく気に入っているということは、昔から周知の事実であったが、偏諱へんきまで与えるとは、熊増丸にかけた期待の大きさが窺い知れる。

(すごい……わたくしの熊は、きっと陸奥むつのなかでもとびきりのおのこなのかもしれぬ)

 話が済むと、大人達は一気に宴へと流れ込むようだった。そういえば、数日ほど前から、政宗は台所を出入りしていた。今日の膳も、政宗が音頭を取っているのだろう。

 熊増丸は、牟宇姫に庭へ行こう、と誘った。まっすぐ部屋に帰ったところで、牟宇姫がさせられることと言えば、机の前に座らされ、ひたすら手習いをさせられるだけである。それよりも、久しぶりに会えた熊増丸と庭を駆ける方がずっと楽しそうだった。

 庭に出ると、牟宇姫は桜の木の下に向かった。熊増丸がなにか言う前に、草履を脱ぎ捨てる。素足になると、うろに足の指を引っかけた。

「姫様、危のうございます!」

 熊増丸が慌てたように声を大きくした。

「熊、そなたも登れ!」

 牟宇姫はほつれた髪を耳にかけた。すみ辺りに見られたら「耳ばさみをするなどはしたない」と叱られただろうが、木登りに優雅さは必要ないのでこれで良かった。

「知っておるか、熊」器用に登りながら、牟宇姫は微笑んだ。「この木は、城内で二番目に高い。城下をちょうどいい位置から見下ろせる」

「ちょうどよい位置……でございますか」

「うむ」

 仙台城に天守てんしゅはない。もし存在したら、城下を一望できるのかもしれないが、ないものをねだったところで無意味である。

「一番高い木には登られぬのですか」

「わたくしにとっては、この木が一番良いのじゃ」

 この木よりも高かったら、牟宇姫はきっと登ることはできても、降りることができない。登り切ったところで、その高さに恐れを抱くかもしれない。城下を見晴らす余裕があるのは、この木の高さまでだ。


「熊、そなたもはよう参れ」


 牟宇姫が急かすと、熊増丸は観念したように、草履を脱いだ。

 牟宇姫の傍に昇った熊増丸は、おお……と声を漏らした。いつもむっつりしてばかりのはとこの見慣れぬ顔に、牟宇姫は満足そうに微笑んだ。

「熊、どうじゃ?」

「とても……とても、よろしゅうございます」

「そうであろう」

 得意げになりながら、牟宇姫は覚えておけ、と熊増丸の顔を見ず、樹木にしがみついた姿勢のまま言った。

「わたくし達は、まだ子供じゃ。この手に掴めるものは、たいして多くはないし、大きくもない。だが、そのわずかなものを守り、慈しむのが城主の役割である、と思う」

「わずかなものを、守り、慈しむ……?」

「父上が言っていた。えっと……そうだ。無理やり、抱え込めぬほどのものを手に入れたり、守ったりはしなくていい。いいから、とにかくできることをやっていく。うん、そなたは陸奥に忠義を誓わなくていいから、とにかく角田で頑張るがいい」

 うんうん、と牟宇姫は頷いた。もう少しかっこいいことを言いたかったのに、うまくまとまらない。顔が熱くなるのを隠すように、牟宇姫は木から飛び降りた。


 ……しかし、自分ができることが他者にもできるわけではないということを、牟宇姫はこの時知った。


 べしゃり、と鈍い音が響く。草履を履こうとしていた牟宇姫が振り返ると、熊増丸が蛙のように倒れていた。

「熊……?」牟宇姫は恐る恐る、熊増丸に近付いた。「……落ちたのか?」

「……はい」

 色白の熊増丸の顔は、耳まで真っ赤になっていた。膝も、袴の上がうっすらと血の臭いを放っている。

(意外じゃ……)

 物心ついた時から見知っているはとこは、大抵のことは器用にこなす印象があった。武術、馬術、舞……。失敗したのを見たことがない。しかし、木登りはあまり得意ではないようである。

「……情けのうございます」

 ひらり、と何かが熊増丸の頬から落ちた。てっきり泣いているのかと焦ったが、違った。桜の花びらが散り、熊増丸の顔に張り付いていた。

 牟宇姫は、熊増丸の頬に手を伸ばし、驚いた熊増丸から桜の花びらを引き離した。

「情けないことなどあるか、うつけめ。木登りができんでも、死にはせぬ。戦に出陣するわけでもあるまいに」

「ですが……」

「わたくしは、木登りはできる。だが、熊のような立派な字は書けないし、ひとつのことは落ち着いてやり遂げられぬし、長い文も書けぬし、しょっちゅうすみに怒られっぱなしだし……」

 それ以上、牟宇姫は言うのをやめた。これ以上言葉を重ねると、慰めるつもりだったのに、かえって恥をかいてしまう。

 牟宇姫は、熊増丸が打った膝を袖でそっと撫でた。血がつくのも構わず、水色の小袖を割れた膝の上に当てる。

 ひらり、ひらりと桜の雪が舞い降りる。二人は同時に、枝の隙間から見える空を見上げた。

「綺麗じゃのう、熊」

「……それがしは、いつまで『熊』ですか」

「ずっとじゃ。そなたは、わたくしの熊じゃ。死ぬまで、ずぅっとな」

 牟宇姫は熊増丸の目を見つめた。きらきらと輝く、夜空のような瞳には、舞い散る桜の花びらが吸い込まれていた。

「そなたとわたくしは、きっと二人で一人じゃ」

「二人で一人……それは恐れ多うございます。その、某は、臣下に過ぎませぬ」

「何を言う。わたくしは、そなたの嫁になるのじゃぞ」

 口にすると、くすぐったい。それを振り切るように、牟宇姫は言葉を続けた。

「そなたが木を登る時は、どこに足をかけたら良いのか、教えてやる。降りる時は、退路を見つけてやる。うっかり落ちることがないように、この牟宇が助けてやろう。その代わり、そなたもその身を賭して、わたくしを守り導くのじゃ。それならば良かろう?」

 熊増丸が目をしばたいた。否やと言わせないように、「良いな!」と脅すように問いかける。目を真ん丸くした熊増丸は大きく首を縦に振ったので、牟宇姫は満足げに頷いた。



      *


 角田からの使者が訪れたのは、熊増丸一行が角田に戻って、二月ほど経った頃だった。

 送られてきたのは角田の名物の他と、ていねいに包まれた反物である。

「随分とまあ……」

 すみが目を丸くした隣で、牟宇姫は熊増丸からの文を受け取った。

 文には先日のお礼と、次の年に元服の儀が執り行われることが決まったことが記されていた。


 それと、もうひとつ。


【姫様からいただいたお言葉の意を、日々噛み締めております。姫様とともに見上げた桜を思い出し、反物を贈らせていただきます。詳しいことは、次にお会いした時にでも】


 最後のあたりは、若干字が乱れていた。きっと、熊増丸もくすぐったいのかもしれない、と牟宇姫は解釈した。

(わたくしが熊を支えてやるのだ)

 牟宇姫は誇らしく思いながら、侍女が広げた反物を見て――固まった。

「あ……」

 すみも、他の侍女達も、どう言葉にしたら良いか分からぬようである。

 入れられていた布は、淡い桜の花びらのような色ではない。老緑や深碧などばかり。一番明るいのは、この中では青柳の布であろうか。

(桜を思い出し、て……)

 花を思い浮かべて選んだとは、到底思えない。反物が示している色は、花が散った後の、葉の色である。

「あんまりですわ」

 すみは牟宇姫の肩を抱き寄せ、まなじりを釣り上げた。白粉おしろい越しでも分かるほど、顔を染め上げている。牟宇姫はしゃくり上げた。

 一緒に見た桜の花など、熊増丸にとっては意味がない、というようだった。あの時かけた言葉も、熊増丸にとってはただの迷惑だったのだろうか。

「殿に言いつけましょう。このような男の元に嫁入りしたとて、姫様がお幸せになれるとは到底思えませぬ」

「やめてっ」

 牟宇姫は慌ててすみに縋り付いた。

「やめて、すみ。……すみ、後生ごしょうじゃ……父上には、どうか……っ」

 縋り付いて止めると、すみは逡巡しゅんじゅんしたように「承知致しました」と言った。苦々しい想いを隠そうともせずに。


(熊は、本当はわたくしと夫婦になるなど、厭なのかもしれない……)


 すすり泣きながら、牟宇姫は恨めしげに、青柳の布に爪を立てた。


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