【壱】
――4年後、
「
すみは、
「またその話?」
乳母の言葉に呆れながら、牟宇姫は
「だって、『むう』ですよ?」
と、ぶつぶつと繰り返し文句を重ねる。この愚痴を耳にしないのは、すみが宿下がりか何かで屋敷を数日開ける日くらいのものである。
つい4年ほど前までは、
江戸に行く前は、穏やかな人柄だったと記憶している。しかし、仙台に戻ってきたすみは別人のように、不愛想で愚痴が多い女に変貌していた。
はじめはあまりの変わりように驚いたし、
事情を知る前は、すみは牟宇姫のことが厭になったのではないかと不安になった。しかし、そうして苦しい思いをしてでも、牟宇姫のもとにすみは戻ってきてくれたのだ。愚痴も無愛想もうんざりすることはあれど、受け止めてやろう、という気分になった。
紙の上の墨は、まだ乾いていない。持ち上げて端のほうだけを軽く振ってみた。
「父上に以前お尋ねしたら、『むう』という言葉は、
「南蛮の?」
「うん。『ふぅわりとした』という意味があるそうじゃ」
父の
「……それだけでございますか?」
すみは怪訝そうな顔をした。
「それ以外に、なにぞあると思うてか?」
牟宇姫も怪訝そうに返した。
「なにかこう――願かけだとか、特別な
「ない、とはっきり仰せになられた」
牟宇姫は、文机の方に向き直った。墨がまだ乾いていない。風を送っても、封をするには早そうだった。
「一の姫様は、字面こそ男のものですが、『いろは』というお美しい響きですのに」
すみがぶつぶつと文句を重ねる。
「しかも、その男の字面とて、次こそは男児が生まれますように、という願かけのためのもの。それでは、まるきり牟宇姫様の価値がないと言うようなものでは」
「そのようなことはないと思うが。すみは考えすぎじゃな」
「しかし、いくら牟宇姫様が
「今更文句を言ったところで、仕方なかろう」
牟宇姫は溜息を吐くと、広げた紙を手に取った。墨がもう乾いていたので、封をする。膝に顎を預けながら、牟宇姫は、ぼんやりと生家に対して思いを馳せた。
牟宇姫の父は、かつて独眼竜と呼ばれ、東北を統一した男、仙台城主・
父母の年の差は、20歳。
同じ姫でも、腹違いの姉妹達は、字面こそ他家では聞くことは少ないが、特段違和感がある名ではない。兄や弟達にしても同じである(単純に元服して名を変えたから、というのもあるだろうが)。
あまりにもすみが不満そうなので、政宗は牟宇姫が生まれたことが嬉しくなかったのでは――と不安になったこともある。しかし、すぐ下の
伊達政宗は、牟宇姫にとっては穏やかで気のよい、優しい父だったのだ。
むう、という奇天烈な響き。他の兄弟達が声に出しても違和感の名であるのに対し、どうして自分だけ「むう」なのだろう――そんなわだかまりは、今でもある。しかし、他の兄弟が人質に出されたり、養子にやられたりしているのを思えば、父から分かりやすく気にかけてもらえる牟宇姫など、幸福であるに違いなかった。
「それに」すみはそれでも不貞腐れたように、眉間に皺を寄せた。「嫁ぎ先についても、もう少し考えてくださっても良いはずです」
「何じゃ、すみ。そなた、父上がお決めくださったご縁に不満があるのか?」
「五郎八姫様の嫁ぎ先に比べ、差があり過ぎます。五郎八姫様は上様のご子息に縁付いたというのに、牟宇姫様はたかだか家臣の若造に
「すみ。わたくしは皇女ではない。降嫁、というのは適切ではないと思うがの。わたくしは皇女ではないのだから」
「似たようなものです。五郎八姫様は離縁されたといえども、嫁入りしたお相手は、徳川のご子息でした。せめて牟宇姫様も、他の大名家でも良いではありませんか。何も、家臣でなくても――」
すみの言うとおり、牟宇姫が嫁ぐ相手は徳川の血筋ではない。そして、他家の大名でもない。
牟宇姫の
主家の姫と家臣という立場ではあるものの、血筋が遠く離れていないこと、年が近いことなどもあり、牟宇姫は宗昭を気に入ってよく部屋に呼んでいた。宗昭も仙台に来るたび、牟宇姫に会いに来、一緒に貝合わせや蹴鞠などをすることもあったし、今もこうして、たびたび文を交わしている。
政宗は牟宇姫が生まれた時に皆の前で、
『この子は、遠くにはやらぬ』
と宣言し、当時数えで2歳だった宗昭にやる、と家臣達の前で言ったらしい。
当初は牟宇姫がもう少し成熟することを待ってから祝言を挙げる予定であった。しかし、宗昭の父が急死し、予定が狂った。宗昭は10歳の時に熊増丸の名を捨て元服したものの、いまだに祖父・
(でも、一年後にわたくしが嫁ぐということは……父上のお眼鏡に叶った、ということだ)
牟宇姫は慣れ親しんだはとこの成長ぶりを嬉しく思うと同時に、そんな少年が自らの夫になることを誇らしく思った。
「ですが」
それでもなお、すみは牟宇姫に食い下がった。
「姉君の五郎八姫様の嫁いでいた
「すみ、やめよ」
牟宇姫は、乳母をキッと睨み付けた。
「それ以上、言うでない。これ以上申したら、わたくしはそなたを罰するよう、父上に申し上げねばなりません」
すみははっとしたように固まった。
「わたくしは、父上のことを尊敬しておる。否、父上だけではない。家中の誰ものことが、好きじゃ。ゆえに――大切な方々を侮辱されるのは嫌いじゃ」
「申し訳ございません。出過ぎたことを――」
すみが頭を伏せた。額を床に擦りそうなほど下げる乳母に近寄り、牟宇姫はその肩を優しく叩いた。
「すみ。そなたがわたくしのことを誰よりも案じてくださっていることを、わたくしは誰よりも存じておる。なれど、わたくしは父上がくださった縁組に、なんら不満はない」
姉の五郎八姫と牟宇姫は、母が違う。五郎八姫は、正室・田村御前の娘である。政宗の中ではどちらも大切な娘だろうが、扱いに差が生じてしまったとしても仕方のないことだし、姉妹を同等に扱っては、正室である田村御前の
その五郎八姫とて、数年前に夫・忠輝と離縁し、伊達家に出戻った身だ。大坂攻めでは兄・
五郎八姫と忠輝は仲のいい夫婦だったらしい。五郎八姫は離縁に対して抵抗はしなかった。しかしただ一言、近しい侍女に対し、
――もし私に帰る家がなかったら……私が、伊達の娘でなかったら、殿とともに行けたのであろか……?
と、涙ながらに零したそうだ。
すみは五郎八姫に対しいい感情を持っていないのであろう。ことあるごとに五郎八姫と牟宇姫の扱いの差を比較しては、文句を言う。特に、一時とはいえども将軍家の子息に嫁いでいた五郎八姫と、家臣に嫁がされる牟宇姫との境遇の差には、不満をあらわにしていた。仮にも病に伏した時は世話になった身の癖に、と嫌味を言うと、「それとこれは別だ」と開き直られてしまった。
(それでも――わたくしは、きっと幸せな
同じ伊達の姫でも、顔も知らぬ夫に嫁ぎ、心を通わせたにも関わらず、身を引き裂かれるように別れさせられる。五郎八姫は江戸を拠点にしつつ、田村御前に会うために京に、父の政宗に会うために仙台に――と、渡り歩かされている。しかし、色々な土地に移り住みながらも、忠輝と会うことは許されていない。
望まぬ相手に嫁がされ、望まぬ別れを強いられる。そんな姉に比べれば、昔から見知った宗昭に嫁ぐことができる自分は、稀に見る幸運である、と牟宇姫は自覚するのだった。
「そうだ、すみ」
牟宇姫は手を叩いた。
「この間頼んだ衣は、仕上がったか?」
「いえ、まだ仮縫いの最中で……。ですが、型はできております。ご覧になられますか?」
牟宇姫が頷くと、すみが隣の部屋に案内した。立てかけられた衣を見つめ、牟宇姫は頬をうっすらと染めた。
普段、牟宇姫はそれほど
(熊め、やるではないか)
牟宇姫は空のような、澄んだ瞳をより一層輝かせた。
正月頃、角田から牟宇姫の機嫌を伺う文と、贈り物が届けられた。
【先日お会いした姫様は、以前お逢いした時よりも一層輝いておられ、驚くことしかできずにおりました。宴の席ではあまり言葉を交わすこともできず、口惜しく、また、寂しい想いを背負ったまま、角田へと帰りました。
こちらの梅は、もうこぼれ落ちてしまいました。仙台も、同じくらいでございましょうか。姫様と一緒に花を
反物や菓子などをいくつか、贈らせていただきます。お好みに合えばよろしいのだが、と心配でなりません。
五月頃には、仙台のお城へお邪魔致します。その時まで、桜が散ることなく残っていればよいのに。姫様のお庭の桜を愛でられることを祈っております】
最後に日付とともに、差出人の名が記されている。【熊】と。
熊、というのは、牟宇姫が宗昭を呼ぶ時の名である。幼名の名残をそのまま定着させた。宗昭は元服したばかりの頃は、「もう熊ではない」と否定していたが、牟宇姫が一向に直す気がないので、やがて諦めてしまった。二人の間では、ずっと宗昭は「熊」のままである。
(熊は良いなぁ。強そうな名で)
はとこのことを羨ましく、父のことを恨めしく思いながら、牟宇姫は下げられた打掛を見つめ直した。
宗明が贈ってくれた反物で、すみが仕立ててくれた。
青藍の生地の上に、金糸で縫われた二羽の鶴。他にも牡丹や梅などの花の模様も刺してある。
普段、どちらかと言えば薄浅葱や桜色など、淡い色を着せられることが多い。こんなに濃い色を着るのは、はじめてのことかもしれなかった。
「さすがじゃな、すみ。この鶴、見事じゃ。今にも空に向けて羽ばたいてきそうではないか」
「大事な姫様のためですもの。お方様からも、『とびきりの品を』と頼まれましたゆえ、丹精を込めて仕立てさせていただきました。よろしければ、着てみられますか?」
一瞬心が揺れたが、牟宇姫はううん、と首を横に振った。
「今は、いい。その代わり明後日のお披露目の儀までには仕上げてくれる?」
「承知致しました。婚礼衣装の方も急ぎ仕立てておりますので、出来上がり次第、そちらも合わせてみなくてはなりませんね」
すみに頷いて見せながら、牟宇姫は青藍の生地をじっと見つめた。今着ている梅色の小袖とは対照的な、深く鮮やかな色である。金糸で縫った二羽の鶴は仲睦まじそうに並んで飛び、他にも牡丹や梅、松などめでたい花や植物が縫われていた。
「帯は、牡丹の葉や松に合わせ……そうだ。青柳の帯にしてはいかがでしょう」
「青柳……」
「お気に召しませなんだか?」
「いいや」
牟宇姫は慌てて頭を振った。
「その、自分ではよう分からぬゆえ。帯もすみに任せる。髪紐も、足袋も、すべて」
すみは呆れたように承知致しました、と頷いて見せた。牟宇姫は息を吐きながら、打掛の中にある、牡丹の葉を見つめる。
(青柳……か)
思い出したのは、3年前の春のこと。まだ桜が咲き誇る、よく晴れた日のことだった。
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