天翔姫

水城 真以

【序】


      *



 優しくて、温かくて、甘くていい匂いがするひとだった。


 母よりも少しだけ簡素に髪を梳いて、母よりも濃い目に白粉おしろいはたき、薄く紅を刺した姿は、絶世の佳人と呼ばれるほどではない。それでも牟宇姫にとっては生まれてはじめて、誰かを


 ――美しい


 と感じた相手であった。

 その乳母は、ある日突然牟宇姫の前からいなくなってしまった。もう、半年も前の話である。母にどうして、どうしてはいなくなってしまったの、と泣きじゃくりながら毎日問いただしていた。しかし、その度に母・おやまかたは、牟宇姫に対して「もう会えぬのですよ」と繰り返すだけであった。

「どうして、もう会えぬの。すみは、牟宇のことがきらいになったの?」

「そうではありませぬ。ただ、すみは御仏みほとけのもとへ呼ばれてしまったのです」

「みほとけ、とは一体なんじゃ? すみは、牟宇の乳母であろ。だのに、なにゆえ……」

 めそめそとまた、牟宇姫は泣くきながらお山の方の膝に顔を埋める。お山の方は柳眉りゅうびを下げながら、牟宇姫の髪を指で梳くだけだった。


 その時であった。


「失礼致します」


 聞き慣れない、若い女の声が響いた。あ牟宇姫はお山の方の膝に顔を埋めたまま、起き上がろうとしなかった。代わりに、お山の方が返事をした。

 次の瞬間、お山の方は、あっ、と驚いた声を漏らした。牟宇姫は、母につられて顔を上げた。

「前触れも出さずに申し訳ございません、お山の方様。牟宇姫付きの侍女――すみ殿が里から戻られたところに行き会ってしまい、つい……」

 今度は牟宇姫が甲高い声を上げた。

 入口にいたのは、牟宇姫がずっと探していた乳母であった。記憶にあるよりも少し覇気はきはなかったが、それは然程重要なことではなかった。


「すみっ!」


 牟宇姫はお山の方の膝から飛び跳ねると、すみに抱き着いた。

「すみ、すみ、すみ……」

 何度も何度も名を呼びながら、侍女の顔を見つめる。

 厚く塗られた白粉。濃く引かれた眉。紅を重ねた唇。

 切れ長な漆黒の瞳が、牟宇姫の姿を映し出している。

「すみ、よう戻った。牟宇のところに……戻ってきてくれたのじゃな。よかった……。母上がな、もうそなたに会えぬなどといじわるを言うのじゃ。そのようなことはないと、牟宇にはわかっておったぞ! 帰ってきてくれて、まことに嬉しい……」

 前ならば、すみは真っ先に牟宇姫を抱き締め返してくれたのに、すみの腕が牟宇姫の背に回されることはなかった。わずかな寂しさと空虚な感覚は覚えたものの、牟宇姫はようやく会えたすみの温もりを愛しく思った。


「……ありがとうございます」


 隣で、お山の方と見慣れない侍女が何か話していた。

仔細しさいは存じ上げております」

 と、お山の方が言った。

五郎八いろは姫様の……」

「はい。と申します」

 たい、と名乗った見慣れぬ侍女は、安堵したように見えた。たいは牟宇姫の顔を見ると、穏やかな微笑を浮かべた。

「以前、姫もお会いになったであろう」

 お山の方に言われ、ぼんやりと「いろはひめさま」のことを思い出す。

 そういえば、そんなこともあった気がする。

 一年ほど前に、一月ひとつきだけ仙台城せんだいじょうの西の館に暮らしていた、腹違いの姉姫がいた。京で生まれ、今は江戸で暮らしているはずだった。時折お山の方が文を交わしていたり、父が話していたりするのをなんとなく聞いていた。


 今年7歳になる牟宇姫より14歳も上の、姉というよりも母と呼んだ方がいいような存在である。


「いろはさま……」


 牟宇姫はぼんやりと異母姉あねを思い浮かべながら、すみを見上げた。

「すみは今まで、いろはひめさまのもとにいたのか?」

 すみは頷いた。

「いろはひめさま……とてもおきれいな方だった気がする……」

 すみはまた頷いた。

「すみ、いろはひめさま、はどのようなお方じゃ?」

 すみが里に戻ったのは、重い病に侵されたためだった。

 すみの看病をしてくれたのは、五郎八姫なのだろうか。江戸であれば仙台よりもいい薬があるのかもしれない。あるいは、京で育った五郎八姫であれば、よりよい薬師との繋がりがあるのかもしれなかった。

 すみの主として、きちんと五郎八姫に礼を述べなければならないと、牟宇姫は思った。

「五郎八姫様は、牟宇姫様がおっしゃられるとおり、とても美しいお方でございます」

 でも、とすみは表情を変えないまま言った。


「姫様がお気になさるようなことは、なにもありませなん」


 すみの能面のような不愛想が怖くて、牟宇姫は思わず竦んだ。ゆっくりとばれないように目をそらし、香の匂いがする衣に顔を埋めるので精いっぱいだった。




   ◇◆◇




 幼い自身が、そこにいる。


 まるで他人事ひとごとのように、その光景を見つめている。

(ならぬ)

 姫は、必死で声を出そうとした。しかし、痺れる喉からは声どころか息さえもまともに出すことができなかった。

 それでも、懸命に叫んだ。わが身と、大切な者を守るために。


(その者に心を許しては、ならぬ――)


 音も息も出せないもどかしさが響き渡る。青空の下で、地獄の業火の花に包まれながら――。

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