甘い勉強会

「……痛い……」


 学校が終わって家に帰宅した蒼は、部屋着であるジャージに着替えてテーブルに教科書とノートを広げて宿題をやろうとしたが、痛みでシャーペンを持つことすら出来ないでいる。

 昼ご飯を食べてから右手首が赤くなってしまって結局は保健室に行き湿布を貼って手当てしてもらった。

 保険医が言うには骨に異常はないようだが、痛みが酷いようなら病院で看てもらった方がいいとのこと。

 午後の授業はまともにノートを書くことすら出来ず、啓介に頼んで職員室でノートをコピーさせてもらった。

 ノートはいつでも見れるから問題ないが、宿題が出来ないのはしんどい。


「兄さん、入ってもいいですか?」


 コンコン、とドアをノックする音と声が聞こえたので、蒼は「どうぞ」と言う。

 ゆっくりとドアが開けられ、白いブラウスの上に黒いワンピース着た瑠奈が入ってきた。


「どうした?」


 いつもは蒼の部屋に入ってこようとしない瑠奈が来たのだし、よほどのことがあるのだろう。


「手首は大丈夫ですか?」


 包帯が巻かれた手首に赤い瞳が向いている。

 自分が避けなければ怪我をすることがなかったのに……と思っていそうなほどに瑠奈の顔は悲しげだった。


「大丈夫。これから宿題を……あぎゃ……」


 やはり痛みでペンを持つことが出来ない。

 右利きだから左手では上手に書くのは不可能なので、今日の宿題は諦めるしかないだろう。


「大丈夫じゃないじゃないですか。病院行きますか?」

「行かない」


 捻挫なのだから安静にしていれば治るため、いちいち治療代がもったいない。

 なので瑠奈に大丈夫と思わせるように、痛みを我慢して右手でシャーペンを持つ。

 痛みのせいで上手く力が入らないが、瑠奈に心配させるわけにはいかないのだ。

 表情が歪みそうになる痛みを我慢しつつ、きちんとシャーペンを持って離さない。


「しょうがないですね。ただ、ペンを持つのは左手にしてください」


 呆れたような表情になりながらも、瑠奈はこちらに近づいてくる。

 病院に連れて行くのは諦めてくれたようだが、こちらに来る理由がわからない。


「もしかしてだけどぉ~、俺ぇとイチャつぅきたいんじゃないのぉ?」

「アホですか?」


 音楽に乗ってナルシストのコントをしているお笑い芸人の真似をしたら、これ以上ないくらいに蔑んだ目で見つめられた。


「ボケを真顔で返されてお兄ちゃん悲しい……」

「はいはい、ボケはいいですから早くペンを左手で持ってください」


 ため息混じりに言われ、蒼は素直に頷いてペンを左手で持つ。

 でも、利き手じゃないから変な持ち方になってしまい、このままでは間違いなく誰も読むことが出来ない字を書くことになるだろう。


「宿題する前に一つお願いがあるんですけど……スマホから流れている私のボイス止めてくれませんか?」

「無理。俺は部屋で一人でいる時は常に瑠奈の写真を見て声を聞いている」


 瑠奈がいない時はどうしようもなくやる気が出ないため、彼女の声を聞きながらじゃないと宿題がまともに出来ない。

 沢山録音したのをパソコンで声を繋ぎ合わせ編集をし、スマホでいくらでも好きな時に最愛の妹の声を聞けるようになった。

 なので止めるなんて無理な話だ。


「兄さんは、生の私の声より……録音した声のが好き、なんですか?」

「何を言っているんだ。生のがいいに決まってるじゃないか」


 証拠を見せるために、すぐさまスマホから流れている声を止める。

 悲しそうな声で言われては止めざるを得ない。


「よろしい。では宿題を始めましょうか」

「どうするんだ? 左手ではまともに書けん。今は右手でもだが」

「こうします」


 後ろに回り込んできた瑠奈は、ペンが握られている蒼の左手に自分の手を重ねた。

 温かい、いや、手が相当熱くなっているのは恥ずかしさからだろう。


「私が手を添えて、兄さんのサポートをします」


 耳元で吐息混じりの……物凄く恥ずかしそうな声が聞こえた。

 恥ずかしい思いをしてまでこんなことをするのは、自分が避けなければ兄に捻挫をさせることはなかった、と思っているからかもしれない。

 普段瑠奈からくっついてくることはないため、嬉しさのあまり力が入らなくなる。

 今日は甘い言葉を囁かれたり、あーんって食べさせてもらったりと、幸せなことばかりだ。


「ちょ……兄さん?」


 背中を瑠奈に預かるようにしてもたれかかったのだが、驚いたのか彼女は大きな声を出す。

 普段はクールなため、驚いたような声を出すのは本当に珍しい。


「瑠奈から触れられたら力が入らない」

「そんなこと言ってないで宿題をしますよ」

「分かった」


 宿題をやらないといけないのは確かなので、蒼は体勢を整える。


「今日は数学なんですね。私はあくまでサポートですので、問題は兄さんが解いてくださいね」

「はいよ」


 瑠奈の手を借りながらも、なんとかノートに文字を書いていく。

 普段右手で書くよりかは上手い文字ではないが、瑠奈がサポートしてくれたおかげで読める字を書くことが出来た。

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