第42話 宿命と冒険者 1-1

 重い瞼が開く。

 真っ白で簡素な天井、蛍光灯がチラチラとする光を放っていた。

 窓より降り注ぐ日光はレースカーテンによって優しく淡くなって部屋をほんのりと照らし、それでも十分なように思えたが誰かが不足に感じて電灯をつけたのだろう。

 太陽が一枚の薄い布の向こうでおぼろげな輪郭を作っていた。

 その高さから考えて、もうじき昼も過ぎる頃合いだろう。

 『――あぁ、あ。』

 ここは何処だろう。

 そんな疑問を訴える素朴な言葉は喉でつっかえ、擦れた呻き声のようなものだけが吐き出された。

 ハッと息をのむ音が聞こえ、ほんの少しだけ動く首を回してそちらを見る。

 どういうわけか体の自由が利かない。

 驚いた顔で見下ろす白衣の男性が一人、見覚えのある少女の顔が一つ、懐かしく感じる老夫婦の顔が二つ。

 白衣の男性は一見して若そうに見えたが、その口元の皺や白髪交じりの髪から思ったほど若くないか、余程の苦労を日々しているのだろうことが分かる。見覚えのある少女は制服姿できっと高校生くらいだろう。

 酷く懐かしい老夫婦は、思い出そうとすると頭が痛んだ。

 泣きそうな顔を見ていると胸が少し苦しくなり、でもなんだか安心する事からきっと特別な関係なのだろう。

 『信じられない。……奇跡だ…………!』

 白衣の男性は漫画のように目を真ん丸にする。

 まるでコメディアニメのキャラクターのようで、失礼だと分かっていてもクスリと笑ってしまった。

 『アナタ、笑いました……この子、笑いましたよ!!』

 『ああ、ああ……。』

 ボロボロと涙を流して大喜びをする老婆と、その肩に手を置いて涙ぐむ老爺。

 何を感動しているのか、可笑しいものを見れば笑いぐらい零すものだろう。

 『本当に、本当に良かったです。』

 そっと優しく手を取った少女が涙に潤んだ目でそう言った。

 『ぃっ――たい―――――。』

 先ほどよりは回るようになったが、やはり口は思い通りに動かない。

 せめて体を起こそうとするとビリリと衝撃が走って本能的に体が動くことを拒否した。

 『ああ、ダメですよ! 意識が戻っただけでも奇跡なのです。今は安静に、無理をしてはいけません!』

 慌てた様子で白衣の男が注意をした。

 何がどうなっているのか。

 分からない事ばかりだが、心配はいらないとこの場にいる誰もがその顔で教えてくれていた。

 だから少し休むことにした。

 ここは安心できる場所みたいだから。


 「――観測を継続します。」


 声が聞こえ、目を覚ます。

 『どうしたの?』

 『え、ああ……なんでもない。』

 青年は首を横に振って少女に答える。

 病院の庭に設置されたベンチに腰を下ろして暖かな太陽を全身に浴びながら。見上げると眩しくて、思わず手をかざし手を真っ赤にしながら影を作った。

 風に乗って聞こえてくる鳥の声は春を歌い、そよぐ葉たちがどの伴奏を行う。

 どこまでものどかで平穏な世界。

 『あの。』

 『どうしたんだい?』

 『あ、いえ。何か考え事の邪魔をしてしまったみたいで、ごめんなさい。』

 『謝ることは何もないよ。』

 『でも、私のせいで大怪我だってしてしまって……。』

 『それは偶然そうなっただけさ。それにあくまで僕がやりたいようにやった結果だから。』

 信号を無視してきた暴走車のひき逃げ事件。

 本来ならば犠牲となったのは目の前の少女で、最悪の場合は命を落としていたかもしれない。

 でもそうはならなった。

 ただのお節介で無茶をした馬鹿な青年が、一時的に昏睡状態に陥っただけだ。

 別に誰かが亡くなったわけではない。別に取り返しのつかない傷を負ったわけでもない。

それに犯人だって捕まったのだ。悲しむ必要のある人は誰もいないだろう。

 だから――。

 『そんな顔はしないで欲しいな。』

 『でも――。』

 落ち込んだ影の射す顔。

 青年はその顔を、頬を唐突に掴んで持ち上げて見せた。

 少女は一瞬、自分の身に何が起きたのか分からず硬直する。

 しかしすぐさま頬っぺたを掴まれ悪戯をされている事に気がついてアワアワとしながら離れた。

 『な、何をするんですか!』

 『ふふ。そうそう、そっちの方がずっといい。』

 『ふざけないで下さい!』

 『ふざけてなんかいないよ。』

 そう青年は笑った。

 少女はぷっくり頬を膨らませて抗議する。

 しかし続く言葉が何も思いつかなかったようで一言『バカ。』と文句だけを言った。

 

 ――暗い顔してると気持ちまで暗くなるものなんだぜ。


 頭が割れるように痛む。

 『どうしたの?』

 誰から教わった? 誰が教えてくれた? 誰が――。

 思い出せない。しかし、それはとても大切な事だった気がする。

 思い出さなければいけない気が。

 『……ああ、そうか。僕は、大切なことを忘れているんだ。』

 『何を言っているの?』

 『ゴメン。勝手だと分かっているけど、でも行かなきゃいけない場所があるんだ。』

 『だから、何を言っているの? 行かなきゃいけない場所なんか、そんなのここの他に無いでしょ?』

 愕然とした顔。少女は受け入れない事を目の前に困惑する。

 『ゴメン。』

 ただ、一言そう謝る。他に掛けられる言葉は何も思いつかなかった。

 『……本当に、行かなきゃいけないの? そんなに大切な場所なの?』

 『うん。』

 『そっか。』

 暫し、気まずい沈黙が二人の間に立ちこめる。

 『…………うん分かった。仕方ないけど、そこまで言うなら行くしかないね。』

 無理に明るい声はどこか空虚に響く。

 しかし、それが彼女に出来る今の精一杯なのだ。

 『本当に、ごめんね。』

 『もういいよ。君がそういう人だってことは、私がきっと一番よく知ってるから。……頑張ってね!』

 華奢なその体を力強く抱きしめ、それから青年は立ち上がり駆けだす。

 大切な何か、それを思い出さなければならない。たとえ一つの可能性失うとしても。

 使命に突き動かされるように足はひとりでに進んだ。

 やがて驚いた顔の白衣の男性を通り過ぎ、そして悲しい顔の老夫婦が目の前に現れた。

 『行くのかい?』

 老爺が静かに尋ねる。

 『うん。ごめんなさい。』

 『謝る必要なんかない。こうして目を覚ましてくれたことが――もう一度話せたことが奇跡なんだ。』

 『うん。』

 『元気にするのよ? ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、友達もたくさん作って。』

 『……うん。』

 『何処に行っても、お前は私達の自慢の息子だ。本当の……息子だ。』

 ――アナタを引き取ったあの日から、そしてこれからもその気持ちは変わらないよ。

 『いってらっしゃい。』

 『行ってきます。……今までお世話になりました!!』

 込み上げる涙を我慢する。笑顔をいっぱいに作ってみせ、振り返らず青年は止まった足を再び動かす。

 一歩、一歩、歩くたびに世界はガラスのように砕けていった。


 「――選択を確認しました。」

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