第23話 転生者と奴隷少女 4-4

 魔獣と果物の一件から三日が過ぎた頃、サレナはいつものようにテーブルで勉強をしていた。

 今日は苦手な数字に関する勉強で、クリュスの監修した“非常に簡単な”問題の書かれた一枚の紙を相手に既に三時間はかけている。

 足し引きなどの基本的な部分は問題なく、掛け算や割り算も時間はかかりつつ習得した。しかしこの“ほうていしき”とやらは、どうしてこのように分かりにくいのか。一応は解説のようなものも書かれているが、それでもちゃんと理解するには時間がまだ必要だ。

 ログは三度ギルド長から呼び出しを食らって外出。クリュスは事件のあった森で想像を超えるほどに増加していたという魔物の駆除に当たっているらしい。

 シュウはそんなクリュスの手伝いをしたいと自ら願い出て一緒に行動中だ。

 つまり今、この邸にはサレナしかおらず当然ながら外出は禁止されていた。

 それにしても、とサレナは思う。

 よほど前の一件を気にしているのか、ログもシュウも最近は少々過保護なように思う程サレナの安全に気を遣うようになっていた。邸の中はともかく外においてログは常に周囲を警戒しているようで、どことなくピリピリしているように感じるし、シュウに至ってはそもそも外に連れ出す事に否定的な態度を取るようになっている。

 唯一、クリュスだけは相も変わらずいつも通りに接してくれていた。

 「確かに危険かもだけど、そこまで心配しなくてもいいのに。」

 無論、当人たちには決して言えない心の声。

 別に戦えるようになった、などとは思わないがそこまで心配が必要なほど子供でもないし無茶だって滅多にする気もない。サレナはこの硬い空気があまり好きではなかった。

 体を伸ばすついでに立ち上がって向かった先にあるのは、約束通りに貰った不思議な食感のする飴玉の入った瓶。サクシャク、と面白い噛み応えなのはもちろんの事ながら、砂糖と言うよりは果物のようなスッキリとした甘さをサレナは気に入っていた。

 気分転換に一粒口へ入れると思わず頬が緩む。

先ほどまでの悩みなど消えてしまったかのような気分だ。


 「おやおや、随分と良い暮らしをしているようですね、“おちびちゃん”?」


 体が石のように動かなくなる。首筋に氷の刃を這わせられたかのような冷たい恐怖が全身を駆け巡ってクモの糸のように縛り付ける。

 ヒッヒ、と声の主は静かに、喉を引きつらせたような笑いを上げて部屋の影から姿を現した。

 「久しぶりですねぇ、おちびちゃん。随分探したんですよお? 道も町も怪しい噂のあったところも……片っ端から探して探して探して探して、本当に心配したんですぉお? それなのに僕ちゃんたちには見せない、そんな良い笑顔まで浮かべちゃって、嫉妬しちゃいますなぁ……。」

 「あ――あぁ――――。」

 「おやおやおや? どうしたんですか? そんな震えてしまって。あ、もしかして寒いのですか? そうですねぇ凍えたら大変だ。じゃあ少し暖でも取りましょうかね。ちょうど良く燃えそうなものが、ここにはいっぱいありますし、きっとカッカとあっと言う間に温かくなりますよ。超超特大のキャンプファイアーなど、楽しいでしょうねぇ。ヒッヒ。」

 「ぁ、ああ――。」

 ――ダメ!!

 口は開く、しかし声が殆ど出てこない。

 体が震える、立っていられない程に足から力が抜ける。

 呼吸は浅く早く、空気が急に薄くなったかのような息苦しさを感じる。

 変な汗が全身から噴きだし、それが全て凍り付いたかのような寒気に包まれる。

 そうしている間にも、目の前のイカレタ男はその手に様々な色に燃え滾る悍ましい火を灯して、お手玉でもするように弄んでいた。

 「もう少し、今少し待ってくださいねぇ? 消えにくいよう特別、特別ですよ? 特別なブレンドしてしまいますか――どうしたんですかあ?」

 何とか手を伸ばし、震える手で男の服の裾を掴んだ。

 「――だい、じょうぶ――です。」

 「おやおや? でも寒そうですよ? 震えていますよ? 寒いのに我慢は体に良くありませんし、遠慮などいりません。えぇえぇ。僕ちゃんは遠慮なんか全然気にしないので、遠慮して、ああいや、しないでいいのですよ?」

 「本当に――大丈夫――ですから――――。」

 絞り出すような枯れた声でサレナは懇願する。

 顔を上げる勇気はない。その狂気に染まった瞳を見返す気力は無い。

 ジッと床を見つめて、締め付けられる胸に何とか空気を入れて、ロウソクの火のような弱々しい意識を必死に保って、この手を離さない事だけを考え続ける。

 しばし「んー?」と悩むように男は唸った。

 どれほど待っただろうか、久遠の彼方でようやく男は「ならいいか。」と火を消した。

 「さて、じゃあ行きましょうか。そう僕ちゃんたちは行かなければならないのです。そうそう勿論、そうご主人様のところへです。」

 ビクリと体が大きく震える。

 「おやや、そんなに震えて喜ぶなんて、これはいけません。いけませんねぇ。ご主人様に嫉妬しちゃいますよねぇ。もう、燃やしたくなっちゃいますねえ。えぇえぇえぇ、燃やしてしまいましょうか? ああ……でも僕ちゃんを見た時とか感動の余り、そう激しき嵐の如き感動に怯え縮こまり動けなくなっていたみたいですからね。そうですね、今回だけは特別に許しちゃいましょう。きっとご主人様も褒めてくださいますねえ。なんと、この僕ちゃんが我慢など覚えるなど、空の端から太陽が落ち月、が大地より飛び上がるが如き天変地異! 嬉しいですねぇ。」

 男は狂ったように笑った。

 そして、そっとサレナへ優しく手が差し出される。まるで慈悲深い救いの神のような顔で。

 サレナは躊躇する。

 もしもこの手を取ってしまったらどうなるのか。分からないほど無知なわけではない。

 全て知っているのだ。彼の言うご主人様が何者なのか、何を考えて連れ戻しに来たのか、連れ戻されたら自分がどのように扱われることに成るのか。

 「どうしました? もしかして、もしかしてもしかして、もしかして……何でしょうなぁ?」

 男が本心から不思議そうに首をかしげている。

 ――逃げ出したい。だが逃げ道など何処にもない。

 この場には二人しかいない。たとえログやクリュスやシュウがいたとしても、助けを求めようものなら目の前の男は躊躇せず全てを灰に変えてしまうだろう。

 「はい。」 

 サレナはその手を取った。

 その一言が精一杯だった。

 他に余計な事など言ったら、きっとこの邸は燃やされてしまう。この男はそう言う男なのだ。

 因果など関係ない、気分と偶然と突拍子の無い気まぐれにより災禍をまき散らす男なのだから。

 手を引かれサレナは立ち上がる。

 「では不肖、このドートがおちびちゃんのエスコートをさせていただきます。うっひヒヒヒッヒひひっひひひひひひひひっひイヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒイヒヒヒヒひひいひひひひひひひいっひいひひいひひひっひひいひひひひっひひいひひ、握手あくしゅアクシュですよ。嬉しい、うれしいですねぇ!」

 男は笑いながら一つの黒い石をポケットから取り出した。

 不気味に笑っていた口が聞いたことのない寒気のする言葉を口にすると石が瞬く間に砕け散り、床に散らばった粒子から次々に影が噴水のように吹きあがっていく。そしてあっという間に二人を包み込んだ。

 まるで木々に水が沁み込むように影は消えていく。


 二つの影も残さずに。

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