第22話 転生者と奴隷少女 4-3
時間は昼時、腹が膨れれば眠くなるのが生物のサガというものである。
故にシュウもサレナも微睡みの中にあったのは自然な事だった。
「ぇう?」
微かな視線に気が付いたのはサレナが危機に敏感な獣人の血を引いていたからか。
目を覚ますと同時に感じた寒気で、先ほどまでの眠気はあっという間に消えてしまった。
緊張しながら慌てて首を回して周囲に何者がいるのか探し出そうとするが、特にこれといって気になるようなものは影すら無い。
気のせいだったのだろうか? もしかしたら夢を引きずってしまっただけかもしれない。
「うっ……。」
体に緊張が走りサレナは一言「ごめんさい。」と眠っているシュウに断ってから近くの茂みへと小走りにかけて行った。
水分を取り過ぎたのがいけなかったのか、果物を食べ過ぎたのか。生理現象は無理に抑え込めるものではなく、抑え込めたとしても体に悪いものであるとクリュスに教えられた。故に溜まった物を外に出す行為を責めることは、如何なる者であろうと許されないのである。
当然だが、誰の目も無い事を確認してからサレナは一息ついた。
ホッとしたところで服を正し、未だ眠るシュウの元へと戻ろうと藪を抜ける。
――抜けると同時に再び全身に緊張が走った。
しかし、それは先ほどの生理現象とは全くの別物。
冷たいものが背筋を走り抜け、顔や手足の先から血の気が引き氷にでもなったかのような感覚だけが残される。
広場を挟んで向こう側、光る赤い目が二つ。それは木々の影から姿を現した。
毛に覆われた体躯、鋭い牙、涎を垂らす大きな口、鋭利な爪、獰猛そうな顔をした四つ足の獣はサレナのよりも大きな体をしている。
成長を続け魔物にも匹敵する危険な存在となった獣、魔獣の姿がそこにあった。
その瞳はまっすぐに未だ眠りから覚めないシュウの方を見ている。
サレナは慌ててシュウの元へと駆け寄っていくが、急ぎの余り足がもつれ転んでしまった。
しかし魔獣はサレナには気が付かない。きっと髪飾りのお陰だろう。
シュウが起きないようにひっそりと、静かに着実に、死の影は一歩一歩近づき続ける。
このままでは間に合わない。
大きな声で呼びかけてもシュウは疲れが溜まっていたのか、一向に起きてくれそうになかった。
サレナは焦る。
このままではシュウがあの牙の餌食になってしまう。
自分はこの髪飾りのお陰で大丈夫かもしれないが、誰かを犠牲にして自分だけが逃げ延びる、生き残るなどはもうしたくない。
――どうすれば状況を打開できる。
獣は二ッと笑みを浮かべた。
――何をすれば今のシュウを救える。
獣は姿勢を飛び掛かろうと姿勢を低くした。
――自分はこの場のこの状況において何をできる。
獣はいよいよ飛び上がり、その牙は獲物へと迫った。
――迷っている時間など無い。
サレナは力一杯に持っていた木の実を獣へと投げた。
それは放物線を描いて、幸運にも魔獣の顔に当たった。
偶然の産物により魔獣は姿勢を崩して軌道が変わり、シュウの脇を抜けては地面に向かって顔を突っ込んでいく。しかし特に傷を負った様子はなかった。
ただ苛立たし気に、しかし静かに邪魔者の姿を探し出そうと魔獣は周囲を見回す。
次はどうすれば良い?
選択を間違えば恐らくシュウは助からない。
駆け寄って起こしたいが、それにはまだ相手が近過ぎる。しかし倒そうにも武器は持っていないしサレナは非力だ。ダメージを与える手段は思いつかず、追い払おうにも方法が分からない。
何が最善か? この場から離すのが一番なように思えた。
であれば――。
「こっちですよ!」
髪飾りを取る。大声を張り上げる。
これでシュウが目を覚ましてくれたら全て解決。そうでなくても注意を自分に引きつけて時間を稼ぐことぐらいはできるだろう。――最悪でも魔獣は腹を満たしてシュウは助かるはずだ。
震えそうな足を無理矢理に精神力で止め、サレナはまっすぐに獣を睨みつけた。
怖い。恐い。コワい。こわい。
死ぬかもしれないという恐怖が体を凍らせる。これでは手も足もまともに動かないだろう。
魔獣はシュウとサレナを交互に見たが、背負うカバンから漂う匂いにより先ほどの邪魔者である事を見抜く。そしてそれに“美味そう”な事から標的を忽然と姿を現した少女に切り替えた。
コイツは起きているのだから遠慮はいらないとばかりに、獣は飛び出すような猛スピードで突進してきた。
「ヒッ――。」
サレナは迫る牙に思わず屈み、すぐ上を魔獣は通り過ぎて背後に着地する。
逃げられない。
足は相手の方が遥かに早く、怯える獲物を捕らえることに慣れている。
何か、何か、何か!
興奮する生臭い吐息の臭い。カサリと草を踏む音。刻々と迫る笑った死の影。
息が出来ないほどに恐怖は胸を締め付ける。
魔獣が飛ぶ。
牙が迫る。
『いいか?』
声が聞こえた気がした。
たとえ気のせいでも、声はサレナに確かに教えてくれていた。助かる方法を。
『植物を支配するってのは、何も花を咲かせたり芸術品を作ることが出来るようになるだけじゃない。既にお前にも出来る範囲だが、その身を危機から守る力を持っているんだ。』
『身を守るですか?』
『そうだ。お前は木々の逞しさ、草葉の強さをまったく分かっちゃいない。いいか?』
「――『葉は剣となりツルは四肢を縛る縄となる。この力は自分を守るための力でもあるんだ。』」
死の淵に立って集中力は最大まで膨れ上がる。
そこに至っては死の恐怖も無ければ失敗の恐れもない、凪いだ海のように波紋の一つない心において、神秘を自在に操る力は最も強く発揮される。
魔獣は残虐な笑みを浮かべたまま、己の身に何が起きたのかを理解できていなかった。
足が動かない。頭が動かない。体はガッチリと固定されて微動だにせず、すぐ目の前にある獲物の首に牙は届かない。
草の葉が、茎が、ツルが突如として体に絡みつくよう急速に成長し自由を奪い去ったのだ。
こんなものは知らない。こんなことあってはならない。
自然は自然だけのものだ。人という生き物が犯してはならない不可侵の領域だ。
魔獣はあり得ざる力の行使に混乱し、怒り、暴れた。そして暴れるたびに擦れる葉によって僅かながらも体が引き裂かれてしまい、痛みと恐怖に飲まれた悲鳴を上げる。
これはただの身を縛る鎖ではない。
捕らえた生き物を殺すことの出来る鎖なのだ。
なんと恐ろしい力だろう。なんと残酷な力だろう。なんと危険な力だろう。
憎々し気な光を瞳に宿しながらも大人しくなった魔獣を前にサレナは疲労から倒れ込む。
少しだけそのまま休んで体が動くようになると、急いでシュウの元へと向かった。
「ウゥアオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!!」
ビクリとして後ろを振り向く。
すっかり諦めたかと思っていた魔獣が咆哮を上げたのだ。
咆哮は森の中をコダマして幾へも重なって反響しあい――
「……うそ…………。」
四方八方から答えるような無数の声。
直ぐ近くからも二つ三つと上がっている。
最も近い咆哮の聞こえた背後を振り返ると、そこには捕まっている魔獣と瓜二つの姿が一つ。
その背後にも、隣にも、首を回せば獣たちが次々に姿を現し始めている。
サレナは力なくその場にガックリと膝をついて座り込んだ。
これほどの数を相手に勝ち目などない。先ほどの事だって咄嗟の事で何をどうやったのか良く理解できていない上に、疲労感がまだ抜けていないのだ。同じ事はできないだろう。
何処を見回しても死を呼ぶ魔獣の姿がそこにある。
後ろも前も右も左も、逃げ道など存在しない。
体の震えが収まらない。俯いて自分の体を抱くように腕を回す。ギュッと痛いほどに手に力を入れて、無理矢理に震えを押さえつけてサレナは立ち上がった。
一つの決意と共に髪飾りをシュウに付ける。
「これでシュウさんは大丈夫。」
まるで自分に言い聞かせるようにサレナは呟いた。
そして堂々と振り返って、毛馬重体の前に一歩出る。
「アナタたちなんかちっとも怖くありません!」
大声で宣言すると共にサレナは走った。
想定外の行動に目の前の魔獣たちは動揺した様子で少し怖気づいたように下がったが、それでも隙間と呼べるものは殆どできていない。
僅かでも可能性があるなら。もしダメでも、せめて酷い姿をシュウが見なくて済む場所で――。
何も策なしと見破ってからの魔獣たちの動きは速かった。
最初に足に牙が刺さった。次に背中を引き裂かれながら体が倒された。脇腹は服のお陰で少し守られたが、すぐに布は食い破られた。頭を庇うようにしていた手はあっと言う間に血だらけになって、気が付く間もなく指の感触は失われた。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――。
熱した鉄に焼かれるような痛みの中で、徐々に体から血と共に熱が失われていくのを感じる。
――あの時、あの場所で、彼らはこんな思いをしていたのだろうか。
ふと蘇る記憶。思い出さないようにしていた自分の罪。
一人、これ幸いと助けの声を振り切って逃げ出した自分は、結局彼らと同じ道を辿るのか。
ほんの少しだけ夢を見ても、最後には死した彼らの無念が自分を同じ穴へ引きずり込むのか。
光が消えていく。
徐々に生へ魂を縛り付ける楔が消失していき、世界は闇に飲み込まれていく。
痛みは消え、苦しさも消えた。
世界が光に包まれた。
その中に現れた一つの影には気が付くことは無かった。
目を覚ましたのは見慣れた天上。
死後の世界というには些か汚れの目立つ木で出来た天上だ。
羽毛のように軽くやわらかなものに包まれたまま、ゆっくりと首を回して見れば最近よく見るようになった優しい二人の顔があった。
一人は無表情な少女で何かを話している。その話を聞いているのは物知りで親切な男の人。
「ようやく起きたか。」
ログは優しくそう尋ねた。
「痛いところはあるか?」
「……ありません。」
「当然です。肉体を構成する細胞の全ては記録上、この建物を出て行った時点のものと同じ状態になるよう再生処理を施したのですから。」
「念のためだ、念のため。そう怒るな。」
いつもと変わらないかのように見えたが、クリュスは今ログの言葉に怒っていたようだ。
クスリと笑いが零れた。
「あの、シュウさんは?」
体を起こそうとするとログに止められた。
ただ一つこの場にない姿が心配になる。
「アイツは反省するとか言って自分の部屋だ。お嬢ちゃんが危機に陥るまで目を覚ませなかった不甲斐なさ、不用心さで自分を許せないらしい。……アイツ、毒のある木の実を口にしただろ。量が少なかったから昏睡までいかずに済んだが、それでも今回の一件は完全に失態だからな。俺としても、これからも冒険者を続ける気なら相当に反省して貰わなきゃ困る。」
「……私も止められませんでした。」
「そうだな。後でお前さんも小僧の所にいって一緒に反省してこい。」
だが今は休んでおけ。
そう言ってログは部屋から出ていき、クリュスもその後に続いた。
部屋に一人。
「生きてる……。」ポロリと口から洩れる。
途端に体中を寒気が襲った。目からは涙が次々に溢れ、抑えても口からは悲鳴が洪水のように押し寄せてくる。悲しさと、恐ろしさと、不安と、安堵と、嬉しさと、様々な感情がゴチャゴチャになって頭の中をグルグルと駆け巡った。
サレナが落ち着くまでには一晩掛かり、それからシュウの元へ行って二人仲良くログのお説教を受けることになった。
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