8
「ここだよ」
連れていかれた家は、外から見る分には予想よりかなり上等だった。
上等と言っても、金持ちでも貧しくもない庶民の家といった感じではある。だが、生活の様子から見ると、不釣り合いなくらいだ。
エルファヌは、入れとばかりに顎をしゃくった。
ピテルは小さく息を吐いてから、扉を開けた。
「ただいま……」
「お兄ちゃん、お帰りなさい!」
出てきたのは、ピテルにはあまり似ていない5,6歳の少女だった。
金に近い茶色のくせ毛を二つに結び、活発そうな濃い青色の目が印象的だ。
「あぁ、うん。……母ちゃんは?」
「寝てるよ。ね、お兄ちゃん、この人は?」
少女は不思議そうにエルファヌを見た。
「えーっと、新しい雇い主、かな」
ピテルはあまり少女の方を見ずに答えた。
そして振り向き、エルファヌへ少女を紹介する。あまり兄妹仲は良くなさそうだ。
「エル、こいつはおれの妹。アンチェ」
「アンチェか。よろしくな」
エルは微笑んでみせた。
「ピテル、ちょっと母ちゃん診せろ」
「え?」
「今使ってる薬、合ってないのかもしれないと思って。それも持ってこい。アンチェ、母ちゃんのとこ連れてってくれるか?」
「うーん、分かった! こっちだよ」
エルファヌはアンチェに連れられ、母親の眠る寝室へと足を踏み入れた。
ピテルはというと、首をかしげながらも言われた通りに薬をとりに行ったようだ。
薬を持ったピテルが寝室へ来ると、エルは母親の手首を握り、じっと身体を見つめていた。
「え、何してんの?」
「お兄ちゃん、しーっ!」
「はぁ……?」
しばらくの沈黙の後、エルファヌが口を開く。
「薬よこせ」
「あ、うん」
母親の手を放し、薬を受け取ると、今度はそれをじっと見つめた。
「これ、体力回復するような薬であってるか?」
「う、うん、確かそんなこと言ってた気がするけど……」
ピテルはおどおどと答える。
「うーん。処方として間違っちゃないんだけどなぁ……過労って言われたんだろ? たぶん。それは、確かにそうなんだよ。けどな、ちょっと内臓が弱りすぎてるから、これじゃ中々良くなんねぇぞ」
エルファヌは薬をピテルへ返した。
「そんなこと言われても、うちにはこれ以上ちゃんとした薬を買うお金なんてない……」
困った様に言うピテル。
「だろうなぁ。そんなこったろうと思った。医者も、体力だけはこれ以上落ちないようにって考えたんだろうよ」
「じゃあ、お母さんは良くならないの……?」
それまで静かに話を聞いていたアンチェが、泣きそうな声で尋ねた。
エルファヌは、アンチェの頭を優しく撫でた。
「いや、そんなことないぞ。俺が薬出すからな」
「え、ほんと……!?」
「エ、エル! おれ、魔法薬なんて買えねえぞ!?」
ピテルが焦った様にアンチェを引き寄せた。
「はー。誰も売るなんて言ってねえだろ。アンチェ泣きそうじゃねえか、兄貴ならもうちょっと優しくしろよ」
エルファヌは頭をがりがり掻いた。
ピテルはバツが悪そうにアンチェを放してやった。そして、悪いとぽそり呟いた。
「福利厚生の一環だよ。俺の専属になるなら、それくらい当然だろ」
「ふくりこーせー?」
首をかしげるアンチェ。ちらりと見ると、首はかしげないまでも、ピテルも同じような顔をしている。こんなところは似ていると、エルは内心微笑ましく思った。
「簡単に言や、従業員サービスみたいなもんだよ。見返りは馬車馬のように働くことかな」
「いや、でも……」
ピテルは言い淀む。
「なんだよ? あ、お前働かない気か?」
「いや、そうじゃなくて! ……魔法薬って、すごい高いんだろ? 医者にも、ちゃんと治したいならって言われて、値段聞いたことあるけど……」
エルファヌの魔法薬屋はDランクで、普通に買うとすれば回復薬1つで銀貨6枚ほどになる。確かにピテルが買える値段ではない。
しかしエルファヌは、そんなことは全然気にしていないようだった。
「ガキならガキらしく、大人の言うこと聞いてろよ。ほんっと可愛くねえなぁ!」
「なっ……!」
「おいアンチェ。この薬、赤い包みの方は朝晩の食後に、白い包みの方は夜だけ飲ませろ。とりあえず1週間分な」
「うん、分かった! ありがとう、エルお兄ちゃん!」
どこから出したのか分からないが、いつの間にかエルの手には2種類の薬があった。
それを1週間分袋に入れ、アンチェに渡す。ピテルは完全に居ないものとされていた。
「あー、お兄ちゃんはやめてくれ。ピテルと被んだろ?」
「分かった! エルちゃん!」
「んんー、まあ、良しとするか。お前は可愛いなぁ! 誰かさんと違ってな!」
そう言ってエルはまた、アンチェの頭を撫でた。
「じゃ、俺は帰るわ。またな、アンチェ!」
「うん! ばいばい、エルちゃん!」
アンチェは、にっこり笑い手を振った。
「あ、ちょっと……」
ピテルは、さっさと帰ろうとするエルファヌを追いかけた。
「エル! エルってば!」
「あん? なんだよ」
「いや、その……」
視線の厳しさから逃れるように、ピテルは目を伏せた。
エルファヌは、呆れたようにふーっと息を吐く。
「ピテル、明日は学校あんだろ?」
「あ、うん……」
「じゃ、終わったらこれで俺の飯買ってから来い。メニューは任せた。あ、ちゃんと働いてるとこに挨拶いけよ。っつーか今から行ってこい。で、もし明日の人手が足りないようなら、そっちが終わってから来い」
エルファヌは、ピテルに向かってコインを1枚放った。親指で弾かれた硬貨は、高い音をたてた。
「わっ! ってこれ、ぎ、ぎ、銀貨!」
何とかキャッチしたピテルは、手の中の輝きに驚いた。
「飯って、こんなに要らないよ!」
慌てて返そうとするが、エルファヌは受け取らない。
「んー……あ、そうだ、ついでに煙草の石も買ってこい。今日忘れちまったわ」
「た、煙草?」
「ああ。ナターリアのとこに行って、俺の煙草だって言えば分かる。色は何でもいいから、あるだけ。多分20個くらいだろうから」
石煙草の石は、色や質にもよるが、大体1つが鉄貨1枚からだ。
エルファヌが普段ぱかぱか吸っているのも、鉄貨1枚のものなので、20個で銅貨2枚くらいになる。
「う、うん、それは分かったけど、そうじゃなくて」
「それから残った金で、病人でも食べられて尚且つ栄養がある食い物を3人分買え。で、ミックって家に届けろ。分かったか?」
「え……」
「あぁ、そうだ。俺は別に、余った金でちょっとした甘いもの買ったりだとか、そうだな、すこーしばかり早めに……例えば今日の夜なんかに“余りそうな分”を使ったりするくらいじゃ、怒らねえよ。俺のお使いでほぼなくなるだろうし、釣りは戻ってこねえだろうな。――じゃ、また明日な、ピテル」
エルファヌはひらりと手を振り、家を出て行った。
「あ――」
ピテルは一瞬呆けてしまったが、はっとして慌てて外へ出た。
「エ、エル!」
エルは立ち止まり、顔だけでちらりと振り返る。
「あ……ありがとう……! おれ、頑張るから! ありがとう!」
それを聞いたエルファヌは、少し笑ったような、困ったような顔をして、何も言わずに帰って行った。
おそらく、町外れの人通りが少ないところで飛ぶのだろう。
こうして、少年はその日下僕となった。
彼の雇い主は、猫の眼をした、変わり者の悪魔のような魔女。
今日の選択は、果たして“平凡であったはずの少年”を、そのまま平凡で居させてくれるのだろうか? ――それは、これから分かることである。
「あー……煙草どうすっかなぁ。 桃色は大量に残ってるけど、あれは気分を選ぶんだよなぁ。あ、確かあそこに黄色と緑はまだあったよな……」
エルファヌはゆっくり歩きながら桃色の煙を吐き出す。
夕日の色が映る瞳は、炎のようにゆらゆらと揺れていた。
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