5

 気が付くと、ピテルはツリーハウスの前に戻ってきていた。


「は……?」


 全くもって意味が分からない。

 ぽかんと口を開けるピテルに、エルファヌは少し迷惑そうな顔で言った。


「おい、いつまでも呆けてんなよ。それ、左の螺旋階段の奥の小屋に入れとけ。あ、箱はこっち寄越せ」


“それ”とは、ピテルが持っている――正確に言えば引きずっている森牙狼のことだ。

 ピテルは小屋を確認すると、ため息をひとつ吐いてから、一旦森牙狼を地面へ置いた。

 そして、鞄を渡そうとしたが、自分の手が血で汚れているのが見えた。


「あの……」


「ん?」


「血が……」


 エルファヌは“しょうがないな”とでも言いたげな様子で、ピテルの肩にかかった鞄を直接取った。


「終わったら、店に――お前が最初に入ってきた場所だ。そこに来い」


 振り返ることもせず、エルファヌは自らの店へと入っていった。


「……くそっ」


 ピテルは小さく悪態をつくと、森牙狼を運ぶことにした。

 引きずってまた面倒なことを言われるのも癪なので、まずは頭部を運び、次に体を運ぶ。体はやはり重く、完全に持ち上げるのは無理だったが、脇の下に手を入れる形でなるべく地面につく部分が少なくなるようにした。


「うっ」


 切られた断面が見えて吐き気がこみ上げる。

 目線を逸らして、どうにか運び終えた。

 田舎とはいえ、そこそこ栄えた街中に住む少年にとっては、なかなかにハードな仕事であった。


 さて、いよいよ店に向かおうと思った時、ピテルは自分の手が先ほどよりも汚れているのが気になった。

 魔獣の死体を運んだのだから、当然の話ではある。

 何か拭くものでもないかと小屋の中を見回すと、低い位置に蛇口のようなものが見えた。

 どうやらここは、普段から解体や土いじりなどに使われているらしく、汚しても良いように出来ているみたいだった。


 ピテルはその蛇口らしきものに近づくが、水のタンクが見つからない。それどころが、よく見てみると蛇口ですらなく、捻るようになっていなかった。


 多くの庶民の家では、共用の井戸から汲み、それぞれの家の蛇口付きの水瓶やタンクなどに入れて水を使っているのだ。

 なので、ピテルからしてみれば、タンクがなければ水は出ないものという認識になる。

 溜魔具なんてものを、そう裕福でない庶民が知るはずもなかった。


 仕方なく、ピテルはそのままで行くことにした。

 雇ってくれると言っていたが、正直なところ本当に雇われて平気なものか――そんな迷いがないではなかったが、少なくとも手は洗わせてもらいたい。

 話を聞いて、条件が良くなければ、手を洗わせてもらって帰ろう。ピテルは言い訳のようにそう決意し、肘を使って扉を開けた。

 やはり、どうでもいい事で文句を言われるのは面白くないのだ。



 店に入ると、上から声が降ってきた。


「おい、こっちだ。上、あがってこい」


 エルファヌは、2階で優雅にコーヒーを嗜んでいた。

 少しムッとしながら、ピテルは言った。


「あの、手を洗わせてもらいたいんだけど」


「あ? 向こうに洗えるとこあっただろ?」


「なかったけど……?」


 エルファヌは眉間にしわを寄せた。


「……まぁいいや、とりあえず上がってこい。カウンターの中入ったら階段あるから」


 ピテルは頷いた。

 そして、手をなるべく触れさせないように気を配りながら、言われたとおりに階段を上る。

 下からはあまり見えなかったが、どうやら2階は生活スペースになっていると分かった。

 1階の半分ほどなので決して広くはないが、一通りのものは揃っていそうに見える。


「ほら、そこで手洗え。右は今、結構熱くしてあるから気をつけろよ」


 そう言ってエルファヌが指したのは、先程の小屋にあったものとほぼ同じ“蛇口もどき”だった。


「……いや、使い方分かんないんだけど」


「はぁ?」


「……すいません」


 咄嗟に謝ってしまってから、いや自分は悪いことしてないだろう? と不満に思うピテル。やはりエルファヌは横暴だ。


「管の上に、石がはまってんだろ。それに触ったら水が出る。もう一度触れば止まる」


 言われて見ると、確かに左側の管には青っぽい石が、そして右側には赤っぽい石がはまっていた。

 ピテルは、指の先でそっと青い石に触れた。


「わっ」


 タンクがないのに、勢いよく水が出る。

 少年にとっては、それは不思議な光景だった。


「いいから、早く洗え」


 話が出来ないだろう、と言われては確かにその通りなので、ピテルは急いで手を洗った。


「拭くもの、ない、ですか?」


「その辺の布、適当に使っておけ」


 調理などに使っていると思われる台に、何枚かの布がぐしゃぐしゃに置かれている。これは一体いつ使われたものなのだろうか? どう見ても、清潔ではない。

 ピテルはその中から、なんとなくまだ綺麗そうに見えるものを選び、手を拭いた。


「ありがとう、ございます」


「おう。じゃあ今後のこと話すか。……あ、椅子一脚しかねえな。下に丸椅子があるから、ちょっと持って来いよ」


 ピテルは、無言で従った。正直疲れているし、座れるならばその方が有難かったからだ。


 戻ってくると、エルファヌはコーヒーを飲み終わったのか、不思議な形の煙草を吸っていた。ピテルは知らなかったが、もちろん石煙草だ。今度は緑色の煙を吐いていた。


「それじゃあ、条件を決めようか。給料とかな。……あ、俺に雇われるってことで良いんだよな?」


 一瞬考えてから、ピテルはゆっくり頷いた。

 ちょっと働いてみて、どうしても駄目だったらやめればいい。


「よし。で、お前、いくら欲しい?」


「え?」


 ピテルは目を真ん丸にした。


「だって、金に困ってるんだろ?」


 エルファヌは何でもないことのように言い、緑の煙を吐く。


「それは、まあ……そうだけど……そんなこと言われても、分かんないんだけど」


「じゃあ、なんで金に困ってるんだ?」


 少し迷った様子を見せたピテルだが、一度深く息を吐くと、決心したように話し始めた。


「母親が、体調を崩したんだ。それで、今までの近所の手伝いくらいじゃ、ちょっときつくなっちゃって」


「相当悪いのか?」


「え?」


「母親の状態だよ」


「あぁ……いや、一応薬も貰ってるし、大丈夫、だと思うんだけど……」


 それを聞いたエルファヌは、続けろとばかりに顎をしゃくり、自分は新しい石をズボンのポケットから取り出した。黄色のそれは、先程よりも甘い匂いがした。


「まあ事情と言えば、本当にそれくらいなんだけど。うちには妹も居るから、あんまりひもじい思いさせ続けるのも、あれだろ?」


「親父は?」


「……いない」


 エルファヌは、訊いた割には興味がないように軽く頷いた。


「今、他でも働いてんだろ? いくら貰ってる?」


「学校もまだやめてないし、日に銅貨1枚か……休みの日とか、多くて2枚くらい」


「は!? お前しか働いてないんだろ? どうやって暮らしてんだよ……」


 エルファヌは、右手で顔を覆った。


 レングズウィスト王国では、木貨、鉄貨、銅貨、銀貨、金貨、白金貨、宝魔貨という7種類の貨幣が使われている。

 木貨が一番安く、宝魔貨が一番高い。そして、それぞれが10枚集まると、次の貨幣1枚分の価値と同じになる。


 銅貨1枚とは、普通に3食食べたら1人分で終わるくらいの価値だ。かなり質素にして、その上で1日2食しかとらなかったとしても、とても3人分は賄えない。

 例えば、飯屋で食べられる最低の定食――薄いスープと固いパン、そしてちょっとした1品がついたようなものを食べても、鉄貨2枚はする。もう少し質を下げて、ぎりぎり味がする気がするくらいのスープと、噛めば辛うじて歯が勝つだろうと思えるパンを毎日家で食べるとするならば、なんとかなるのだろうか。


 いやしかし、ピテルは“母親の薬を貰っている”と話したのだ。どうやって暮らしてるのかという疑問が出るのは当然だった。


「それは……今までの貯えとか、あとは近所の人の余りもの貰ったり、おまけしてもらったり……」


 ピテルは唇をかんで下を向いた。

 庶民の貯えなんてたかが知れてるし、母子家庭だったのならば尚更だ。

 おそらく、もう二進も三進もいかなくなっているのだろう。逆に言えば、だからこそ既に誰も応募に来なくなっていたエルファヌの元に来たのだ。


 実際のところ、子供の使い走りで銅貨1枚というのは、悪くない給料ではある。

 学校の合間の短時間しか働けなかったり、そもそもの信用問題、そして大人ほどの力はないので肉体労働は出来ない場合が多いことを考えると、本当にお手伝い程度で、鉄貨1枚から銅貨1枚というのがほとんどだ。


 ちなみに大人の平均日給はというと、ディムタの街では大体銅貨6枚程になる。

 一週間は6日で、そのうち1日が休息日。そして、一か月は5週間なので、月給だと金貨1枚と銀貨5枚だ。

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