4

 ピテルは“ちょっと癪だけど後でエルファヌにきいてみようかな”などと考えながら、今度こそ採取を再開することにした。

 森大百足の時とは違い、驚きや恐怖よりも好奇心が強かったらしい。さくっと気持ちを切り替え、池に手を入れた。


 突然の森大百足の登場のせいで、どの花を確認していたのかが分からなくなった。とりあえず手当たり次第確認してみるが、やはり緑の水花が多い。


「ふわっとしたやつ……ふわっとしたやつ……」


 ぶつぶつと呟きながら、ひたすらに花を触っていく。

 とは言っても、もし花を駄目にでもしたら怒られそうなので、手つきは慎重だ。


「よく分かんないけど、あいつどっかで見てそうな気がするしなぁ」


 着いてきている気配は全くしないが“魔女”なんて呼ばれる人間である。どこか底が知れない感覚があった。


 そこからいくつか確認していき、とうとう赤の水花が見つかった。

 しかし、それはやけくそでかなり手を伸ばした時に見つけた花で、池の外からではかなりギリギリな位置にある。


「えー、どうしよう」


 ピテルは少し迷った後、渋々靴を脱いで池の中に入ることに決めた。

 花を踏まないように、慎重に行けば大丈夫だろうと思ったのだ。ただ、タオルなんて持ってきていないので、後のことを考えると少々憂鬱ではあった。


「仕方ない」


 このまま手をじゃぶじゃぶと池に浸し続けるよりはマシなはずだと、自分に言い聞かせる。

 そして、靴を脱いで靴下を脱ごうとしたとき、それは聞こえた。


「ウオォォォォォン……」


 犬のような、狼のような、それとももっと恐ろしいもののような、遠吠え。


「!!」


 ピテルは急いで周囲を見渡した。

 しかし、何の姿も見えない。


 もう一度見回す。

 何も見えない。


 ピテルは、焦りと恐怖でどんどん自分の体が冷たくなっていくのが分かった。


 何かいるのは間違いない。戦闘なんてしたことがなくても分かるくらいの緊張感がある。

 逃げるべきか、そうでないのか、判断がつかない。


「ウオォォォン!」


 先ほどよりも声が近い。


 ピテルは、やはり逃げ出そうと、脱ぎかけていた靴下をしっかり履いた。裸足よりはいくらか良いと思ったのだ。

 無意識に、鞄と採取用の箱も拾う。冷静ならば、そんなことをしていられなかっただろう。


 どちらに逃げれば良いのか分からないが、なんとなく声から遠ざかる方へ行こうと考えた時、それは現れた。


 灰色と黒のまだらの毛を持ち、鋭い牙が口元から覗いている大きな狼――


「ウゥゥゥゥゥゥゥ」


 狼はピテルを見つけた瞬間、獲物を定めたかのように体勢を低くし、唸りだした。


「ひっ……」


 ピテルはもう逃げられる気もしなかったが、逃げなくては自分の命がないことが直感的に理解できた。

 逃げなくては。


 手に持っていた鞄が滑り落ちた。拾うことは出来ない。

 狼から目をそらさず、右足を擦るようにして一歩引いた。


「グルゥゥゥゥ……」


 今しかない、と駆け出そうとした瞬間、ピテルはふと思い出した。

“何か手に負えないことが起きたら、決してその場を動かず、じっとしていろ”というエルファヌの言葉を。


 少年は踏みとどまった。

 ほぼ反射のようなものだった。


 今日会ったばかりの、ましてや評判のあまりよろしくないエルファヌのことを、信じているわけでは決してなかった。

 しかし、無意識の判断が足を止めさせた。


 汗の流れ落ちる音が聞こえるくらいの静寂で、狼と睨み合う。

 ピテルにとっては、それが一生のようだった。


「グルゥ……ウオォォン」


 狼がぐっと足に力を込めた。


 もうだめだ。ピテルはそう思った。

 こんなところで死にたくない。やっぱりあんなインチキくさいやつのことなんか信じるんじゃなかった。


 自分を食らおうと走ってくる魔獣が、スローモーションに見えた。


 逃げよう。逃げなくては。

 そう思う心を裏切るように、ピテルの足は動かない。


 そして、とうとう死の覚悟なんかなく、ただただ恐怖から逃れるためだけに目をぎゅっとつむった。


 狼の足音がひどく大きく聞こえる。

 風がやけに鋭く肌を刺した。


「あの嘘つきめ……っ」


 噛み締めた口からこぼれるように、唸りとも言えるくらいの言葉が出た。


「ギャウッ」


 突然、断末魔の叫びが聞こえた。


 当然、ピテルのものではない。

 だとしたら、ここにいるのは先程の狼しかありえない。

 やけに遅かった時間の感覚が、すっと溶けるように元に戻った。


 ピテルは、恐る恐る目を開けた。


「ちっきしょ、3回も違う場所に飛ばしやがって……しかも、わざとギリギリ狙ったな!? あ!?」


 そこには、よく分からない言葉を呟く、大変機嫌の悪そうなエルファヌがいた。

 その手には剣が握られ、狼の首を切り落としていた。


「ひっ……」


 ピテルは、首だけになった狼と目が合ったような気がした。

 一度ビクッと体がはねた後、金縛りがとけたかのように全ての力が抜け、そのままとさりと尻もちをつく。

 口の中がからからに乾いていた。何か喋らなくてはと思っても、出るのはかすれた吐息だけだ。


 そんな中、先に口を開いたのはエルファヌだった。


「あぁ……悪い。ちょっと遅れたな。怪我はねえか?」


 言いながら、バツが悪そうにこめかみあたりを中指で掻いた。


「あ……ない……です」


 とても頼りない声で、ピテルは何とか答える。


「そうか、なら問題ないな。いやー、ほんとはもうちっと早く来るはずだったんだけどなー。まぁ間に合ったからな! うん!」


 エルファヌは、ははっと笑った。


「しっかし、お前、見た目より根性あるな! 俺もまさかフルコースで来るとは思ってなかったんだが。結果としては、面白いもん見られて良かったよ!」


 にやにやと、ものすごく機嫌が良さそうだ。


「いや……フルコースって?」


 ピテルが尋ねた。

 状況はまだ把握しきれていないが、どうやら自分は助かったようだということだけ、実感が湧いてきていた。


「俺もな、森大百足までは予想してたんだよ。今までテスト受けたやつらも、何人か遭遇してるからな。見た瞬間叫ばなかっただけでも合格にしても良いくらいだったのに、ジェリーに森牙狼まで出るとはなぁ!」


「森牙狼?」


「あぁ、こいつ。この狼だよ」


 エルファヌはそう言って、狼の首を指した。


「こいつと会うなんて、すげぇ引きの強さだな!」


「……」


 明るく笑うエルファヌに、ピテルは何も言葉を返すことが出来ない。

 自分はすごく恐ろしい思いをしたというのに、何故こんなに……ピテルはそう思っていた。


「とりあえず帰るか。これからの打ち合わせもしなきゃなんねえしな」


「え?」


「え、なに、帰りたくねえの?」


 もうここに用はないけど? と、エルファヌは不思議そうだ。


「いや、そうじゃなくてさ。これから、って……その……」


「あぁ、お前を雇おうかなって」


「でっでも、おれまだ赤い花採取出来てないけど……」


「あー、別にいいよ。ちょっと待ってろ」


 エルファヌはそう言い、池に近づいて行った。

 そして手を水につけるでもなく、少しの間花を観察すると、足につけていたナイフで迷わずに一本切り取った。

 白い水花は水から上げられると、赤く染まった。


「え……」


「おい、箱よこせ」


 ピテルは慌てて、抱えたままだった箱を差し出した。


「これでいいだろ」


 エルファヌは花を箱に挿し、ピテルへと押し付けた。

 持って帰れということなのだろう。


 ピテルは受け取ってから、疑問を口にした。


「触ってもいないのに、なんで赤だって分かったんだ?」


 エルファヌはめんどくさそうに、一言答えた。


「勘」


「はっ!?」


「説明してもどうせ分かんねえだろが」


 確かにそうかもしれないが、納得できない気持ちがどうしても顔に出てしまう。

 するとエルファヌは、更に面倒そうにため息をついて言った。


「……魔力の質が違うんだよ。お前を見つけたのも同じ原理だ、少年」


「おれ、魔力ないはず……だけど?」


 この国では、初等学校に入る際に適性検査を行うことになっており、将来の職や、更に上の学校に入りたい場合の方向性を決めるのに役立てられている。

 ピテルが“魔力がない”と主張するのは、この適性検査で魔法に関する才能がある程度測られるためだ。


 そもそも、魔法使い――特に、職業としての“魔導士”と呼ばれる者はかなり数が少なく、国に仕えれば一生安泰と言われるほどに貴重なのだ。

 例えば“指先に灯るくらいの小さな火をつける”くらいのことが出来る人は少ないもののそこそこ居るのだが、戦闘など“職業”として使えるのは、精々一国に十数人。多いところでも三、四十人程だ。

 そのため、庶民でもかなりの才能が認められれば魔導士の専門学校に通わせてもらえる可能性もあり、適性検査の結果を覚えているのも不思議ではなかった。


「そこに存在する以上、そいつだって分かる程度の魔力はみんな持ってんだよ。海に一滴垂らす程度でも、ちゃんと探れば分かるもんだ」


「そう、なんだ」


 ピテルはよく分からなかったが、そう応えた。

 エルファヌは小さく舌打ちをした。


「もういいだろ、帰んぞ」


「あ、うん」


「どうやって帰りたい? もうめんどくせえから飛ぶか。さすがにもう別のとこへは飛ばされねえだろ」


 尋ねたわりに、全くピテルの意見は聞く気がないらしいエルファヌである。


「は? 飛ぶって?」


「うるせえな。黙って荷物持って立ってろ。あ、折角だから森牙狼も拾っとけ」


 横暴だ。とんでもなく横暴である。

 しかし気分は悪くても、もう反論するだけの元気がなかったピテルは、まず鞄を拾い、採取用の箱をしまった。そして、恐る恐る右手で切り落とされた首の牙を持ち、左手で前足を掴んだ。体の方は重くて持ち上がらなかった。

 それを気にするでもなく、エルファヌはピテルに近づくと、彼の右腕を掴んだ。


「じゃー行くぞー」


「えっ? はっ?」


「《ディ・ラゥヒ》」


 その瞬間、風景に溶けるように2人の姿は消えた。

 後に残るのは、森牙狼の血だけだった。

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