episode2:当たり前の犠牲者たち


「え、ミルクもシロップもいらないの?」

嫌悪感。窓から覗く雨と重なっているだけか。


小洒落た喫茶店でいつも流れているジャズをBGMに、向かいに座る女が聞いてきた。肩までまっすぐ伸びた黒髪が、GUで買ったという白いセーターにかかっている。GUの服を着こなせることがステータスらしく、この店に入るまで聞いてもいないのに説明してきた。顔は整っていて、職業は女優だと言われても疑わないくらいの美人だが、とりあえずよく喋る。早朝の鳩よりもよく喋る。


「逆に聞くけどさ、寿司にわさびを入れたり、サラダにマヨネーズをかけたり、卵かけご飯に醤油をかけて食べるタイプ?」

「まぁ、そりゃ」

困った表情で愛想笑いをするのが得意そうな女だな、といつも思う。

「だって、味がないじゃん」

僕が退屈そうな顔をしたのを感じ取ったのか、そう付け加えた。

「味がないとせっかくの料理も美味しくないじゃん」

また付け加えた。

嫌悪感。雨のせいじゃなさそうだ。


「味がない、ってのは本当に味がないの?」

「え?」

「寿司にわさびを入れないと、サラダにマヨネーズをかけないと、卵かけご飯に」

「あーそういう意味じゃないってば!調味料ないと薄いじゃん!スパイスもあったらより楽しめるじゃん!そういう意味!」

この美人は、いつもタイミングが独特でリズムが狂う。

「最初からそう言ってほしい。青信号が点滅してる時に平気でチンタラ歩いて渡る外国人が多いのは、”赤信号は止まれ、青信号は渡ってよし”としか日本人が説明しないからなんだよ」

「はいはい、ごめんってば」

美人は口を少し尖らせれば、それ以上追及されないと思い込んでいるのだろうか。


「ちなみに、脇役なのに主役より図々しいものは苦手だよ」

「はいはい、ブラックってことね」

そう言って目の前の美人は自分のコーヒーにたっぷりとミルクとコーヒーを注いだ。

しばしの沈黙を店内に流れるジャズが埋める。


「ねぇ、怒ってる?久しぶりに会ったのにさぁ」

目の前の美人、かつての大学時代の同級生というだけだが、僕の機嫌を取るように聞いた。

「怒ってないよ、大体何に怒るんだよ」

「怒ってる人ほど怒ってないって言うんだよ。ね、怒ってんじゃん」

何が面白かったのか、美人は口元を緩めてこっちを覗いてくる。

「怒ってない。ただ、誰かにとっての当たり前ってのは、時々誰かを傷つける時もあるよ、って思った」

「え、傷ついた?」

「全く。なんでミルクとシロップいるか聞かれて傷つくんだよ」

僕は手元のコーヒーをとり、美人の顔を見返しながら一口飲んだ。

「相変わらずひねくれてるねぇ、安田は」

「相変わらず愛想笑いが上手だ、高橋は」

そう言うと目の前に座る美女、高橋はぱっちりと丸い目をこれ見よがしに細めた。

「あのさ、元気でやってんの?大学辞めてから」

こんな雨の日に、そんなことを聞きたくて呼んだわけでもなさそうなので適当に答えた。

「辞めてすぐ急性肺炎になって2週間入院してたけど、どうやらもう治らないらしいんだ」

そう言うと高橋はふふっと笑った。

「その嘘、もう何回目だろうね、懐かしいね」

今度は愛想笑いではなさそうだった。

「まぁ、便利なんだよ、色々と」

「あんまり嘘つきすぎると何が本当か分からなくなるよ」

「その助言ももう何回目だろう」


高橋は美人だった。少なくとも僕が大学時代に出会った女の中ではいちばんの美人だった。だからなんだ、という話ではあるが、まぁ美人だった。

「昔言ってたな、”いつも嘘ばかりつくのに、誰かを傷つける嘘はつかないから好きになりました”、って」

「わ、やめてよ恥ずかしい、五年も前でしょ」

「もう五年か。早いもんだな」

そう言いつつまたコーヒーに手をつけると、高橋も同じように自分のコーヒーに手を伸ばした。


「あのさ、私の告白は置いといてほしいんだけさ、安田ももう今年27じゃん?」

「...そうだけど?」

「そろそろ人生の全体像見えてきて、ちょっと退屈してきたりしない?」

「...退屈なの?」

「あんまりにもね、退屈すぎて疲れちゃったよ。退屈疲れだね」

「...なんで?」

「だって、あと何十年も繰り返しの毎日なんだよ。結婚とか引越しとかそういうイベントが合間にあったとしても、またいつもの繰り返しに戻ってさ」

「...嫌なの?」

「嫌に決まってんじゃん。安田が羨ましいよ。私も自由になりたいよ」

そう言う高橋の瞳はその大きさの割に、心細さか、あるいは彼女の後ろに映る雨のせいかで、ひどく潤んでいるように見えた。


何と答えようか、少しばかり悩んだ。

僕に面と向かって”羨ましい”と言う人間は多い。

ーーかつては揃いも揃って、”もったいない”だったのに。


「うーん、何が辛いのか、何に悩んでるのか知らないけどさ、」

高橋は僕の目に視線を合わせる。

「タンポポの話、したことあるっけ?」

「...え?なにそれ」

高橋の呆気にとられた顔は、美人だから許されるものなんだろうな、と思った。

「じゃあちょっと考えてみて欲しいんだけどさ」

そう言って僕はまたコーヒーを一口飲んでから話した。


「タンポポのタネは、風に乗ってふわりふわりと飛んだ後、地面に着陸します。

空中に乗って飛ばされた、生まれたばかりのタンポポのタネは、まず土を求めます。土がなければ、自分の居場所を固定することができず、不安定になるからです」

「はい、そうでしょうね」

高橋はなぜか神妙な顔つきに切り替わった。

「でも、土に着陸すると、今度は水を求め始めます。水がなければ、芽を出すことができず、成長できないからです」

「たしかに」

「ところが、芽を出せば、今度は日光を求めます。日光がなければ、光合成ができず、成長できないから」

「そうね」

まだあまりピンと来てなさそうな表情だ。

「これがタンポポの成長の話。終わり。どう思った?」


「え、終わり?じゃあ、要するに、求めるものはどんどん変わるから、考えてもキリないよ、って話?」

「いいとこ50点だな」

「えーなんでよー」

「欲するものが変わるのは、それはそうなんだけど、この話のポイントはそこじゃない」

「どういうこと?」

「”成長するにつれて”。これが厄介で、その上誰も気付いてない」

「成長しなければいいんだ、ってこと?」

「極論はそうなる。でもそれはそれで退屈になるんだよきっと」

「たしかに」

高橋がうなずく。

「人間はみんな、何かをしたい、何者かになりたい、そういった”成長”を求めてる。欲望とはまた少し違う、”ただ前進してる”っていう錯覚や思い込みでもいい、そんな形のない偽りの納得感を、人間は求めてる。求めて生きてるし、その生き方が正しい生き方だと思ってる」

「何かをしたい、何者かになりたい...」

「成長したい。でも成長するにつれて求めるものは変わっていく」

「キリがないね...」

「そういうこと。当たり前を倒さなきゃ変われないんだよ」

高橋は喫茶店の大して高くもない天井を見上げ、ため息まじりに言った。

「...案外、ただの繰り返しの毎日の方が、退屈だろうけど幸せなのかもね」

「タンポポも高橋も、生き辛くしてるのは自分自身かもね。」

タンポポも高橋も僕も、の間違いだったか。まぁいいか。


手元のコーヒーも残り半分を切った。

雨が降っていてよかった、と思った。

希望も夢も目標も、愛も期待も欲望も、全部雨で流れ落としたほうがいい。

タンポポの綿毛は土ではなくコンクリートでも根を生やすこともある。

当たり前を当たり前だと思って疑わない、素直で真面目で一生懸命な人間、例えば目の前にいる美人の高橋のような、そんな人間こそ、全部流れ落としたほうがいい。


喋り疲れたので別にそんなつもりでもなかったが、席を立ってトイレに行こうとした時、高橋が思い出したようにこっちを見上げて言った。


「あ、そうだすっかり忘れてた!芥川賞受賞おめでとう!」


ーー高橋は、この美人はいつもタイミングが独特でリズムが狂う。


「雨、止みそうだな」

「そこは素直に”ありがとう”でいいんじゃないの」

高橋という割りと気の合う大学時代からの友人で、なおかつ美女のこの存在が、僕には実は少しばかり、ありがたかったりもする。


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人生脱線少年期 蜂鳥りり @hachidori77

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