第7話 真春の夜 1
転校生が一人暮らしをしているというから、そいつの家に遊びに行った。
それがまさかパラライズ呪だとは思いもしなかった。
俺は小学生の頃にも、あの家に住んでいる人を見たことがある。
たまたま早く家を出た日の事だ。
子供特有の冒険心から普段とは違う道を歩きたくなり、いつもなら通らない親から絶対に近寄るなと言われていた道を選び歩いた。
わくわくとした気持ちと弾むような歩調は、とある場所で消沈させられた。
住宅街でありながら空き地の目立つ場所。
件のアパートだ。
まだそこがどういう場所なのか知らなかったのに、それでも薄気味悪さを肌で感じたんだと思う。
ただの古臭いアパート。だというのにどこか目を惹き、俺は建物の目の前で足を止めていた。
そのタイミングで、一階にあった玄関ドアの一つが開いた。
くたびれたスーツを着て、手にはビジネス鞄と膨らんだゴミ袋を持った男。
通勤がてらゴミ捨てをする、日常的な光景。
しかしそこには異常があった。
男は周囲を頻りに気にするような素振りを見せ、その顔は酷く疲れたように頬は落ち窪み、目には濃いクマがはっきりと浮かんでいた。
ギョロリとした目が俺を捉える。
互いに身を固くしたのが分かった。
何かを確かめるように見つめられ、見つめ返す。
逃げようか。
そう思ったが行動に移す前に男の方が視線を外し、引きずるような重い足取りで横を通り過ぎて行った。
気味が悪く、後ろ姿が曲がり角に消えるまで目が離せなかった。
その日の夜に親にそれとなく、なぜあの道を通ってはいけないかを聞いても「とにかく危ないから」としか説明されなかった。
だが噂は自然と耳に入る。
あそこが本物の心霊スポットなのだと知ってから、というよりもあの日以来、近寄ることはなくなった。
あの男がその後どうなったのかは分からない。
そんな場所に転校生が住んでいる。
見た目はまだ普通だが、いずれはあの日見た男のようになるに決まってる。
近寄りたくない。帰りたい。
だというのに土屋の馬鹿が乗り気で、建物へと近づいていってしまう。
置いていったら後で何を言われるか分からないから渋々ながら後に従った。
久しぶりに間近で見るパラライズ呪は外観が綺麗になっていた。
改築したなら大丈夫なのだろうか。
そんな淡い期待は敷地内に足を踏み入れた途端に霧散する。
怖気が走り、肌が粟立ったのだ。
危険だと身体が訴えている。
やっぱり来るべきじゃなかった。すぐに帰ろう。
そう提案する前に背中をぐいぐいと土屋に押され、二階に無理矢理押し上げられてしまった。
最悪だ。
玄関ドアを開けて土屋を中へと促す転校生の顔が、俺には道連れを求める邪悪なものに見える。
構わず中へと入る土屋が信じられない。
だがチャンスだと思った。
もう俺の背中を押す存在はいない。
「
言い置いて階段を数段飛ばしで駆け下り、一目散に逃げ出した。
入ったら絶対にヤバイ。土屋がどうなるかなんてもう知るもんか。自業自得だ。
俺は何度も危ないって言ったんだから。
路地を走り、息が切れてわき腹が痛くなっても足を止めない。
もうパラライズ呪は見えないけれど、それでも家路を急いだ。
そうして辿り着いた自宅。
玄関を開け、靴を脱ぎ、リビングを通って二階の自室へ。
バッグを椅子に投げやり、ベッドへと跳びこむように横たわる。
うつ伏せで枕に顔を埋め、ようやく人心地付けた。
心身ともに疲れ、安堵したことで一気に眠気がやってくる。
そのまま身を委ね、俺はすぐに眠ってしまったようだった。
目が覚めたのは陽が沈んだ時刻。
お腹が空いたので一階へと下りたのだが、リビングは照明が点いていなくて暗かった。
両親は共働きで、たまに二人とも遅くに帰宅することがあるから今日もそうなんだろう。
多分スマホを見れば、遅くなると連絡が来ているはずだ。
こういう時は買い置きされたお菓子だったりカップ麺で済ませる。
今日もそうしようかと思い、キッチンにある戸棚を漁ろうかというときに、
ピン…ポーーン
とインターホンのチャイムが鳴らされる音が部屋に響いた。
何の気なしにモニターのある場所まで歩き、確認すると男が立っていた。
「はい」
「………」
通話ボタンを押して返事をした。だが相手が何も喋らない。
「どちらさまですか」
「………」
問いかけても黙ったまま。そもそも俯いているせいで顔がはっきりと分からない。
イタズラだろうか。
だがピンポンダッシュならまだしも、堂々とモニターの前に居座るなんてどうかしている。
しかもスーツを着ているから大人だろうに。
「なんの用っすか」
乱雑な言葉遣いでもう一度聞いたが、やはり応えない。
かといって玄関まで用事を聞きに行くのは、どんな相手か分からないから躊躇われる。
ひとまず通話ボタンを切って無視することにして、キッチンでの食料探しに戻る。
だがまたチャイムの音が鳴った。
どうせさっきの男だろうと無視する。
戸棚からカップ麺を取り出し、お湯を沸かしている間に飲み物や箸の用意をしたりと食事の準備を整えていく。
もう出来上がるというタイミングでまたチャイムの音。
ダイニングテーブルから見える位置にモニターがあるのでチラリと見れば、やはり先ほどの男が映っている。
「
モニターから目を背け、極力見ないようにしながら食事を済ませる。
その間も断続的にチャイムが鳴らされていた。
リビングに移動してテレビを点け、流し見しても音は響く。
いい加減に我慢の限界だった。
モニターに足音荒く近づき、通話ボタンを押す。
「うるせえっ!」
モニターに向かって怒鳴りつけた。
これで流石に帰るだろう。
そう思ったのに、男はモニター前から動かない。
もうこれは直接言って追い払うしかないと、意を決して玄関に向かった。
一応身の危険を考えて、玄関に置いてあった親父のゴルフクラブを握りしめる。
そして勢いよくドアを開けた。
だが誰もいない。
引っ掛けたサンダルで少し外に出て見回しても、近くには誰の影も見えない。
あれだけしつこかったのに、いざ外に出てみればいないなんて。
勘が良くて逃げたのか。
まあこれで居なくなったならいいけど。
ゴルフクラブを元に戻しリビングへと戻る最中、またチャイムの音。
モニターを見に駆け寄れば同じ男が映っていた。
「なんなんだよこいつ。誰なんだよ」
本当に気味が悪い。
まじまじと男の様子を見て、気付いたことがある。
俯いていた顔が少し上向いている気がするのだ。
「ハハッ」
乾いた笑いが漏れる。
ホラー映画の演出でもあるまいし……。
否定しながらも俺の頭にははっきりとあのアパートが浮かんでいた。
静かに二階に上がってインターホンのある門前を覗きこむ。
カーテンに隠れ、向こうからは見えないように慎重に。
門の前に男が見えた。
柵越しに全身が見える。
スーツを着て鞄を手に持った男。
「嘘だろ」
まさかだとは思うが、もうそうとしか思えなかった。
幼いころに見たパラライズ呪で見たあの男。
もう昔の事なのに、あいつと重なって見えた。見えてしまった。
すぐに身を引いて壁に隠れた。
ずるずると崩れるように座り込む。
「たったあれだけで」
敷地内に入って、二階に上がっただけなのに。
それなのにあんなものが付いてくるなんておかしいだろ。
なんで俺なんだよ。土屋も転校生だっていたんだからそっちに行けよ。
ふざけんな。なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけない。
「くそがっ」
どうすればいい?
家には上がってこないみたいだし、ひとまずはこのまま放っておいていいか。
きっといつかは居なくなるはず。
うるさいチャイムは音楽でも聞いて無視しよう。
スマホはどこに置いたかな。
ズボンのポケットに入れてたと思ったけど、入っていない。
寝る時に邪魔だから取り出したような気もする。
ベッドの上を探す―――あった。
ついでにベッドに上がって布団にくるまった。
寝たばかりで今は眠気がないけど、そのうち眠くなったら寝てしまおう。
大丈夫。大丈夫。
こうしてなかなか眠れない夜は更けて行った。
チャイムの音はその後も鳴っていたのか鳴っていないのか。
分からないまま朝を迎える。
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