最終話 斎庭リエの視界
倒れた鏑木が青褪めた顔で私を見上げている。
こめかみには銃口の冷たい感触が押し当てられていた。
引き金を引けば、全部終わる。
全てのものは繋がっていて、全てのものは変わり続けていて、その中で多くの脅威からは逃れられず、最後には必ず命の輝きを失う。
そんな苦しみの連鎖から解き放たれるのだ。
そう考えれば怖くはなかった。
私は鏑木に別れの言葉を告げて自分の頭を撃ち抜いた。もう生きているのが嫌だった。
あんなに苦しい思いをしたのに、私が好きになった人は、最初から私だけを見ていたわけじゃなかった。
暗示を使えるようになってからの与野村くんは独善的で怖かった。
それは死という過酷な体験と、強大な力を手に入れたことで変わってしまったのだと信じていた。
けれど違う。私は彼のそんな一面を全く知らない、めでたい女だったのである。
だから引き金も心も軽い。
鼓膜が破れそうな音がして、視界の端に赤と白の飛沫が見える。鏑木の顔を赤く染めたことに妙な満足感を覚えた。
まさか脳みそが飛び散っている間も意識が残るなんて想像していなかったのである。痛みはゼロ。
けれど、それも長くは続かなかった。私は一瞬で真っ暗闇に閉じ込められる。
これでようやく死ねた。安堵すらした。
けれども、私は考えていた。
考えるということは、私がまだ存在することを意味している。
死は終わりではなかったのか? 命の輝きが失われてなお思考回路が動くことに違和感を覚える。
闇は永遠に続くかと思われた。
それくらい長い時間、私は考え続けた。
ふと、自分の中に他の誰もいないことに気付く。
彼らがどこにも存在していない。
そして、与野村くんの影も綺麗さっぱり消失していた。
きっと私の脳が破壊されたからだろう。ひとつの頭に棲むには多すぎる同居人たちは去っていった。
なら家主の私も消えないとおかしい。辻褄がまるで合わない。
戸惑っているとうっすらと天井から光が差した。
白い壁に囲まれた清潔感のある部屋に私は立っている。意識の連続性が途切れたのだと思う。
ふと横を見ると鏑木がベッドに寝かされていた。意識はないらしく、私にも気付いていない。
どうやらここは病院の個室のようだ。
「まさか……」
自分の手のひらを確認するが、何もない。首から下も透明だ。窓ガラスさえ誰も映していない。
視界だけが確かに存在するのに、他が何もなかった。感覚すら希薄で立っているというよりは浮いている感じがする。
幽霊にでもなってしまったのかと心配になり、鏑木に触れようとした。
しかし手が無いのだから接触はできない。
「人格が入れ替わったときと感覚が似ている。けれど私の身体はもう存在しない。だったら……」
これは、与野村くんが陥ったのと同じ状態なのではないだろうか?
死んでなお意識だけが他人の体に生き続けている。
しかし理解できないのは何故、鏑木の身体に居るのだろう。
私の中に与野村くんが居たのは、私が与野村くんの脳を食べたからだ。そのせいで彼の記憶と人格を引き継いでしまった。
いや。
鏑木も、少量だけど私の脳みそを食べている。
拳銃自殺したとき、すぐ近くに鏑木がいた。呆然と口を開けて私を見上げていた彼の顔に血と脳みそが降りかかったのだ。
そのとき、ひとかけらでも口の中に入ったのだとしたら……
死んでなおも苦しみが続くのか。一体、どうすれば私は解放されるのだろうか。
もう現世に未練なんて無い筈なのに。
さらなる絶望に打ちひしがれていると、病室の扉が開いた。黒いスーツに黒い髪を真ん中分けした女が入ってくる。
斉藤ハジメだった。鏑木を影からサポートしている、ある意味では新咲ユリよりも厄介な存在だ。
私の脳天を撃ち抜いた弾丸はこの女のもので間違いない。
「こんなことになるなんてねぇ〜」
黒いスーツの女は大きな溜め息をつき、私をすり抜けて鏑木の枕元に立った。
顔色は良くない。疲れているといった様子である。
鏑木は人の気配がしても目を覚さなかった。
「斎庭リエの拳銃自殺、後始末はこっちでやっておく。今は休んでね。鏑木くんがどんな記事を書き上げるのか楽しみにしているわ」
それだけ告げて、斉藤ハジメは出ていってしまった。せめて鏑木が目を覚ますまで待ってやればいいものを。
こうなると私にはどうしようもない時間だけが続く。もう1度、自殺しようとしても何かに触ることのできる身体が無い。
早く消えてしまいたい。ネガティブな感情とは真逆でポジティブに今の状態を知る必要がある。
どの程度まで鏑木から離れられるかを試したが、せいぜい10メートル程度だったし、看護師に声をかけてみたが反応はなかった。
もしかして鏑木本人ですら認識できないのではと疑ったものの、目を覚ました彼の周囲をウロウロしていると落ち着かない様子を見せた。私のことをはっきりと認識できないが「何かいる」という違和感程度は持っているらしい。しかし、これではコミュニケーションが取れない。
私は絶望の中にあって、さらに落胆させられた。
「鏑木さん、お食事ですよ」
悩む私を尻目に食事が運ばれてきた。
いいにおいだった。
急に空腹を感じる。空虚だった胃が突然活動を始めたようだった。
気づけば私は、目の前のトレイに並んだ食べ物を犬のようにかぶりついていた。
看護師がびっくりして私に掴みかかって食事の邪魔をする。
その途端、私は再び透明な存在へ戻って、満たされない空腹に苛立ちを覚えていた。
散らかった食事を看護師が片付けている間、鏑木は何が起こったのか分からないという顔をしている。
さっき、一瞬だったが私が彼をコントロールした。視点は鏑木の目で捉えたものになり、匂いも彼の鼻が嗅いだものだった。
そういえば…… 私が初めて、与野村くんに意識を乗っ取られたのも食事の時だった。
あのときは白銀の死の世界で、肉団子にかぶりついていた。
もしかして、与野村くんも練習を積んで私の人格のひとつになったのでは?
最初から自由自在に身体を乗っ取れたのではなかったとしたら?
彼が使っていた暗示ですら、うすらぼんやりとした不確かな世界での覚醒だったとしたら?
もちろん、こんなのは全て妄想だ。けれど死ぬことのできなかった私はくだらない思考に費やせるだけの十分な時間を得ている。
これからじっくり試せばいい。
鏑木の意識を、私の人格が上書きできるのかどうか。
この身体が死ねば……きっと私は解放される。
今の私の中に与野村くんがいないのと同じように。
鏑木に恨みはない。
けれど、私が解放されるために死んでもらわないといけない。
もう苦しみが続くのは嫌だった。ぼんやりと存在するだけで心が擦り減っていく。
早く死にたい。
早く死んでほしい。
これが、命の輝きを失った後の世界なのだろう。
死とは単に心臓が止まるだけじゃない。魂が向こう側へ渡ることなのだ。
私の魂はまだ在る。だから繋がりが絶たれてなお苦しい。
仄暗い死の神が私の脳を犯す。
与野村くんはきっと、私に食べられた後でここを垣間見た。彼はそれを悟りと呼んだのだ。私の脳を通じて現世に還った与野村くんは、死を超えた教主になろうとした。
私は教主になるつもりなんてない。けど、聞いてほしい。
人間の死体なんて食べるもんじゃない。
どうしても食べなければならないなら脳だけはやめたほうがいい。
でも人間に生まれたなら、飢えて、痩せ衰えて、恐怖に負けたとしても、そのまま人間らしく死ぬべきだ。
もがき苦しむのが好きなら止めはしない。だって、輝きのない世界はどこまでも自由なのだから。私が苦しみから解放されようとしても、もう誰も止められない(了)
奇食ハンター、斎庭リエはなぜ人間を食べたのか? 恵満 @boxsterrs
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