第40話 遥かなる白亜

 あの後、痛みで気絶した僕は病院に運ばれたらしい。もちろん、肩を外されただけなので命に別条なんてなかった。誰がどう運んでくれたかは全く記憶にないし、看護師に病院名を聞くまで自分がどこにいるのかすら分かっていなかった。

 白い天井と消毒液の匂いの中で思考はパタリと止まって、ボーッと数日過ごしているうちに退院できてしまった。その間、誰も見舞いには来ない。

 てっきり、警察がやってきて事情を聞かれると踏んでいたのに。

 代わりにハジメさんの遣いだというスーツ男(ディアブロを代行運転した人物だった)が現れ、彼に送迎されて自宅まで戻ってきた。

 道中、僕は何度も尋ねている。これでもかと、しつこいくらいに。


「あの後、どうなりました?」

「申し訳ありません。斉藤様から質問には一切答えないように言いつけられております。また、連絡を寄越すなと告げるように念押しもされています」

「ハジメさんは? あと、新咲さんは?」

「申し訳ありません。答えることはできません」


 送迎してくれたことには感謝する。けれど気分は最悪だった。スーツ男はマンションに着くなり早々に去ってしまい、独りぼっちとなった。

 自室に戻ると若干、荒らされたような形跡があった。と言っても家探ししたように足の踏み場が無いわけじゃない。

 当日、留守番していた新咲ユリの仕業だろう。僕が記憶しているのと違う位置にクッションが移動していたり、開けた覚えのないクッキーの缶が空になっていたりする。コーヒーカップが2つテーブルの上で出ていて、飲み残しがあった。

 本当にあの日から時間が止まっているらしい。キッチンの生ゴミが処理していないせいで臭った。

 床にもうっすらと埃が積もっている。さすがの僕でも掃除せざるを得ない。サイクロン式の掃除機を取り出し、唸りに耳をたむけて、考えるのをやめた。食器類も洗ってゴミ出しも済ませる。

 ひとしきりきれいにした後、冷蔵庫から未開封のミネラルォーターを取り出してソファに腰を沈める。


 テレビを付けるのが怖い。

 ネットも見たくない。

 恐る恐る記憶を辿るが、赤いノイズが入っていて鮮明でなかった。


 だから気分転換に散歩することにした。マンションを出たは行く宛がなく、とりあえず駅前に向かって歩く。まだ肩には違和感があったものの、動けないほどじゃない。


 それにしてもよく晴れている。雨は降りそうになかったが代わりに日差しが強い。整備されているはずの歩道が妙にジャリジャリして靴底が擦れた。

 街はいつもと全く変わらない様子である。僕が存在しようがしまいがあまり関係ないらしい。そんな事実をあらためて確認していると人通りが妙に少ないことに気付く。

 もしかして今日は平日だったのだろうか? 曜日感覚が希薄で、すっかり忘れていた。


 普段なら人目なんて気にしないのに、こんな時間から私服でブラブラしていて真性の暇人だと思われるのが嫌だった。バツが悪くなって踵を返し、公園のある方角へ向かう。

 商用ビルの間に設けられた一角は緑が広がってベンチが並び、噴水から流れ出た水が人工の小川を作っていた。

 お昼時はサラリーマンの憩いの場となっている。今は時間が早いせいでポツポツとまばらな人影があるだけ。犬を連れた老人や、ジョギングをしている中年男性などなど。


「ふぅ……」


 ベンチに腰掛ける。どうやっても気が晴れることはなさそうだ。

 それならば向き合うべきじゃないかと、自分に言い聞かせる。

 しかし、脳はそれを拒否していた。


 ほじくり返していくとまず赤い色を思い出す。続けて鉄と硝煙の臭いが鼻腔に蘇り、欠落だらけの視覚情報が浮かんできた。誰かが僕の前で、血を撒き散らしながら倒れている。

 顔は黒く塗り潰されていて判別できない。けれど僕には、それが誰だかよく分かっている。

 記憶の中もまた、公園だった。ただし、ここみたいな駅前ではなく海に面した場所である。


「……ダメだ」


 口元を押さえてえづく。急いで公衆トイレに駆け込んで吐く。

 数日の入院でも食事は殆ど喉を通っていないから、吐瀉物は少なかった。明らかに精神的な失調をきたしている。

 医者に診てもらったほうがいい。そうだ、そうしよう。

 しかし、財布すら置いたまま家を出てしまった。一旦、帰宅しないと行動もままならない。


 トイレを出てまたベンチに戻る。

 僕がさっきまで座っていた場所は既に占領されていた。

 ふんぞり返っているのはTシャツにジーンズというラフでありきたりな格好の女だ。手脚がすらっと長く、見た目で運動神経が良いのが分かる。

 容姿端麗で小顔だが表情は険しく、僕と目が合うと不機嫌を露わにした。ベリーショートの銀髪をバツが悪そうに掻き毟っている。


「あなたは……死んだはずです」

「鏑木がそう認識しているなら、死んだんでしょ?」


 投げやりな声にも聞き覚えがある。

 身体が硬直して動かない。逃げ出すことも、近づくともできなかった。

 そうしていると僕の立っている場所が急に陰る。何かと思って空を見上げた。


 太陽と僕の間には天地方向が逆さまになったいかだが浮いている。

 水もない。重力にも逆らっている。何もかもが出鱈目なそれの上は、血の気の失せた人々が折り重なっていた。


「メデューズ号のいかだ……」


 目の前の銀髪女が以前、話してくれた。

 彼女は雪山で見たという。天地逆さまのまま空を進むだ。

 それが僕にも見えている。ハッキリと、輪郭がぼやけることもなく。乗っている人たちが僕を手招きしていた。その中に、見覚えのある胸糞悪い男がいた。

 彼らは……身体が欠けていたり、口元を血で濡らしていたり、見るに堪えない姿をしている。


「鏑木もアレが見えるようになったのね。でも実害は無いわ」

「僕を恨んでいますか?」

「どうして?」

「僕がでなければ、あなたには会わなかった。あなたを追い込んで自殺させずに済んだ」

「煌煌館でカウンセリングを受け続けていたら、与野村くんの人格が統合されて消滅していたかもしれない。その意味では助けられているわ」

「彼は」

「また私を追い詰めるつもり?」

「いいえ、そんなつもりは……」


 これは幻覚だ。

 僕は自分の脳が作り出した幻覚と話している。

 同時に、僕はこれを現実だと誤認してしまっていた。論拠とか常識とか全てが消し飛んで、死人と話すことに違和感が無くなっている。


「私のこと、記事にするんでしょ?」

「今となっては分かりません。僕にはあの後の状況がどうなっているのか把握できていない」

「極限状況での食人の是非を世間に問いたいって、鏑木が望んだことじゃないの」

「正直に告げると、当事者でもない連中が気ままな正義のを振り回しているのが気に入らないだけです。あなたをバッシングしていた人間が僕の記事を読んだら、何人かは矛先を変えるでしょうね」

「そういう連中を笑いたいんでしょ、あんた」

「えぇ、そういう感情は持っています」

「クズね」

「……まったく、その通りで」


 笑えばいいのだろうか。自嘲していると足に力が入るようになった。

 金縛りが解けたみたいにフラフラと進み、銀髪女の隣に座る。

 体温とか気配はまるで感じない。空気が真横を流れているだけ。それなのに底知れない存在感があった。

 もしかしたら夢でも見ているんじゃないかと思ったけど、ベンチの感触も、口の中に残る酸いた味も、リアルそのものだった。


「これはあんたの頭の中で作られた幻覚。幻覚の言葉は、意識・無意識に関わらずあんたから生まれたもの」

「つまり、この会話に自問以上の意味は無いと?」

「価値は自分で決めればいい。叱責もしないし、礼も言わない。あんたは今まで通り好き勝手すればいい」

「僕はそんなにワガママでしょうか?」

「さぁね」


 銀髪女は答えず視線を上げる。僕もつられてそちらを向いた。

 その先で筏はフヨフヨと頼りなく漂っている。死体が呻き、汚らしい咀嚼の音がここまで届いた。

 人間を喰っている。生き延びるために。


「もしかして贖罪するつもり?」

「そんな資格はないですよ」

「自分が全部悪いって勘違いしている?」

「だって、そうでしょう」

おごりね」


 しばらくお互いに黙ったまま、時間が流れた。幻覚はいつまでも僕の隣に座っている。終始、気怠そうだった。


「鏑木さん!」


 甲高い声が鼓膜を揺さぶり、ベンチ越しに振り向く。

 小柄なポニーテールの少女が息を切らして立っている。どうやら直前まで走っていたらしい。

 一瞬、名前が出てこなかった。間抜けに口をパクパクさせていると、その子は深呼吸をしてから僕の隣に座る。

 銀髪女はもういなかった。


「新咲……さん?」

「心配しましたよ! 今日、戻ってくるって聞いていたからマンションに行ってみれば誰もいないし……」

「あぁ、ごめん」

「さぁ、戻りましょう。病み上がりなんだから大人しくしていてください!」


 新咲ユリが立ち上がって僕の手を引く。しかし、肩に痛みが走って思わず手を払ってしまった。


「いや、まだ肩が痛むから……」

「そ、そうですよね! すいません、ちょっとテンション上がってしまいました。ゆっくり帰りましょう」


 促されて帰路についた。

 人通りが多くなっている。ただ行き交う人を眺めているだけのなのに僕の心はささくれていく。

 横を歩く新咲ユリは、さっきと打って変わって静かだった。少しでも喋ってくれれば気が紛れるだろうと踏んで声を掛ける。


「ねぇ、新咲さん」

「はい、なんでしょう!?」

「仕事、また手伝ってもらえる?」

「オッケーです! ぜんぜん構いませんって!」

「ありがとう。少し休んでからだけど、一緒に行って欲しい場所があるんだ」

「鏑木さんの望みとあらば地獄だって一緒に行きますよ!」


 僕は、僕のやりたいようにやった。

 その結果を受け入れなければならない。

 驕りだと笑われたっていいんだ。


 振り返ると、視界の端に斎庭リエが立っていた。喧騒の中で彼女の姿が消えるのを見届けてから僕はまた歩き始めた。

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