第39話 死の聖母
我ながら最悪の手段だと思う。本当ならこんなことは告げなくて済む筈だった。
僕は、ある程度だが斎庭リエの周辺にいた人物も調べている。食べられた側の与野村誠のことも。
帰国後、どうして煌煌館に身を寄せたのか。それがマネージャーだった与野村誠が理由だったのも取材の途中で察している。だから深掘りはしなかった。
加えて軟禁を脱した斎庭リエの口から語られた白銀の死の世界での出来事は興味深いと思う。あの極限の環境で彼女は与野村誠の死に報いようとした。
現代社会でおおよそ許されざる食人に手を出してまで。
だから、僕は敢えて彼女に告げなかった。
調べた限り、与野村誠には内縁の妻と子供がいる。事務所には秘密にしていたし、船越の口からも言及はなかった。それだけでうまくやっていたということだろう。
それにも関わらず複数人の女性と同時に付き合っていた形跡もあった。
死人の悪口に興味はないし、過酷な状況から生き延びた斎庭リエに追い討ちをかけるような真似はしなくない。
けれど、ハッキリ言わせてもらう。
「斎庭さん。あなたは最初から与野村さんにとっての特別なひとりじゃないんです」
「嘘」
「彼は妻子がいることを周囲に隠していました。その妻子には愛人がいることを隠していました。与野村さんは同時に複数の女性と付き合っていたんです。積極的に信者を勧誘していく中での役得だったのでしょう」
「嘘よ」
「……僕は、その人たちがどこにいるのかまでは追っていません」
「それなら」
「けどハジメさんの調査能力があればすぐにわかると思います。そんなことする意味はないでしょうけど」
斎庭リエは銃口を下ろした。
綺麗な顔を歪めて、今にも泣き出しそうだった。
「与野村くん! 答えて! 鏑木の言っていることは本当なの!? もし本当なら私を好きって言ってくれたのは…… 私を死なせないために自分の死体を食べてもいいって言ってくれたのは…… あれはなんだったの!?」
悲痛な声に答えは返ってこない。
全ては斎庭リエの脳内で起こっていることなのだ。
頭の中だけで他の人格とコミュニケーションを取れないというのは、彼女自身が言っていたことである。しかし、その声は他の人格も聞いているという。
「私、死んだ人間を食べたのよ!? エドゥアルドが頭蓋を割って、脳みそをかき出して、ドクターが煮込んでスープにした! ぜんぜん味がしなかった! 食べてて気持ち悪かった! 何度も吐きそうになった!」
痛々しい告白だった。インタビューの中では聞けなかったが、これが本音なのだろう。普段のクールな装いも、テレビの中の道化具合も、元々は斎庭リエが持つ演技の幅だったのかもしれない。
これが素の彼女だとしたら、魂の慟哭は誰かが受け止めてやるべきだと思う。
しかし、与野村誠は沈黙を貫いた。
「そんなことしてまで生きようと思ったのは、与野村くんがいたから! 本当は、食べたくなんてなかった!」
「斎庭さん……」
「みんなが私を人喰いだと指差す! 気持ち悪いだとか、バケモノだとか、平気でひどいことを言うの! お父さんにも、お母さんにも言われた! こんなことになるなら、あの雪山で死ねばよかった!」
天へ叫んで、それから頭を抱える。
もう僕には弁解の余地はない。けれど、こんなことを話してでも新咲さんを助けなければならないのだ。
「僕はこんなこと話すつもりはなかった。斎庭さんが与野村さんの死体を食べた理由を知って、なおさら話してはいけないと思ったんです。知らなくていいことが、この世の中には多過ぎる」
「私に、それを話して、まだ何かインタビューする気なの?」
「後ろで聞いているんでしょう、与野村さん。これ以上は斎庭さんにトドメを刺すことになりかねない。だから、早く新咲さんの暗示を解いてください」
ゆらりと、斎庭リエの身体が揺れた。「鏑木。最低だな、お前」と
交代していく人格の中、一度だけ腕が上がって僕に銃口が向く。
歯を剥き出しにして怒っている。
与野村誠の人格だろう。
「ボクの
しかし、引き金を引くよりも先に腕が垂れ下がった。身体のコントロールをすぐに失ったのだろう。
顔を上げた斎庭リエは虚な目を向けてくる。周囲の空気が冷たくなった。
まるで、大型の獣を前にしているみたいな緊張感に足が竦む。
大声をあげ、肩で息をしていた斎庭リエは呼吸を整えてから僕に声をかけてきた。
「続きを」
「続きとは?」
「私に聞きたいことがあったんでしょ?」
「あなたの戦意を削ぐためです。銃を下ろしてもらわないといけなかった。もうその気はないようですから聞く必要はありません」
「いいから、続けて」
「しかし」
「その後で新咲ユリの暗示を解く方法を教える」
舌が喉に張り付いてしまいそうだ。唾を呑み込み、相手の顔を真っ直ぐに見る。
斎庭リエは時間を経るごとに存在感が薄くなり、この世のものではなくなっていくようだった。
もう右肩の痛みなんて忘れている。
「『自分の死体を食べてでも生き延びてほしい』という与野村さんの遺言に従ったこと、今では後悔していますか?」
こんなこと聞いていいわけがない。けれど彼女はそれを望んだ。
昨日までの精悍な戦士であれば首を横に振ったことだろう。
今は違う。
捨ててきた全てのものを否定された斎庭リエは小さく見えた。
「後悔している」
斎庭リエは短く答え、拳銃をこめかみに押し当てた。
トリガーが指にかかっている。引いたら弾丸が頭蓋を貫き、脳を地面にぶちまけてしまう。
僕は掴みかかって止めようとしたが、忘れていた激痛が復活した。バランスを崩して転ぶと、斎庭リエは感慨なさそうに見下ろしてくる。
「私の身体が死ねば暗示は解ける」
「待……」
「さようなら、鏑木」
炸裂音が響き、夜の公園に赤い花が舞った。
僕の顔にも温かい飛沫が飛んでくる。
スローモーションのようにゆっくりと斎庭リエの身体が倒れていく。
目を瞑った表情は穏やかだった。
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