第38話 色の無い魂

 フリオとエドゥアルドから託された登山道具はなんら問題なく機能していた。飛行機の残骸から作ったテントは風を凌ぎ、断熱材を束ねたシェラフはちゃんと温かい。アイゼンとピッケルは凍りついた岩と私の身体を繋ぎ止めて滑落を防いでくれている。

 ただひとつ、問題があるとすれば自分のコンディションだ。頭上にある氷塔が崩れないことを祈り、クラックを避け、積もった雪を掻き分け、時には風で押し戻される……そんなことを果てしなく繰り返しているせいで神経がすり減っている。

 頂上のベースキャンプにいる時より体力の消耗が早いのは言うまでもない。

 この白銀の死の世界において消耗はミスに繋がり、ミスは死に繋がる。


(与野村くんが繋いでくれた命なんだから)


 泣き言を吐きそうな身体に鞭を入れ、太陽が昇っているうちに可能な限り山を降る。

 でも完全に陽が落ちるよりも前に野営の準備をしなければならない。

 どうがんばってもコンパクトにならないテントを広げて、その中でジッと体力を回復させるのだ。眠っているのか起きているのか境目はハッキリしないけど、とにかく休む。

 また朝日が昇ったら出発する。それに備えるのだ。


 ツギハギだらけのテントは狭いので足を伸ばすことなんてできない。体育座りでやっと爪先が収まる程度の広さだ。その中で手袋をしたままブーツの上から指先を揉んで血行を取り戻す。

 防寒具の下がどうなっているのか見たくない。既に凍傷にかかって紫色に変化を始めていると思う。感覚はほとんど残っていなかった。

 山を降りた後で切断することになるかもしれない。


 じっとしていると風の音はどんどんうるさくなっていく。シェラフにくるまって耳を塞いでも、頭蓋骨に直接響いてくるのだ。

 音は徐々に意味を持ち始め、やがて言葉になっていく。「助けて」とか「痛い」とか風が喋る。幻聴だ。

 分かっていても現実との区別が付かない。見窄らしいテントの外で、私のような遭難者が助けを求めている。

 けれど開けてしまえば風が吹き込んで余計に体力を消耗してしまう。私はグッと堪えて夜が明けるのを待った。


 もう与野村くんの幻覚は現れない。

 どこへ行ってしまったのだろう。

 私を焚き付けるだけ焚き付けておいて無責任だ。

 それが彼らしいといえば彼らしい。


 不意に意識が遠くなる。疲労と眠さが襲ってきたのかと身構えたけど、感覚が異なった。

 私の意識が自分の背中からスーッと抜け出してしまったのである。

 驚いているとテントの中で小さく蹲る自分の背中が見えた。あり得ない視点だ。だって、この見え方になる距離ならばテントの布が邪魔になる。それが都合よく見えていない。


(幽体離脱? それとも疲れて見ている夢? 新しい幻覚?)


 理解できずにいると私の身体が勝手に動き始めた。

 ゴソゴソとリュックサックを漁り、中から袋包みを取り出す。

 ドクターが作ってくれただった。万が一、タンパク質が不足したら食べるように言いつけられている。


 声にならない呻き声が出る。

 与野村くんの脳みそをスープにして食べたときと同じ、強烈な吐き気が襲ってきた。

 肉体の拒絶を精神で捩じ伏せないと、スプーン1杯ですら口に運べなかったと思う。その精神というのも大部分は飢餓によって起こった生への渇望だ。


 私の身体は勝手にを食べ始める。

 口蓋に味が広がってきた。

 まずい。最低の味だ。冷えて油が固まり、食感もひどい。

 けれど私の身体は黙々と栄養補給している。


 止まれとか、やめろとか、背後から念じても通じなかった。

 今、私の身体を私ではない別の意志が勝手に動かしている。

 咀嚼するとクチャクチャ汚らしい音がした。よく噛んだ後、嚥下すると胃が拒否反応を起こしてキュッと縮む。


 感覚は切り離せていない。意識だけ引き剥がされた。

 不快な塊が喉を通る。しかし吐き出せない。

 皮肉なことに力が戻ってきた。

 私の身体は掌を丹念に舐め上げ、動かなくなる。


「栄養は無駄にしちゃいけないよ、リエちゃん」


 自分の喉が震えて、まるで他人事のように喋った。この口調には聞き覚えがある。

 私は妙に冷静で、しかも全く混乱しないで済んだ。

 消えてしまった与野村くんの幻覚がどこへ行ったのか理解した。



・・・・・・・・・

・・・・・・

・・・



 潮の臭いが鼻を突く。私の尻の下では、肩の関節を外された鏑木が苦しそうに呻いていた。

 仕方がなかったのだ。自分の身体のコントロールが戻ってきたとき、鏑木はこちらに拳銃を向けていた。

 新咲の命がかかっているから本当に撃ってくる可能性もある。これは正当防衛だと言い聞かせ、転がっていた拳銃を拾い上げた。

 重石のなくなった鏑木は脂汗を浮かべ、青い顔で立ち上がる。ダランと垂れた右腕は見るからに使い物にならない。

 ちょっと驚いた。こんなに根性があるなんて。


「い、入れ替わっていますね」

「……」

「もしかして斎庭さんですか? というか、斎庭さんですよね。その表情は覚えています。僕でもわかりますって」


 沈黙を通そうとしたが、無理だ。

 このタイミングでハズレジョーカーの人格がしゃしゃり出てくれれば私の精神的な負担はグッと減っただろう。

 けれども私は、本来の私として受け答えせざるを得なかった。


「ごめんなさい」


 それ以上、かける言葉なんて思いつかない。だから切実に切り出す。

 拳銃を鏑木に向ける。こんなオモチャなんかなくても切り抜けられる場面だけど、何故かそうしてしまった。


「……もう時間がない。新咲さんを助けたいんです、協力してください」

「無理。を解けるのは与野村くんの人格だけ。本人がそう言っている」

「斎庭さんは、新咲さんが死んでも構わないんですか!?」


 声を出さず首を横に振る。

 否定が伝わったのか、青かった鏑木の顔は少しだけ明るさを取り戻した。


「積極的に与野村さんに加担しているわけじゃないみたいですね」

「彼を理解することはできない。何を考えているのかわからない。でも、私たちはになってしまった」

「与野村さんはもうに行ってしまいました。あなたの頭の中にいるのは、あなたが報いようとした人じゃないんです」

「それでも……私は構わない。私の中の与野村くんが変わってしまったとしても」

「その一途さが利用されていると、斎庭さん自身も気付いているでしょう? その体はあなたのものなんです」


 顎に力が入って奥歯が軋んだ。加減しなければ砕けてしまいそうだ。

 眉間にシワが寄って、拳銃のグリップを握る手に力が籠る。

 鏑木は私の神経を逆撫でしたことに気付いているようだ。それでもなお私から視線を外さない。

 それどころか一歩踏み出し、私に近づいて来る。

 距離は3メートルも無い。


「じゃあ、こうしましょう。手短にインタビューさせてください。銃口は僕に向けたままで構いません。暴発しないようにトリガーから指を離してください」

「意味がわからない。血迷った?」

「いいえ。大真面目ですよ。ハジメさんから借りたんですが、やっぱり拳銃なんて持ってくるべきじゃなかった。僕はフリージャーナリストです。言葉が武器で、伝えるのが仕事だ」


 やはり、あの女の拳銃のようだ。鏑木がこんなものを持っているとは考え難いし、新咲は銃の所持を見抜いていたし。

 出どころが分かったところで威力が増すわけでも減るわけでもない。


「時間をかければかけるほど新咲が助かる可能性が下がる」

「おっしゃる通りです。だから手短に」


 2メートル。さらに鏑木が近くなった。

 例え、飛びかかられたとしても簡単にいなせる。相手は片手が使えない。

 新咲の情報によれば、鏑木は靴に鉄骨を仕込んでいる。足を踏み抜かれたら甲にヒビが入るかもしれない。けれど注意していればいくらでも避けられる。

 あと、ベルトのバックルにワイヤーを仕込んでいるとも言っていた。これに関しては用途がわからなかった。

 他に用心すべき部分は無さそうだ。見るからに丸腰である。

 一体、何をインタビューしようというのだろう。今更、どんなことを言われても私は変わらない。

 ここまで来てしまったのだから。


「与野村さん、実は内縁の妻と子どもがいるんですよ」

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