第32話 アシンメトリー

 ハジメさんの『悪魔』ディアブロは高速道路に乗ると、すぐにパーキングエリアに入った。「飲み物を買ってくる」と口では言いつつ、スーツのポケットから取り出したスマートフォンの画面を僕に向けてくる。


『余計なことは喋らないで同じタイミングで外に出て。荷物は置いたままにして。スマホの電源も切って』


 メモ帳のアプリにはそう書いてあったので僕は指示に従う。

 すると、待っていたかのようにスーツ姿の男女2人が僕たちの代わりにクルマに乗り込んで走り出してしまった。


「もう喋って大丈夫よ」

「あの……これは一体?」

「あの子が鏑木くんの部屋に盗聴器を仕掛けた可能性があるんでしょ? 荷物に同じことがされていても不思議じゃないわ。追跡用のタグだって考えられる。私たちが映画観に行ったときだって、あの子は追いかけてきたんだから」


 言われれば、確かに。

 しかし商売道具のノートパソコンを持って行かれてしまったのは痛い。

 原稿データはクラウド上に保存してあるから、ネットにさえ繋がっていれば別のパソコンからでもアクセスできるけど。


「とりえずこっちに乗って」


 駐車してあったSUV車を指し、ハジメさんと一緒に乗り込んだ。G県に遠征した時とは違う車種である。さっきの男女ペアはこのクルマに乗ってきて、ここで待機していたのだろう。

 手際の良さに感心しつつパーキングエリアから出ると、先行した『悪魔』ディアブロはとっくに見えなくなっていた。もしも僕の荷物に発信機の類が仕掛けられていたとしたら、あっちを追ってしまうに違いない。


 運転はもちろんハジメさんが担当。僕は右側の助手席に座ってシートベルトを閉めている。どこへ向かうかは聞いていない。


「情報共有って言ってましたけど、何か分かったんですか?」

「鏑木くんの助手が危険人物ということ」

「新咲さんが?」

「これ読んでみて」


 ハジメさんは運転席のドアポケットから印刷された紙束を僕に手渡す。

 脳の断面写真が何枚か載っていて、その他にも種々のテスト結果が掲載されている。揺れる車内でパッとみて理解するのは難しそうだが人体や精神に関するものだった。被験者の名前は黒塗りである。


「それは核磁気共鳴画像法fMRIの写真ね。専門外だから詳しくないけど」

「人間の脳って、こんなに左右非対称なものなんですか?」

「極めて特殊な事例だそうよ」


 断面写真に対して率直な感想を述べる。知識が十分とは言えないけど、理科の教科書やその他の本で見た人間の脳は左右対称だった。写真のものは随分と左側が小さく感じる。


「扁桃体が小さくて前頭前皮質との繋がりも弱いとテスト結果が出ている」

「すいません、僕には難しいです」

「私もサッパリよ。でも扁桃体は快感や不快を覚える部位。これの活動が鈍いと恐怖に鈍かったり、社会的な自分の立ち位置が希薄だったり、そういう傾向が出るらしいわ。情に流されない判断ができて怖いもの知らずってとこね」

「……もしかしてこれ、新咲さんの頭の中身ですか?」

「ご明察。大急ぎで調べさせもらったわ」

「どうしてこんなものが……」

「10年ほど前のものね。彼女の父親がとある医療機関に依頼したの。娘の脳に異常は無いのか……ってね」


 異常という言葉がズシリとのしかかってくる。

 書類に目を通してもピンと来ないが、これは異常性を図るためのテストだったのだろうか?


「新咲ユリの知能指数は170だそうよ。天才ギフテッドってやつね」

「新咲さんの頭が人並み外れていいのは僕も知っています」

「それと抱き合わせで先天性の精神病質サイコパスという診断結果が出ているわ」

「誤ったイメージを世間に植え付ける原因となった古い言葉ですね。サイコパスだから危険というのは短絡的ですよ。全人口の4%はサイコパスだという研究結果もありますし、分類はもっと細かいです」

「私も言葉自体はそれとなくしか把握していないの。平気で嘘をつくとか、他人の痛みに共感できないとか、そういうくらいのイメージよ。絶対悪だなんて断じるつもりはないわ」

「煌煌館の監視を自作自演していた原因としては考え得るところですが……」

「ついでに言えば、あの子の実年齢は23歳よ」

「え?」

「年齢も偽っている。そもそも高校に入学していないから、高校生だった時期すら無いわ」

「いつも学生服着てましたよ?」

「コスプレでしょうね。その方が相手をコントロールし易いと考えただけかもしれないけど」


 これは……どうしたものか。

 そもそも新咲ユリは童顔で背が低い。あの容姿だから女子高生の格好をしていても何ら違和感がなかった。そんなレベルでサラッと嘘をつかれていたことが発覚するとさすがに衝撃を覚える。

 ハジメさんはこちらのショックを見透かしてなお続けた。


「中学校までで結構な数の問題行動を起こしているわ。父親が大きな会社をいくつも経営していてね。金で事件を揉み消した形跡がある」

「例えば?」

「理科の教科書が本当なのか調べるために学校で飼っていたウサギを解体。遊び半分で同級生の男子生徒同士に決闘させて片方は半身不随の大怪我。実害が出たのは他にもあるけど、細かいエピソードも全部聞く?」

「……いいえ」

「父親も娘がサイコパスだと疑ったみたいね。それで脳の検査を受けさせて結果はクロ。そこで愛想が尽きたみたい。以後は生活に必要なお金だけ渡して放置されている」

「この前、不登校で友達がいないって話していたのも嘘ということですね」

「そこは本当じゃないかしら。学校へ行っていないのは事実だし、友達がいないのも恐らくは……」


 精神的に凹んでしまい、僕は窓の外に目を遣る。

 高速道路に沿ったビルには看板が掲げられていて、渋滞標識はこの先が混んでいることを示していた。

 右へ、左へ、大きなカーブを繰り返し曲がって、しばらく沈黙が続く。


「私が調べられないもの、覚えている?」

「確か、感情を調べることができないのと、ハジメさん自身に危険が及ぶことは調べられないんですよね」


 僕からすればハジメさんのと調査能力は魔法の域に達しているけど、どうやって調べ物をしているのかは聞かないでおく。そこを破ると協力してもらえなくなる可能性があった。


「その通り。今回の場合は前者。新咲ユリがどんな感情で嘘を重ねているのかは分からないわ。どうしても内面は類推するしかないの」

「過去の問題行動や診断結果から危険人物である可能性が高い。けれど具体的に何を目的にしているのかは不明……と」

「そういうこと。どうして鏑木くんに近づいてきたのか分からないわ」


 腕を組んで唸る。

 それって、そんなに難しいことだろうか。

 記憶を遡ってみると新咲ユリと初めて会ったときのことを思い出した。

 コワーキングスペースで作業をしている僕に彼女の方から声をかけてきたのである。

 確か「何をそんなに悩んでいるんですか?」と聞かれた。ちょっと疲れていた僕は世間を騒がせている殺人事件を追っているが、まったく解決しそうにないことを告げた。

 それから新咲ユリは断片的な情報を繋ぎ合わせて犯人を突き止めてしまったのである。


「ハジメさんは、新咲さんが反社会的だと思いますか?」

「少なくとも信用できないわね。嘘だけならまだしも、過去にやらかしたことを振り返れば状況を悪化させて楽しんでいるフシがあるもの」

「与野村誠の足跡を追っている途中で脅迫状を送られたことがあります。それを新咲さんに教えました。その直後に彼女は煌煌館の監視をでっち上げることを思いついたのでしょう。そうすれば

「今更だから教えてあげるけど、鏑木くん。あなたG県に入る度に煌煌館から尾行されていたわよ」

「G県限定ですか? ということはレンタカーのワイパーに挟まれていた脅迫状は本物だったってことですね」

「支部があるからそれだけ暇な人がいるってことでしょう。信者たちだって一枚岩じゃないから功を焦った奴がいたんじゃない? 胡散臭いジャーナリストに内情を探られたくないって」

「内情に関して僕からは何ともコメントできません」

「まぁ、細かいことはいいわ。私は今の状況に賛成できない。鏑木くんは爆弾を2つも抱えたまま仕事をしている」


 聞き返すまでもなく斎庭リエと新咲ユリのことだろう。

 もとから爆弾だったとは思う。僕の家に上がり込むようになったのは計算外だけど。


「ハジメさん、もしかして僕が殺されるかもしれないとか大袈裟なこと考えていません? 斎庭リエはともかく、新咲さんは愉快犯というセンが濃厚ですよ」

「……生き物を掻っ捌いて平気な顔しているサイコパス女2人がすぐ側にいるからそれくらい心配するわよ」

「じゃあ、あの2人の目的をハッキリさせましょう。そうすれば少しは安心できると思います」

「嘘吐きと多重人格者が素直に答えるとは思えないわ」

「聞いても答えないでしょうね。だから行動してもらいます」

「鏑木くん、あなたの目的は達せられたんでしょ? 斎庭リエの記事を書くっていう当初の目的。もういいんじゃない?」

「ほぼ達成できていますけど…… 今までにないくらい深く関わった取材ですし、ここで『はい、さよなら』って放り出せるほど非情じゃありませんよ」


 ハジメさんはハンドル操作を片手に切り替えて、盛大なため息をついた。

 かなり呆れさせてしまったらしい。


「新咲さんを出し抜くのは相当に難しいとは思いますが、攻めに転じましょう」

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