第29話 死角
ついでに言うとジョーカー以外にキングだのクイーンだのがいるらしい。
大衆向けエンタテイメントみたいな展開に、ガッカリしてしまったと言うのが正直な感想だ。
しかし、彼ら(あるいは彼女ら)は主人格たる斎庭リエの利益を守る方向で基本的には動いている。過度なストレスで極限状況に陥ったとき、人格を交代してダメージを代わりに受けるという。
これには釈然としない。他人の心の中を覗けないのは百も承知している。
けれど僕が斎庭リエに抱いた印象は『精悍な戦士』だ。内面では違うのかもしれないが、少なくともジョーカーのような軽薄な人格が肩代わりできるとは到底思えなかった。
そんなわけで僕は久々にコワーキングスペースまで来て、原稿を書いている。どうにもゲストの滞在している我が家で仕事し難いのだ。
いつも見かける顔が、いつもと同じ場所に座っている。僕たちはノマドワーカーだから互いに干渉しない。仲間意識もない。誰かが仕事をしくじって大損をこいたとしても僕には関係ないし、その逆もまた然りだ。
だからこそ居心地がいいのかもしれない。そんな奇妙な共生体だったが、本日に限っていえば新咲ユリがカウンターにいなかった。ご丁寧に斎庭リエ(とその他の人格)を監視してくれている。
さて、肝心の原稿だけど綿密な取材ができたおかげでほぼ完成の域に達していた。斎庭リエが食人に至った背景とその理由、本人の口から告げられた想い……
与野村誠の遺言状が手に入らないのが残念ではあるが体裁は整ったと言える。
あとはこの企画をどこへ売り込むか。じっくり考えなければならないのはその点だろう。
「ふぅ……」
大きく伸びをして席を立ち、フリードリンクを取りに行く。サーバーの横の紙コップを取って、麦茶にしようかコーヒーにしようか迷っていると、ふと入り口のところでキョロキョロしている人物が目に入った。
大きめなバッグを肩から下げた黒いブルゾンを着た中年男で、僕には見覚えがあった。
以前、このコワーキングスペースで僕を盗撮していた
そいつはカウンターに座る店員に何か聞いて、僕のことを一瞥もせず立ち去ってしまった。
新咲ユリが言っていた通り、僕への監視が緩くなっているのだろうか。
いや、それならわざわざここに来る必要はないな……
それに監視対象である僕を全く見ないまま去っていった。
おかしな様子が引っかかって、その後もずっと気になってしまう。
すっかり原稿を書く手が止まってしまったので早めに切り上げることにした。
荷物をまとめてコワーキングスペースを後にし、雑居ビルの外へ出る。ちょうど夕方ということもあって人通りもそこそこ。はしゃぐ学生もいれば、足早に駅に向かうサラリーマンもいる。
「本屋でも寄って行くかなぁ」
向きを変えて歩き出そうとしたとき、目の前のコンビニにさっきの中年男がいることに気付いた。雑誌を読むフリをしてコワーキングスペースの入ったビルの入り口を注視している。
しかし、僕の方は見ていない。人混みに溶け込もうとしているのに全く気にした様子がないのだ。
ここまでくると流石に違和感を覚える。あの男、僕じゃなくて別の誰かを見張っているんじゃないだろうか?
あのビルを見張る理由として考えられるのは、新咲ユリの監視か?
確かに彼女は僕の協力者だ。煌煌館としても興味があるのは間違いないだろう。しかし、G県支部では「腕を骨折したときに雇ったアシスタント」という位置付けで紹介しただけだし……
さすがに大袈裟なギプスは外しているが、一応は手に包帯を巻いて怪我の治療中というフリはしている。若干の不便を抱えているのでさっさと外したいところだ。
僕は中年男の視界から外れるようにコンビニの前から通りに向かって歩く。相手は雑誌を盾にしてカムフラージュしているが頭部は動かない。やはりこちらは見ていない。
そうなると新咲ユリの見張りをしているという可能性が高くなってきた。さっき、受付で引き返したのは彼女がいなかったからだろう。
新咲ユリもまた、頭脳面では人並外れた能力の持ち主だ。しかし、未成年でもある。ましてや煌煌館の目が自分に向いているなどと知ったら……どんな風に首を突っ込むか分かったもんじゃない。
そうなると事前に手を打った方がいい気がする。
斎庭リエに逃げられた煌煌館が、僕を重要視しなくなっている現状からもそう判断できた。
ここで僕が監視の目に気付いていると周知されれば、警戒心はこちらに向くと思う。
「よし」
荒事は苦手だ。だから穏便に。
そう考えてコンビニに入り、そっと男の隣に立つ。適当な自動車雑誌を手に取ってパラパラめくっていると、僕の気配を察知したそいつは一瞥してきた。そこで「あっ」と声を漏らすと、足早にコンビニの出口へ向かう。
明らかに僕のことを知っている。今まで僕のことに気付いていなかったのが相当な間抜けに思えるけど。
僕は黒いブルゾンの男の後を追った。
男はバッグを小脇に抱えて、人を押し退けて走り出す。
「待て!」
反射的にそう叫んだせいで注目を集めてしまった。
人の波に逆らいながら進むと周囲は「なんだ?」とか「万引き?」などとザワザワし始める。聞き流しながら走るも向こうは思いの外、必死だった。
どうしてあんなに慌てているんだ?
僕に見つかったのがそんなにマズいことなのか?
追跡劇の最中、アーケード下の商店街に差し掛かる。飲み屋が連なっていて、夕方なのに外では宴会が始まっていた。
僕は早々に息を切らしてしまい、ノートパソコンを詰めたバッグの重さを呪う。
もしも斎庭リエ並の運動神経があったらこんな苦労はしないだろうに。
無い物ねだりは頭を振って消し飛ばし、路地を曲がろうとしている中年男を見失わないように全力を尽くした。
アーケードを抜ければ大通りになっているし、駅から遠去かる分だけ人も減る。
そうなると逃げられてしまうだろう。なんとしてもここでケリをつけたい。
酔っ払っている連中は突然の大捕物を酒の肴にしている。どうせなら中年男の行く手を阻むくらいのことはして欲しいものだ。
僕の方はというと限界が近い。まだ1kmも走っていないのに足が攣りそうだった。
もつれて倒れるのだけは避けようと前へ、前へと走る。息が上がって倒れそうだった。酸素が身体に行き渡ってなくて、思考が鈍る。なんて情けない。
けれど幕切れはあっさりしたものだった。
「何をやっている!?」
アーケードの終わりに、ちょうど二人組の警察官がいた。駅前に交番があるから近くをパトロールしていたのだろうか。
中年男はブレーキをかけて止まろうとするも当たり前のように警官たちの方が早い。怪しい奴が追いかけられているところにたまたま出くわしたのである。
さすがに観念したのか中年男は抵抗らしい抵抗をしないまま警官に捕まり、顔を伏していた。
その一方で、追いかける側だった僕も事情を聞かれることになる。交番まで連行されたときの周囲の視線ときたら、まさに刺さるようだった。
なんとも面倒なことになってしまったけど……
「この人、盗撮していたんです。あっちにあるコワーキングスペースで。バッグの中にカメラがある筈です」
「バッグを開けなさい」
ここで拒否して弁護士でも呼ぶかなと予想していたけど、中年男は警官の指示に素直に従った。
僕の喋った通りにカメラが出てきて、SDカードの中身を確認するとコワーキングスペース内で撮影した映像や画像が出てくる。
映っていたのはどれもこれもポニーテールにエプロンをあてがった女子高生のものばかり。
1枚たりとも僕の姿は無かったし(たまに見切れて映っていたけど)、1番古い写真の日付は半年近く前だった。
中年男は新咲ユリのストーカーだった。
彼女目当てでコワーキングスペースに通っていたことを認めた。
こいつは最初から僕なんて見ていなかったのである。
『だって、あの端っこの黒いブルゾン着たお客さん。鏑木さんが来た日だけこっそりカメラ回していますから』
新咲ユリは確かにそう言った。実際、カバンのファスナーの間からはレンズがのぞいていた。しかしそれは僕ではなく、新咲ユリを撮るためのものだったのだ。
では『鏑木さんが来た日だけ』とわざわざ言ったのは何故だろう?
いや、待て。そういえば斎庭リエと合流できた日にも、新咲ユリはこのことに触れていた。
『受付のバイトは、しつこく言い寄ってきて盗撮しようとするおじさんがいて、ぶっちゃけ辞めようと思っていたところでした!』
今日、捕まえたこの黒いブルゾンの男がしつこく言い寄ってくる盗撮魔なのではないか?
それなら半年近く前からの盗撮写真が出てきたことも納得できた。
新たに浮かんできた疑問を前に考える。
もしかして、新咲ユリは大きな嘘をついているのではないか?
そうだとしたら一体、何のために?
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