第18話 神への祈り、神の不在
ハジメさんは車の中で待機し、僕と新咲ユリの二人で受付へ向かった。
カマボコ型の建物の正面から入り、エントランスに座っていた白い服の女性信者に用件を告げるとしばらく待つように告げられる。アポイントは取ってあるからスムーズに事が運ぶ筈だ。勿論、最初の連絡通りであればの話。
「失礼ですが、そちらの方は?」
「アルバイトの子です。つい先日、派手に骨折してしまって…… 手が使えないので、荷物持ちやメモ取りをやってもらいます」
「あら、それは大変ですね……」
「今日も友人にクルマを運転してもらって。いや、周りに助けられてありがたいんですが不便で困ります」
ギプスで固めた右手を受付の女性に見せると、隣に立つ新咲ユリは丁寧にお辞儀してみせた。私服姿の新咲ユリは肩からボストンバッグを下げている。年齢は若いが、相手にはちゃんとアシスタントに見えていることだろう。
勿論、骨折というのは真っ赤な嘘だ。ギプスの下にはスイッチ式の発信機が握られている。ハジメさんが「身に危険を感じたら押せ」と渡してくれたものだ。
助けが来てくれるという解釈で間違いはない。
「それではお待ちください」
促されて受付近くの椅子に二人で座る。
新咲ユリは煌煌館の施設が珍しいのか吹き抜けを見上げて「おー」と声を漏らしていた。
「内部も白いですね」
「そうだね。統一感がある。でも床と壁で微妙に違う白だ」
「オシャレです」
「うん。でも少し静かにして待とう」
スッと唇に手を当て、チャックするジェスチャをすると黙り込んでくれた。素直なのか他に目論みがあるのか怪しいところだ。
ともあれ、しばらくすると灰色の髪をした壮年男性が現れる。この施設の支部長を務める船越で、僕の姿を見るなり驚いた顔をした。さすがに大袈裟なので演技だとは思う。
「かなりひどいようですね。痛くはないのですか?」
「ははは、面目ない。動かすと痛みますが完全に自業自得です。しかし荷物を持つのも字を書くのも難儀しますね」
「それで今日はアルバイトの方が一緒だと聞いておりますが……」
「初めまして、新咲ユリと申します」
「あぁ、初めまして。支部長の船越です。立話もなんですからこちらへどうぞ」
お互いに挨拶を済ませると、船越はいつもの応接室に案内してくれた。
煌煌館の幹部の写真が並んでいる様子を「おー……」と何故か感心したように眺める新咲ユリ。若い女の子の気を引くような代物ではない筈だけど。
ソファに向かい合って座ると途端に質問を始めた。
「この施設でどんな修行をしているんですか? 結構な山奥ですけど、滝に打たれているとか?」
胸の前で掌を合わせたポーズは滝行のつもりだろう。恐れ知らずな新咲ユリらしいジェスチャーだ。
興味を持ってくれたのが嬉しいのか船越は小さな笑みを浮かべる。
「自然を活用していることに間違いはありませんが、滝には打たれません。山奥にあるのはそれだけ世間の喧騒から離れるという意味があります。ヒトというものは環境次第で簡単に変容してしまいますからね。空気の綺麗な静かな場所で過ごすことで己を見つめ直しているのです」
「ちょっと前に流行したマインドフルネスみたいな感じですね」
「瞑想をするという点では類似しています。煌煌館の教えは、自らの脳を鍛えることですから」
「脳を鍛える? えっと、脳トレですか?」
「ふふっ、そういうのもありましたね。トレーニングには間違いありません。平易な説明は難しいのですが、脳には感情を形作る前頭前野皮質、思考と感情の統合を助ける前帯状皮質、ドーパミンやセロトニンのような神経修飾物質を送る脳幹、他にも扁桃体、脳漿、小脳、海馬……」
すらすらと難しい単語を並べていく。宗教者ではなく科学者のようなスムーズさであるが、難解過ぎて新咲ユリは首を捻ってしまっていた。
船越は「あぁ、すいません」と饒舌になった口を止めてから咳払いする。
「私たちの先祖が偶然に選択した生存戦略は自然の中で目覚ましい効果を挙げたのです。自分と世界の間に境界線を設け、心身のバランスをとり、子孫繁栄のチャンスを逃さぬ一方でそれと関係ないものを避けてきました。それゆえに苦しむようになったのです」
「脳を鍛えると苦しまなくなる……と?」
「はい。自然に対して人間の都合も感情も通用しないのが現実です。全てのものは繋がっていて、全てのものは変わり続けていて、その中で多くの脅威からは逃れられず、最後には必ず命の輝きを失います。煌煌館の教えとは、その真実を見つめて自分がどうあるべきかを問うことです」
「なるほど。船越さんって、もしかして脳科学者ですか? すごく詳しいですね」
「それなりに知識はありますが科学者というわけではありません。しかし、固い頭でなんとか勉強しましたよ」
「でも、宗教と科学って相容れない感じがします」
「かつては水と油だったでしょうね。しかし、自然という現実は捩じ曲げられません。神への祈りで、落下する石ころの軌道を変えることはできないのです」
「じゃあ、宗教なのに神様は不在であると……?」
船越はたっぷりと時間を置いた。視線は僕でも新咲ユリでもない、別の方向へ向いている。その先を追わなかったけど、壁にかけられている写真の方を向いている気がした。
「いえ、存在します。その神に逢うため修行が必要であり、この場所が在るのです」
「新咲さん、興味があるのはいいけど本題に戻ろうか」
「あっ、ごめんなさい! 私ったら調子に乗ってしまって」
「疑問に思ったことを訊くのは良いことです。世の中、知ろうとする姿勢を持たない人が多いですから」
やけに饒舌だった。僕との会話なんてもっと素っ気なかったのに。
これは新咲ユリのコミュニケーション力が高いのか、それとも単に若い女の子相手だから話が弾んだのか。どちらにせよ、僕は煌煌館を取材に来たわけじゃない。
ギプスで固めた右手を少し持ち上げて船越に見せる。
「この手だとメモが取れないので、アシスタントの新咲さんもインタビューに同席させてもらえないでしょうか? 同席がダメならば録音させて欲しいのです」
「あぁ、その件ですが……」
申し訳なさそうに目を伏せる。なんとなく言わんとしていることは分かった。川岸のことだろう。
「大変申し上げ難いことなのですが、カウンセラーの川岸さんがお亡くなりになられたのです」
僕と新咲ユリは顔を見合わせる。勿論、ハジメさんの情報で事前に把握しているから驚いているわけではない。自然なリアクションをしてみせたまでだ。
「急ですね」
「ご家族の希望で事情はお伝えできません。我々、煌煌館は取引先だったという理由で何があったかは教えてもらいましたが……」
「いえ、その辺りの事情を詮索するつもりはありません。しかし、カウンセラー立ち合いのもとでインタビューするというお約束でした」
「
脳の解説とは打って変わって歯切れが悪い。
僕は急かさず待った。
船越は躊躇いつつも続けてくれる。
「突然、人が変わったように暴れることがあります。川岸さんはその兆候を見極めておりました。インタビューをタブレットPC越しにしたのも、鏑木さんに危険が及ばないようにするためです」
「そういう配慮があったんですね……」
こちらとしてはいきなり中断されることが多々あって困っていた。事情くらい説明してくれればいいものを……と、ここで新咲ユリの推理を思い出す。
現在の斎庭リエが多重人格である可能性だ。
人が変わったように暴れるというのは、船越なりに気を遣って選んだ言葉なのだろう。
「こういった事情がありますので、インタビューにあたって条件を付け足させてください」
「条件?」
「はい。きちんと書面で取り交わしたいと思い、用意しておきました」
船越は膝の高さのテーブルの上にA4サイズの紙を置いた。何枚か重なっていて、2枚目はカーボンシートになっている。1枚目の紙にかかった筆圧が3枚目に伝わって文字が写るというわけだ。
僕は「失礼」と書類を持ち上げて内容に目を通す。そこから相手の意図を確認しておかなければならない。
「インタビューを記事にする際、煌煌館に関わる内容には一切触れないでほしいということですか?」
「はい。信者たちには斎庭さんのことは他言無用と周知してあります。それにも関わらず鏑木さんが現れたことで『誰が情報を漏らしたのか?』で一悶着がありました」
「……申し訳ありませんが、こちらも情報提供者についてはお教えできません」
「それはもう済んだことです。犯人探しをしたところで解決の道は見えませんからね。もうひとつの懸念は、鏑木さんの記事で我々が斎庭さんを保護したことが露見した場合、この施設が外部からの不要な接触に晒される可能性があります」
「可能性は高いと思います。世間の斎庭リエへの興味が再燃したらマスコミは押し寄せるでしょうね」
「私たちは静かに在りたい。それだけです」
「分かりました。書面にサインすればよろしいでしょうか?」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
ペンを借りて名前を書き入れ、写しをもらう。
心なしか船越の顔が明るいように見えた。
ここで断ったら機会が経たれかねない。実質、僕には選択肢がなかった。
「それでは斎庭さんを連れてきます」
「え? ここにですか?」
「はい。念のため、2名ほど付き添いしてもらいますので」
これは驚いた。まさかいきなり対面で話せるなんて思わなかった。
新咲ユリも僕と同じことを考えていたようで、目をパチクリさせている。
船越は応接室から出ていく。それに合わせて新咲ユリは掌サイズのメモ帳に文字を書き込んで僕に見せてきた。
『この部屋、監視カメラとマイクがあります。余計なおしゃべりは控えましょう』
迂闊なことを喋る前で助かった。
鼻の効く新咲ユリらしい活躍っぷりだ。さらにメモ帳にペンを走らせていく。
『後ろの壁におじさん写真がたくさん飾ってありますよね。その中に煌煌館の創始者いますけど、苗字が与野村です』
ドクンと心臓が暴れ、肩が震えた。
僕が最近、気にしている人物の中に一人だけその苗字の人間がいる。
斎庭リエのマネージャーであり、煌煌館の信者であり、キルレシアン航空211便墜落事故で死んた男の名前が浮かぶ。
『もしかして、食べられた
いけない、動揺が走っている。
ソファにかけた体重を前後させ、出されたお茶を口にしてどうにか落ち着こうと努めた。このままじゃハジメさんにもらったギプスの中の緊急スイッチを間違って押してしまうかもしれない。
ソワソワしていると、応接室の扉が開いて白い服の3人が入って来る。
黒い髪がふわりと輪郭を包んだ若い女だ。けれど目付きは据わっていて、纏う空気が常人のそれではない。
タブレット越しでは決して伝わってこなかった威圧感だ。
僕と新咲ユリの向かいのソファに、斎庭リエが座った。
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