第17話 あるいはかなたから

 白いガードレールが視界の隅へと流れていく。その向こう側には切り立った崖が広がって、下には細い川が流れていた。状況が状況でなければ、なかなかいい気分だ。普段の乱雑とした街中から解放されて頭の中が澄み渡っていくようだ。10センチ開けたクルマの窓から吹き込む風は緑の匂いに溢れている。

 たまに対向車が来ると、大抵は家族連れだ。ハンドルを握るのはお父さん、助手席には子供、後部座席にはお母さん。あるいはカップルが楽しそうに並んで乗っている。

 中腹の分かれ道を登れば山頂に着き、G県の県庁所在地が一望できる。中腹の分かれ道を下れば、カマボコみたいな形をした奇妙な建物が見えてくる。

 が向かっているのは後者だった。

 今日はレンタカーではないし、僕は助手席に座っている。助手席と言っても右側にある。つまり、外車に乗っているわけだ。

 ドライバーはサングラスをかけた金髪の美女。紫色のルージュに全く違和感がない。ノースリーブのシャツにジーンズというアクティブさを感じさせる服装で、スタイルは抜群だった。シートベルトに挟まれて胸の形がクッキリと浮き上がっている。


鏑木かぶらぎさん、目つきがイヤらしくないですか?」

「気のせいだよ」

「斉藤さん、ちょっとは怒ったほうがいいですよ」

「気にしないわ」


 運転席と助手席の間からひょっこり顔を出した新咲ユリは、まじまじと金髪美女の方を見る。僕からすれば新咲ユリの目つきの方がイヤらしいと思う。


「それにしてもすごい変装です」

「今朝から何回も聞いたわね、そのセリフ」

「金髪のウィッグはともかく、肌の色が違います」

「その手のプロに頼んだのよ。セットアップに時間かかったんだから」


 ハンドルを握るのは、情報屋の斉藤ハジメさん。

 普段の黒髪、黒スーツの女社長風のスタイルではない。

 姿を見られたくないので変装する……とは事前に聞かされていた。変装といえば地味になるものだけどハジメさんの場合は真逆でド派手である。殆ど別人と言えるレベルだった。


「その胸は詰め物じゃないですよね? いつものスーツの時はどうしていたんですか?」

「新咲さん、ちょっと落ち着こう。デリカシーを大事に」

「普段は潰しているのよ。出っ張りすぎて不恰好ったらありゃしない」


 後部座席の新咲ユリは興味津々で朝から質問責めにしている。それも段々と距離感の危ういことまで聞いている始末だ。僕は内心、ヒヤヒヤしている。

 ハジメさんは気分を害した様子もなく平然と答えているけど、それが逆に怖い。

 ともあれ女性同士の会話に口を挟み過ぎるのは得策じゃないだろう。ブレーキはほどほどに、トークの流れに任せるままにしておく。

 車内でのおしゃべりというのは絶妙なバランスの上に成り立つもので、ピークが過ぎると嘘のように静まり返る。大体はひとつの話題が出尽くした後にそうなるのだ。

 こういった切れ目はリセットの合図となる。適度に和やかな空気をブチ壊したのはやはり新咲ユリだった。次なるトピックスが車内へ解き放たれる。


「鏑木さんは、もしも斎庭ゆにわリエと同じ状況になったら人を食べますか?」


 ルームミラーで後部座席をチラ見すると、膝の上に軽く握った手を置く新咲ユリの姿がある。目が合うとニコリと笑ってくれた。僕は胸焼けのようなものを呑み込むしかない。


「それって飛行機が雪山に墜落したらってこと?」

「はい。全く同じ状況を想定した思考実験です。生き残った方の中に猟師さんがいて、解体も調理もしてくれます」

「食べないかな」

「即答しましたね? 飢餓状態でも?」

「食べないね」

「迷いがありません。倫理観の問題でしょうか」

「生き残った後が辛そうだから。斎庭リエの取材をしていて、つくづくそう感じたよ。世間の風当たりが尋常じゃないし、助かった命を自分で絶つことになりかねない」

「ま、鏑木くんの意見はごもっともね。戦後に食人の罪で裁かれた事例ってゼロよ。でも法律が許しても一般市民の感情が許さないなんてよくある話だもの」


 見兼ねたのかハジメさんが助け舟を出してくれる。

 それだけ新咲ユリの興味の方向というか、トークが危ういということだ。

 自分の胸のことに触れられた時はサラッと流すのに、こういうところはハジメさんらしい。

 僕もベクトルを変えるために続ける。 


のことですよね。あれは死体損壊の罪で懲役1年を食らっています」

「人間を食べた罪じゃないのよね、確か」

「えぇ。犯人は食人はあっさり認めましたが、殺人は断固として否認しました。あれもキルレシアン航空211便墜落事故と状況が似ています。違うのは海か山か、飛行機か船か、それだけです」

「でも人数は全然違うのよね」

「はい。ひかりごけ事件は加害者1人、被害者1人です。対して斎庭リエの事件は、加害者5名に被害者10名です。他の15名は亡くなりましたが、食べられることはありませんでした」

「全員が罪に問われなかった。近代的な判決だったのかもね」

「まぁ、おっしゃる通りです。でも世間が許さなかった」


 ひかりごけ事件は昭和に発生したが裁判記録は何故か破棄されている。事件の起きた地元の人の証言で、あらましが語り継がれているだけだ。


「鏑木さん、なんでなんですか?」

「事件をモチーフにした小説が発表されたんだ。けど作者は犯人にインタビューしたわけじゃないし、内容も創作だ。そのタイトルなのさ」

「へぇ、それは知りませんでした」

「あまりに記録が残っていなかったせいで、いつのまにか、その小説の方が真実であるかのようにすり替わっていったんだ。加害者は後悔と反省の中にいたんだけど、さらに突き落とされたと思う」

「……鏑木さんが斎庭リエの取材をする理由って、もしかしてそれですか?」

「ん?」

「事実が捻じ曲がらなように記録を残すつもりなのかと」

「そんな大層なものじゃないし、今はデジタルの時代だ。斎庭リエに関するデータベースはもうネットの上から消えないだろう。彼女は死んでもなお奇食ハンターにされ続ける」


 デジタルタトゥーという新しい言葉がある。

 馬鹿なことを仕出かしてニュースになれば、その傷は永遠に消えない。

 ネットのない時代だったらどこか遠くへ……それこそ、自分のことを誰も知らない土地にでも行けば浄化されたかもしれないのに。

 ならばせめて、その傷がついた意味くらい、ちゃんと存在してもいいじゃないか。もの知らぬ第三者の中傷ばかり残るのではなく、起きてしまったことには本人の弁が添えられているべきだ。



 僕は自分がとなった根本たる疑問を口にする。

 その答えは本人すら知らないかもしれない。

 あるいはインタビューをしていけば聞き出すことができるかもしれない。


 氷点下の白銀の世界。

 飛行機の墜落で生き延びたにも関わらず、また別の死が口を開けて待っていた。

 恐怖が自我を凌駕したのかもしれないし、生き延びなければらない理由があったのかもしれない。

 僕は、人間の死体を加工してスープにした彼女のWhyを知りたい。

 

「自分の世界に浸るのはいいけど、目的地が見えてきたわよ」


 ハジメさんの声で顔を上げると、例のカマボコ型の建物が見えてきた。

 宗教施設が山奥にあるのはどうにも修行のためらしい。

 不便じゃないかなと思う。


「それじゃ、手筈通りやりましょう。何かあったら迷わずボタンを押してね」

「わかってますって」

「頑張ってね、してしまった可哀想な鏑木くんと、アルバイトに雇われた女子高生の新咲さん」

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