第10話 推測乗数
原稿が捗らない。
こういう時は環境を変えるに限るけど、その後にファミレスやら喫茶店やらに入っても身が引き締まらなかった。
だから、またも例のコワーキングスペースに足を運ぶ。
バッグに紙の資料とノートパソコンを詰めて、受付で年間契約のパスを提示した。
ここは単発でも週単位でも月単位でも借りられる。
年間会員になっているので気が向いたときに来るわけだ。
しかし、コワーキングスペースでも仕事は捗らない。
安楽椅子探偵の女子高生こと新咲ユリに絡まれている。
妙な興味を持たれている自覚はあったけど君はアルバイトとして受付に座っているんじゃなかったのかと尋ねたくなった。
見回りついでに僕の作業しているデスクの近くで止まって事もなげに尋ねてくる。
「例の彼女さんとはうまくいってますか?」
「あの人、ただの取引先だから」
「じゃあカラオケ行ったのも接待ですかね」
「どうして知ってるの?」
「ちょうど近くの本屋で立ち読みしていたんですよ。それでお二人がカラオケに入るところで見かけて」
エプロン姿の新咲ユリに悪びれた様子はない。にこやかに、ただし意味深に佇んでいる。
周囲で真面目に仕事をしているノマドワーカーたちには申し訳ない。気が散るのか僕たちの方をチラチラと見てくるのだ。
居た堪れなくなって大きなため息を吐き、どうコメントするか思案する。
もう彼女の灰色の脳細胞では僕とハジメさんが付き合っているらしい。なんと失礼なことを考えているのだろう。
「あのね、男女には釣り合いってものがあるの。僕みたいなフリーのジャーナリストと、あんな綺麗な人が付き合えるわけないでしょ?」
「確かにすごい美人でした。お金も持っていそうです」
「そうそう」
「う〜ん、まぁ、今はそういうことにしておきます」
その言い方だと、いつかは判断を変えるということだろう。
あまり真面目に付き合っていても疲れるだけなので放置することにした。
けれど地縛霊よろしく動く様子がない。まだ話があるのだろうか?
「もしかしてヒマなの?」
「受付で座っているだけですし」
「本を読むとかどうかな」
「それはそれで楽しいけど今はもっと面白そうなものがありますから」
「僕のことか」
「はい。
詳しく話していないせいで、余計に楽しく見えてしまっているのかな?
まぁ、知性を持て余している(と自称する)新咲ユリにしてみれば食いつきたくなるのだろう。
前回、半端に教えてしまったことを後悔した。ちょっと胃が痛い。
更なる情報を引き出そうとしているのか、わざわざコーヒーまで持ってくる。ここはそういうのセルフサービスのはずなんだけどなぁ……
さっき飲んだばかりだけど追加のカフェインを「ありがとう」と受け取っておく。
「何か聞き出すまでは離れないつもりだね」
「はい」
さて、どうしたものか。
餌を撒いて大人しくさせるか、ちょっとばかり怒ってみるか、選択肢は色々とありそうだ。
悩んだ挙句に僕はバッグの中から、透明なジッパー袋に入れた紙片を取り出す。
この前、丁寧にもらってしまった警告だ。あれからというもの、何かしらのコンタクトを期待していたが音沙汰はない。
「取材の帰りにクルマに戻ったら、ワイパーに挟まれていてね」
「右のワイパーですか? それとも左のワイパーですか?」
「運転席から見て右だったかな」
そこが重要なのかと聞きたくなったけど言葉のキャッチボールはしないでおく。
既に新咲エリの目がキラキラと輝いていた。
しかし、どういうわけか文字を読むでもなく蛍光灯に透かしてジッと見ている。
「僕が首を突っ込んでいる件、引き下がった方がいいと思うかい?」
「鏑木さんはそういうことしないと思います。興味の人ですからね」
「うん、やめるつもりはないよ」
「これを書いた人と接触しようとしましたね?」
「どうしてそう思うのかな」
「いつも通り冷静だからです。紙は最初の折り目以外ないし丁寧に取り扱っています。どっちのワイパーに挟まれていたかも覚えていました。こういう脅迫状を受け取った人って少なくとも慌てると思いますよ」
「内心、ドキドキしたんだけどなぁ」
「読んだ後は周囲に誰かいないか探しましたね。でも誰もいなかった」
「まるであの場にいたみたいに……」
「あ、これはただの想像です。勘です」
僕は苦笑いしながらノートパソコンのキーを叩いた。
こうもスラスラと言い当てられるとおかしくなってくる。
このまま放っておいたら犯人を見つけてくれるだろうか、なんて期待すらしてしまいそうだ。
「ちなみに鏑木さんはスランプみたいですね。取材がうまくいっていなくて」
「そういう判断が的確なのがなんだか腹立つなぁ」
「怒らせちゃいました? ごめんなさい。普段よりも集中力がないなと思いまして。これは純粋な観察力で判定しています」
「あちこち行って、おつかいみたいになっちゃってね」
「その途中でこの手紙をもらった……と。自覚がないだけで精神的に凹んでいると思います。リフレッシュした方がよいのでは?」
「的確だなぁ……」
思わずボヤいて手を止める。
こうして新咲ユリのサボリに加担していることに多少の罪悪感があった。
特に払拭しようと思わないあたり、僕にとっては本質的に些事なのだろうけど。
「取材が終わった後で見つけたということは、このお手紙の人は鏑木さんが来ることを知っていたわけですね」
「少なくとも取材相手には話したよ。大学の助手をしている人でね」
「その人が鏑木さんのことを言いふらす可能性ってあります?」
「ぽろっと漏らすことはあってもわざわざ広めないんじゃないかな。取材といってもその助手にインタビューするんじゃなくて、助手と同期だった人の印象を聞こうとしていたから」
「なるほど。その同期の人は亡くなっていると」
この話の流れでスパッと言い切ってくるのが怖い。
あまりヒントを与えると何を取材しているのかも知られてしまいそうだ。
新咲ユリは腕組みして天井を仰ぐ。これが考える人のポーズだというなら、随分と偉そうなものだ。
「多分、ずっとマークされていますね。鏑木さん」
「え? いや、まさか」
「この場合は『ずっと』というのは語弊がありますけど、ある時点からこっそり尾行されていると思います」
「尾行ってものすごいお金かかるんだよ。わざわざ僕をマークする意味がわからないな」
「お金はあるところにはあるんです。悲しい現実ですけど」
「しみじみと言わないでほしいな」
尾行されている?
この僕が?
そんな気配は感じない……なんて言えたもんじゃないな。僕はそういうものに対しては素人同然だ。
でも新咲ユリにそう言われてしまうとさすがに不安になってくる。
大体、僕がやっていることといえば
もしも辞めさせたいならもっと早い段階で脅してくればいいのに。
「自覚がないだけで確信部分に近づいているんじゃないでしょうか。例えば、その大学の人をもうちょっと辿ると極めてまずい何かに当たるとか」
「そこへ踏み込む前に警告を出してきたと?」
「さぁ、どうでしょう。少なくとも私ならそんな七面倒くさいことせずにもっと早い段階で脅しますけどね」
ますますわからない。
あちこち取材はしても、僕が知りたいと思う例の事件の具体的な内容は出てきていなかった。
それこそ、例の
いや。
考えられるケースがあった。
「僕をビビらせておくと、もっと情報が出てくると思っているでしょ?」
「いえいえ。そんな滅相もない」
的を射ていたのか、珍しくバツが悪そうな顔を作って新咲ユリはそっぽを向いた。
なんて心臓に悪いことをしてくれるんだろう。
やはりちょっと怒って突き放すべきだったか……
「仕事なんだから
「それは8割くらい正解だと思いますよ」
「またまたそんな」
「だって、あの端っこの黒いブルゾン着たお客さん。鏑木さんが来た日だけこっそりカメラ回していますから」
いきなり顔を近づけ、新咲ユリが耳元で囁いてきた。
僕は驚きをギリギリのところでツラの下へ押し込め、なるべく自然な様子でコワーキングスペースの中を見回す。
確かに一段高くなった作業机に黒いブルゾンの男がいた。ノートパソコンの横にはショルダーバッグが無造作に置いてある。
そのファスナーの間からは小さなレンズがのぞいていた。
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