第6話 希望の夜明け号

 帆船『希望の夜明け号』は出港から3日後の夜には操舵不能となっていた。季節外れの嵐に呑まれ、帆が半ばからへし折れ、梶も流されてしまったのである。

 長い夜が明け、明るくなるとそこかしこから水が漏れてきた。

 こうなると、いよいよ船を捨てなければならなかった。

 残っていたのは船長と航海士と調理師、そして下働きの少年の4人である。他は波に呑まれて消えてしまった。

 彼らは沈みゆく船から木材を剥ぎ取り、樽をウキににし、簡易ないかだを作ってそこに水と食料を運び込んだ。

 どうにか一命を取り留めて安堵したことだろう。

 だが太陽と星は「陸地から遠ざかっているぞ」と語りかけてくる。

 そもそも急増品のいかだは浮かぶだけで精一杯だった。風を受けることも、舵を切ることもできない。

 4人は潮の流れに身を委ねるしかなかった。

 日中は太陽の光に晒された。肌は赤黒く焼け、膿ができた。痒くなって爪を立てると皮膚が破れて血が垂れ流れ、波飛沫が当たってのたうち回るような痛みを起こした。

 かと思えば夜は凍えるほど寒い。まともに眠ることなどできず、ただ身を丸めて海に落ちないように気を配った。

 そんな上にも海水は容赦無くかぶさってきて、ただでさえ見窄らしい服は常に濡れた状態になる。体温が奪われると考えることもできなくなった。

 船長は食事の取り分を決め、水も1日に一口だけと決める。これで1週間は持つという計算だった。

 しかし、それだけでは喉が乾くし腹も減る。魚でもとれないかと水中を覗き込んだが徒労に終わった。

 我慢できずに塩水を飲むと喉が焼け、濡れた髪が乾くと塩が噴き出てくる。

 耐え難い苦痛が4人を襲った。

 下働きの少年は自分だけ食料が少ないことに不満を露わにしたが、船長が体も小さいし大した仕事もしていないと怒鳴りつけて黙らせる。

 少年は船長には逆らえなかった。船長がナイフを持っていたからだ。

 いよいよ食料が尽きると狭い筏の上で動けずにいる男たちは、木材を齧り始めた。多少は気が紛れたし、木の繊維はよく噛めば食えないこともなかった。だが結果として腹を下した彼らはさらに水分を失ってしまう。

 航海士もコックも道具が流されてしまったので仕事などできない。この状況では我慢することが仕事に等しい。

 一方の船長は決断することが仕事だった。その決断は良い方向に転がることがなかった。

 7日どころか10日経っても、陸地はおろか船の一隻も通り掛からない。

 ここは航路からかなり外れているのではないか? そんな不安が誰の胸にもあったが、口に出す気力も無かった。

 ある日、波まで漂う海藻を見つけた。少年が掬い上げてすぐに口へ運んだが、すぐに船長に奪われてしまった。

 塩辛いものの何もないよりはマシだった。

 その番には雨に遭遇し、これでもかと口を開けて天を仰いだ。久しぶりに飲む水である。

 筏の真ん中に残しておいた樽にも雨水が溜まった。

 けれど目が覚めたら空になっていた。誰かが勝手に飲んだのだろう。

 船長の激憤はまず調理師に向き、次に航海士に向いた。二人は声を揃えて少年がやったと告げる。

 少年は身に覚えがないのに殴られた。

 日焼けだらけで痩せ細っているのに、こういうときだけ力が入っている。

 歯が折れ、口の中から血が流れ、少年は仰向けになった。息が荒いし、心臓の音が弱々しく耳裏に響いている。

 もう考えるのも嫌だった。こんな惨めな状況で生きるくらいなら死んで天国へ行ったほうがマシだった。

 船乗りの中には信心深い人間だっている。少年はどちらかといえば、その部類だった。

 最後の力を振り絞って神の聖名を告げ、這いずるように筏から身を投げる。

 残った3人はそれを止める力もない。しかし、どんな不幸からか少年のズボンは筏に引っかかってしまった。

 泳ぐ力もなく、沈むこともなく、少年は顔を海中に向けたまま呼吸ができずに息絶えた。

 船長は少年を引き上げるように、航海士へ命じた。航海士は重い体をどうにか奮い立たせて少年のズボンを掴んで筏の上まで引っ張る。

 船長は調理師に少年の服を脱がせるように命じる。調理師は、船長の異様にギラついた目に恐れをなして言う通りにした。

 痩せ細って肋の浮いている。肩から腕、そして顔の皮膚は火傷になっていた。

 この少年の体は血液の流れが止まっている。これからどんどん腐敗していく。

 航海士は死体と一緒に過ごすのなんてごめんだと思った。ここは水葬にしてやるのがいい。

 そう提案しようとしたが、それよりも先に船長がボソリと呟く。


「食料だ」


 航海士と調理師は顔を見合わせた。

 考えていることは一緒らしい。こいつは狂ってしまったのかと。

 筏の上に食料なんてない。


「こいつを食う」


 船長はナイフの先端で少年の死体を刺し示した。

 それから彼は、普段ならまずは口にしないであろう神の聖名と伝書にある教えを説く。

 まるで教会の神父のようだった。

 曰く、少年の死は神からの授けものであり、我々はこれを喰らって生き延びねばならないのだと。

 説教が終わると航海士の腹が鳴った。既に消化できるものなんて胃袋の中には入っていない。調理師も同じことだった。

 船長はナイフを調理師に手渡して「捌け」とだけ告げる。

 調理師は鳥や豚なら捌いたことがあった。しかし人間を捌いたことなどない。

 どれほど罪深いことなのかと考えていると船長は静かに「捌くんだ」と促してくる。

 その前に塩水でもいいから洗わせてくれと、調理師は懇願した。

 手のひらで海水をかけて航海士と二人で少年の死体を洗った。

 船長のナイフは歯が溢れていて解体にはかなり苦労する。調理師は吐き気と戦いながら樽の中に少年だったものを詰めた。

 黒く染まったナイフを船長に返すと、血まみれの手を海で洗い流した。指の皮膚はひび割れていて、合間にまで染み込んだ赤い色は落ちない。手だけが健康的な血色になっている。


「こいつは波に呑まれて死んだことにする。いいな?」


 二人はもう生への渇望に逆らえなかった。ただただ死ぬのが嫌だった。

 それから2日が経ち、他の船に発見された3人はどうにか生き延びて故郷へ帰ったという。

 だが調理師は己の罪に耐えきれず『希望の夜明け号』で起こったことを告発した。

 船長は裁判を受け、「少年は自分が死んだら食料にしてくれ」と懇願したと主張している。

 調理師はしばらくして自殺した。航海士は世間から非難を浴び、その後は海の仕事に就くことなく行方をくらました。

 最終的に船長は無罪となり、『希望の夜明け号』で起きた陰惨な宴はあってはならぬ物語として後世に残った。





 資料に目を通し、僕は夕暮れの空を見上げる。

 とある文献の一部分をコピーしたもので、オリジナルは持っていない。それほど高い値段の本じゃないけど、わざわざ買う気が起きなかった。

 これも経費節減というやつである。


 潮風にあたるにはちょうどいい臨海公園だった。視線を巡らせると積まれたコンテナやクレーンが見える。

 オレンジ色の水平線にはちょうど大きな船が航行していた。もしもあれが海難事故に遭ったとして『希望の夜明け号』と同じことにはならないだろう。

 現代では通信手段も衛星もある。もちろん、まったく行方知れずで沈んだ船だってあるけど。


 斎庭ゆにわリエの記事を書くときはこのネタを引き合いに出そうと思った。

 19世紀でも20世紀でもこの手の事故は起きている。

 それがたまたま悪い条件が重なって21世紀で起きたって不思議はない。

 しかし、あまりにも人類は進歩がないものだ。200年近く前の海難事故と例の事件が重なってしまうなんて。


 勿論、シチュエーションの大部分が違う。ディテールだって異なる。

 けれど気になった。この船長は事件後にどうなったのだろう? もしかして、悔い改めて神に仕える身にでもなったのだろうか?

 他の文献を当たれば分かるかもしれない。ちょっと頭に留めておく。


「僕が同じ場面に遭遇したら……」


 ちょっとだけ想像力を膨らませてみる。遭難した経験も飢餓の経験もないからリアルから程遠いけど、頭の中で思い浮かべてみる。

 目の前に死んだ人間がいて、それを食べなければ生き残れない。


 どうするだろう?

 多分、解体している途中で吐いてしまうんじゃないかな。

 グロテスクなのは苦手だし。


 彼らの筏は火なんてなかったから生のまま口に運んだに違いない。

 ダメだ。僕にはできないな。

 火が通ってない肉なんて食べられるわけないじゃないか。

 斎庭リエは、なんて胆力だったのだろう。もう驚くしかなかった。

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