#15 第二夜
また夢を見ていた。夢の中の景色は相変わらず神奈川の自宅のものだったが。ところどころ置いてあるものや家具の配置が異なっている。そして案の定、昨日の夢で見た男は私のベッドの上に座っていた。まるで自分のベッドのように足を広げて本を読む姿は露悪的ですらあった。
「やあ」
目の前の男。昨日の夢で"満足"と名乗った奇人変人は気楽な挨拶をした。以前よりも子供っぽくなっている。それがどんなものに関係しているのかはいまいち不明だ。少しだけかわいい。
「何の用?もう一度夢を見せられるなんてたまらない。あの苦しみはもう懲り懲り」
「そうか……君はそれでつらいと思ったんだね」
「?あなたが私を鉛筆に溺れさせていたんじゃあないの?」
「まあそうだけど」
「いまあなたを殺して異様な現象を止める」
私は手元にナイフを持った。折り畳みナイフだ。それがどこから出てきたのかはよくわからない。夢の中でならばそれも簡単な気がした。目の前の男はあからさまにそのナイフに怯えている。
「ごめんごめん。だからそのナイフを降ろしてくれないかなー。私だって無敵ってわけじゃあない。そもそもなぜ君は僕のことが憎いんだ」
「あなたがカメを殺したからよ。私の修学旅行を邪魔した罪は何よりも重い。そして昨日のこともある」
その男、否、その少年はやはり軽薄そうに顔を横に振った。
「違うよ。君は私の夢を見るのが図星だからさ。私は現状に満足している人間を戒めるためにひょっこりと現れる杯の怪物だ」
夢の中の部屋は歪んで見える。
「例えば、今この世界に満足している人がいたとする。彼は……便宜的に彼と呼ぶけど女性でも男性でも良い。満足な生活を送っている。そうだね。妻、子供、そこそこ大きい一軒家。そんな感じの恵まれた人間だとしよう。僕たちにはそういう典型的な理想像というのがあるよね」
いわゆる昭和の理想像がサザエさん一家であるとしたら、平成の理想像は野原一家になるというやつだろう。
「周りの人たちはそれを妬んでいる」
「そんな人ばっかじゃない。妬んでる人はそりゃいるかもしれないけど、周りの人が全部それを妬んでるみたいな言い方しないでよ」
「まあそうだね。でも妬んでるんだ」
「それで、結局何がいいたいの?」
「きっかけは何だっていいんだ。その男はある会社の人事部で働いており、これまで何千と何百の人間をその手で動かしてきた。中には命がかけられているのにも関わらず、容赦なく、ある日突然に、しかし法律はきちんと守った上で、首が切られるんだ」
「何がいいたいの?」
「その男は当然自分の娘には優しくするだろう。でもある人の人生は容赦なく断ち切るんだ」
「それは断ち切られた人の自業自得じゃないの?ほら、解雇の理由は会社側にあるとは限らない」
「そうだけど」 「さ!」
ベッドから降りて立ち上がる彼。
「ありうることじゃん。その冷たさは依然として存在する」
彼は自分が荒唐無稽な話をしていることは自覚していないのだろうか。その話は、ほとんど意味がない。トロッコ問題を話しているうちはそれに決着がつかないのと同じように、あまりにも問題提起の範囲が広すぎて議論以前の問題なのである。
「つまり私たちが生きている限りあり続ける傲慢な満足、それがあなたなわけね」
「だいたいそんな感じ。今こうしてる間にもアフリカでは1分に60秒が過ぎている。作為と不作為の迷宮に入りたくないかい?」
私たちは生きている限り無限に傲慢な満足を持ち得ているということは、なかなかに直感的には理解し難い問題でもある。そんなことをいちいち気にしていたら、ろくに仕事もできないのだから。なんなら普通は気にしないことが正解で、平常な人間は堂々と生きていて、そして私のような根暗なものだけがそのことを気にしている。だが、多くの宗教で人類は根本的に原罪を持ち抱えているというのは、案外、そういうところから来ているのかと思った。
「君はコンビニエンスストアを通り過ぎるときに募金をいつもしないだろ。レジの前の菓子類を買う君よりもよっぽどカロリーを必要としている子供たちに食料を届けられるのにさ」
「……」
「君は昔交通事故の現場にあったことがあるのに救急車を呼ばなかったろ。最後には近くに住む心優しい人間が通報したみたいだけどね」
「……」
「君は……」
その男にうんざりした。
「じゃあこういうのはどう?」
「聞いてみよう」
「男に解雇された別の人は、男を恨んでるの。男がバカに冷たくその人を突き放したものだから、逆恨みされてしまっね。で、ナイフをこういう風に男に突き刺してしまう」
「グサ」という音が聞こえたような聞こえていないような。
私は目の前の少年にナイフを突き刺してしまう。
「ふはっ」
「君にそんな度胸があるなんてね。ぶっちゃけ、私をここで殺したとこで、何の意味もないんだけどー」
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