第4話 甘いチョコレートと事件の香り

 素直に気持ちを伝えられたらどんなにいいだろうか。


 晴翔はそんなもどかしさを抱えながら意識的に雪音を避けてしまい、ついにはバレンタイン前日となってしまった。


 気持ちの折り合いがつかずに以前のように話せなかったが、必要最低限の話をすることはできるようになった。


 しかし、必要以上の会話、いつものような会話ができないため、気持ちも状況も宙ぶらりんのままだ。


 そんな状態でバレンタイン前日になってしまった。


 晴翔が悩んでいることも、親友で幼馴染の凌也はすぐに感づいた。しかし、それを話したところで結局解決するには至らず、今まで引きずったままだ。




 晴翔はその日の最後の授業の七時間目に家庭科の授業があった。


 被服室での実習や調理実習があったわけではなく教室での授業だったのだが、授業で使う資料が多いこともあり、それを運ぶため晴翔は被服室に向かっていた。


 何故晴翔が運んでいるのかと言うと、家庭科の先生は家庭部の顧問でもあり、雪音繋がりで晴翔に気安いため頼みごとを度々され、この件も頼まれたからだ。


 部活に入っている人が多数の中、晴翔は帰宅部のため断る口実もないし、わざわざ断るほど嫌なわけでく、むしろ雪音に会う口実ができるのでいつも引き受けていた。


 そして今日も断るに断れなかった。


 七限目が終わると帰りのホームルームがあり、その後掃除がある。ホームルームでは課題の変更などの授業の注意点から、学校近辺に不審者が出ているということ、掃除当番の確認など、簡単な報告や確認程度のものだ。


 晴翔は掃除当番にもなっていたため、放課後になって三十分以上は経過しており、早く帰りたいと思いつつ資料を運んでいた。


 被服室は教室とは別館にあり、かなり離れたところにある。


 渡り廊下を抜けて別館に入っていくと、甘い匂いがした。


 誰かがお菓子作りをしているのか、料理ができる調理室は被服室の一階下にあるためそれ自体は不思議に思わなかったが、違和感があった。


 この匂いはチョコレートの匂いだ。


 家庭部でチョコレートを作ったのはバレンタインの前々日である昨日で、晴翔もそれをもらっている。小さめのチョコレートのカップケーキだった。


 それだけに何故今日にチョコレートの匂いがするのかがわからない。


 誰かが作っているのかもしれない。


 疑問に思いながらも、気にしても仕方のないことなのでとりあえず目的の被服室に向かう。


 荷物を抱えながら教室をノックする。


 しかし反応はない。


 ドアを開けようとしてみたが、鍵がかかっているようで開かない。


「マジか……」


 人に運ばせておいて肝心の教室を開けていないなんて考えていなかった。それにもう授業が終わって結構な時間が経っているから部活に来る人がいてもおかしくないはずだ。


 念のため教室の中を覗いてみるが、やはり誰もいない。


 どうしようか、と思っていると再び甘いカカオの独特の匂いが鼻腔をくすぐる。


「……家庭部の人に渡せばいいか」


 人に仕事を押し付ける先生が悪い。と思うことにして、調理室にいる家庭部であろう人に引き渡すことに決めた。




 被服室と調理室は階が違うだけで座標的には同じだ。階段を下りるとすぐそこに調理室はあり、やはりそこから甘い匂いが近づいて来る。


 教室を覗いてみるが、位置的に誰がいるのかわからない。


 晴翔は教室をノックする。


 すると女生徒の声が聞こえてすぐにドアが開く。


「あれ? はるとくん?」


 チョコレートを作っていたのは雪音のようだ。証拠に、顔にチョコレートをつけており、雪音自身からカカオの甘い香りがする。


「これ、先生に頼まれたんだけど、被服室が開いていなくて」


「あ、そうなんだ。私鍵持っているからあとは運んでおくよ」


 人に仕事を押し付けるのはどうかと思ったが、姉弟間で遠慮するのもよそよそしい感じなので、ここは任せることにする。


「はるとくん、今から帰り?」


「あ、うん」


「それじゃあ一緒に帰らない?」


「え、まあ、いいけど」


 突然の話に晴翔は戸惑いを隠せない。しかし、それに雪音に気付いている様子はない。


「でも部活とか大丈夫なの? 今もなんか作ってるみたいだけど……」


 あえてチョコレートとは言わなかった。誰か本命の人にあげるのかもしれないし、昨日の部活で作ったものとは別に義理チョコを作っているのかもしれない。


 ただ、晴翔自身焦って空回しかねないので、触れない方がいいと判断した。


「大丈夫。もう作り終わったし、部活は今日は休みなんだ」


 じゃあなんでここにいるんだ?


 そう聞きたかったが、チョコレートを作っていると答えられるだけでそれ以上は晴翔も踏み込めないのはわかっているため、あえて聞くことはなかった。


「じゃあ、今から教室に荷物取りに戻るから、下駄箱で」


「うん、わかった」


 雪音は小さく手を振りながら晴翔を見送る。


 そんな晴翔は今までのモヤモヤした気持ちが晴れたわけではないが、軽い足取りで教室に戻った。


 晴翔は教室に戻るとすぐに、焦る気持ちを抑え、急ぎながらも落ち着いて帰りの準備をする。


「晴翔、まだ残ってたのか。一緒に帰ろうぜ」


 声をかけてきたのは凌也だ。まだ帰っていなかったのかというのはこっちのセリフだと思いながらも晴翔の気持ちはそれどころではない。


「悪い、先約があるんだ」


 雪音と帰るということを凌也には一言くらい言っておいてもいいかとも思ったのだが、余計な詮索をさせるのが今は面倒くさいので事後報告にしようと自己完結する。


「そうか、頑張れよ」


 もっとも、凌也はそれに感づいているようだ。


「じゃあもう行くわ」


 晴翔がそう言うと、凌也は軽く手をあげて見送る。


 廊下を走ることなく、しかし急ぎ足で下駄箱に向かう。


 靴を履き替え昇降口に向かうと、雪音はすでにそこにいた。


「ごめん、待たせた」


「ううん、全然大丈夫」


 晴翔は急いだつもりだったが、待たせてしまったようだ。ただ、これは晴翔が遅かったというより雪音の用意が早かったのだと晴翔は思う。


 どちらが何を言うわけでもなく、二人は歩き出す。


 特に話題もなく無言のまま校門を抜け、校外へ出た。しかし、その沈黙さえ、晴翔には心地よかった。


 だが、無言のままでそのまま帰るというのももったいない気にもなり、晴翔は必死に話題を探す。とりあえず無難に学校での話題を出す。


 授業中どういうことがあったとか、誰が何をしたとか、逆に雪音の方は何かあったのか聞いたりして、必死に話していることを周りから見れば一目瞭然だ。雪音も気付いている。


 しかし、そんな必死な晴翔の話も、雪音は真面目に耳を傾け、時には微笑みながら話を広げてくれる。自分の不甲斐なさに晴翔は落ち込みながらも、今は雪音との会話を楽しんでいた。


 長い時間を話していた気分になっていたが、どうやら話に夢中で歩くペースが遅かったらしく、まだ、普段なら徒歩五分圏内にいた。


 そこで少し間が空く。


 次は何を話そうか、たぶんお互いがそんなことを考えていたであろう数秒の沈黙____。




 その沈黙の数秒の間に、耳に突き刺さるような声にならない悲鳴が響く。




 密室でもなんでもない青く澄み渡った鮮やかな空模様。少し冷たい空気が心地いい日。


 そんな日にはそぐわない悲鳴が響き渡った。


 その悲鳴は近いところから聞こえた。


 前方から聞こえたが、そこには人はいない。辺りを見回しても誰もいない。


 しかし、すぐにそれは解決した。


 前方の十字路、その左側から少女は飛び出してきた。


 少女は周りを見ずに必死に何かから逃げている。そのせいで、十字路から少し離れていたところにいた晴翔に気付かず、勢いよくぶつかった。


 晴翔はよろめいたが倒れず、ぶつかって転けそうになった少女を抱きとめるように支える。その少女は同じ制服で見覚えがある。名前は知らないが、他のクラスの同級生だったはずだ。


 少女は我に返り、晴翔を見上げると口を開いた。


「助けて!」


 少女は目に涙を浮かべている。


 少女が何かから逃げているということは理解しているが、晴翔は状況を完全に把握できずに困惑する。


 晴翔が慌てている時、少女が飛び出してきた十字路から、今度は男が飛び出してきた。


 その男は刃物を持った、どこからどう見てもまごうことなき不審者だ。


 日常的に刃物を持った人物と対峙することはまずない。

晴翔はパニックになってしまうが、泣いている少女の安全が第一だということは頭にあり、横にいる雪音にアイコンタクトをして少女の身を預け、不審者と少女の間に自分の体を入れる。


 この後はどうすればいいのか、そもそもこの不審者と少女はどういう関係なのか、全てがわからない。


「知り合い?」


 こんな場面で聞くことではないかもしれなかったが、痴話喧嘩という可能性も否定しきれないので念のためだ。


 少女は当然のごとく、全力で首を横に振る。


「ねーちゃんはこの子連れて逃げて」


「大丈夫なの?」


「大丈夫だ」


 ただの強がりだ、しかしそう言うしかない。晴翔の言葉に、雪音は静かに頷いて少女の手を引っ張りながら徐々に距離を取る。背を向けて走るのが危険と判断したため、男の方を向きながら少しずつだ。


 しかし、男もそのまま簡単に逃がそうとはしない。


 刃物を振り回し、奇声を発しながら今度は雪音に狙いを定めている。


 もちろん晴翔がそのまま通すわけもなく、男の前に立つ。


 だがやはり刃物は怖い。腕を掴んで止めようと揉み合いになる。


「痛っ!」


 晴翔の右腕に激しい痛みが走る。


 制服がぱっくりと切れ、血が滲み出てくる。


 腕から出た血は垂れ、右手が真っ赤に染まる。


「そんな…! ちがうっ!」


 晴翔の腕から溢れてくる血を見た男は急に怯え出し、晴翔から距離を取ろうとする。


「走れ!」


 その隙を見た晴翔は叫び、それと同時に雪音は少女を連れて走り出す。


 そんな二人が視界に入っていないのか、男は何かをぶつぶつと呟いている。


 断片的に聞こえた声からは、脅すために刃物を出しただけのようだ。それで晴翔の腕を切った張本人が一番驚いている。


 もしここで男が開き直って切りつけてきたら晴翔はひとたまりもない。男を無力化するにはどうすればいいか、そんなことは晴翔にはわからない。


 しかし、利き腕の右腕は痛みで動かない。左腕だけで応戦できるとも思えない。


 まずは刃物をどうにかしたい。


 手に持っている刃物を蹴り飛ばそうと、半回転して勢いをつけながら右脚をあげる。


 火事場の馬鹿力か、思った以上に足が上がったが、元々高い位置にあった男の手、刃物には届かない。しかし、何かに当たった感触がする。


 晴翔の右足は男の顎を直撃していた。


 男はそのままプツリと糸が切れたかのように手から刃物を落とし、膝から崩れ落ちてその場に倒れこんだ。


 晴翔も腕の痛みに耐え切れずにその場に座り込んだ。


「あー、痛い」


 誰かに訴えかけるわけでもなく、ただ独り言のように呟く。


 もう動きたくない。いや、緊張の糸が切れてしまって痛みで動くことができない。


 出血は止まらず、頭がクラクラする。


 だが、休むことは許されなかった。


「うぅ……」


 男はまだ朦朧としながらも意識があるようで、刃物を拾い上げ、呻き声を上げながら這って近寄ろうとしてくる。


 晴翔の体は動かない。


 ここで初めてハッキリとした恐怖を感じた。


 しかし、視界に唐突な変化があった。


 嫌な金属音が聞こえる。その音は刃物が蹴り飛ばされて地面のコンクリートとぶつかっている音だということはすぐに気がついた。


「大丈夫か?」


 こんな状況でそう呑気に語りかけるのは、凌也だった。


「大丈夫なわけないだろ……」


 痛みに堪えながらも晴翔はなんとか答えを返す。


「つーか、なんでここにいるんだよ」


 それはまさに一番の疑問といってもいいことだ。


「帰ろうとしてる時に美耶子さんと会ってさ、晴翔と雪音さんが一緒に帰るって話したら尾行しようって。あ、美耶子さんは雪音さんたちの付き添いで一旦学校に避難したからそのうち先生とか警察の人が来ると思う」


 それを聞いて晴翔は安心した。


 少女もそうだが、雪音が無事なら晴翔はそれで十分だ。


「てかやばい、頭がぼんやりする……」


「え! おい!?」


 凌也の声が遠く聞こえる。晴翔の記憶があったのはここまでだ。


 出血の影響で晴翔はそのまま意識を失った。



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