第7話 1969年10月

 10月1日 - 宇宙開発事業団発足。さらに、福井テレビジョン放送、秋田テレビ開局。また、フジテレビジョンをキーステーションとする放送ネットワーク・フジネットワーク(FNS)発足。

 

 勇は千住河原町にあるヤッチャバ跡にやって来た。男性の絞殺死体が見つかったのだ。倉橋警部も同席している。

 数年後には東京中央卸売市場・足立市場が出来るが、まだこの頃は空き地だった。魚問屋と分離した青物問屋が街道筋に軒を連ねていたが、東京大空襲で焼失した。

「ヤッチャバって何ですか?」 

「ブレイブはそんなことも知らないのか?セリの掛け声だよ」

 勇は寒気を感じて後ろを振り返ると大猫がいた。

 勇はエクスカリバーで一刀両断した。

「まるで、宮本武蔵みたいだ」

 倉橋は唖然としていた。


 10月4日 - TBS系でザ・ドリフターズ出演の公開バラエティ番組『8時だョ!全員集合』が放送開始(1985年終了)。

 被害者の身元が判明した。

 新津平太にいづへいたという殺し屋だ。

 新津は、アニメーション制作会社『芦田プロダクション』社長令嬢・芦田蛍あしだほたるを手なずけて、企業乗っ取りを企むが、ドライブ中に遭遇したニットウェア姿の男の銃撃により蛍が死亡。彼女の死体を始末する一方で、蛍の父親に脅迫状を送りつけ5000万円の身代金を要求した。警察の罠をかいくぐり、札束をかすめ取った。


 10月5日 - フジテレビ系のテレビアニメ『サザエさん』放送開始(2020年現在も放映中)。

 またこの日、スピードシンボリ号が日本馬として初めて凱旋門賞に挑戦。24頭中10着に敗れる。

 朝のNHKニュースで新津の死を知った芦田昌幸あしだまさゆきは涙を流しながら笑った。

「天罰が下ったんだ」

  

 10月6日 - 千葉県松戸市がすぐやる課を設置(発案者の松本清市長はマツモトキヨシの創業者)。 

 また、この日房総半島で鬼火が目撃された。

 江戸時代の怪談集『怪談老の杖』に、以下のような記述がある。

 千葉県長生郡大東崎でのこと。ある船乗りが水を求めて陸に上がった。

 美しい女が井戸で水を汲んでいたので、水をわけてもらって船に戻った。船頭にこのことを話すと、船頭は言った。


「そんなところに井戸はない。昔、同じように水を求めて陸に上がった者が行方知れずになった。その女はアヤカシだ」


 船頭が急いで船を出したところ、女が追いかけて来て船体に噛り付いた。すかさず櫓で叩いて追い払い、逃げ延びることができたという。

 

 10月7日 - 球界黒い霧事件発覚。西鉄の永易将之投手など数球団の主力選手が永久追放受ける。

 渡辺晴彦わたなべはるひこの父は駒沢公園近くで仲間と合成モルヒネの秘密工場を経営していたが、恋人の美津子みつことの婚約を機に汚い仕事から足を洗おうとした。晴彦の母は5年前に肺炎で亡くなっていた。まだ晴彦は13歳だった。

 秘密が洩れるのを恐れた仲間の5人(竜也・聰・武蔵・百地・山口芽衣子)は父をなぶり殺しにする。5人は麻薬工場をたたみ違う分野の仕事についていたが、晴彦は父の墓前で復讐を誓い、まず赤坂にあるナイトスポット『ミカド』にて井上竜也いのうえたつやをコルトガバメントで殺害。

 1911年3月29日にアメリカ軍に制式採用され、軍用拳銃としての制式名称「M1911」、のちに1926年に改良が加えられたものは「M1911A1」と名付けられた。1985年にベレッタ 92Fが制式採用されるまで、実に70年以上にわたってアメリカ軍の制式拳銃であった。ベレッタ92Fが後継になり制式を解かれた後も、改良を加えたM1911と部品の一部を新品に交換した物が一部の特殊部隊と海軍で使用され続けている。銃の使用年数を加算すると100年を超え、一部はアメリカ軍に配備されてから90-100年以上も使用されているものもある。


 戦時中にはコルト社以外にも様々なメーカーが軍に納入するためのM1911を製造し、細部や刻印が異なるバリエーションが数多く存在する。例えば軍用M1911のグリップの材質は、製造メーカーや製造時期によってベークライト製のものやウォールナット製のものなどがある。


 軍からの「1発でも、敵の動きを止められるだけの威力がほしい」という要望に基づき、ジョン・ブローニングが考案した、.45ACP(.45Auto Colt Pistol)という大口径弾を使用するM1911は、そのストッピング・パワーの高さから信頼された。軍用のM1911およびM1911A1の口径は.45ACP、装弾数はシングル・カラム・マガジンによる7+1発であるが、その後の民間でのバリエーション展開によって9x19mmパラベラム弾や.40S&W弾など各種の弾薬に対応したバージョンが生まれた。競技用にはパワフルかつフラットな弾道の.38スーパーの人気が高い。


 現代の自動拳銃に広く用いられるティルトバレル式ショートリコイル機構(スライドが後退する際に銃身の後端がわずかに下降するため、銃口が水平よりわずかに上を向く)の元祖であり、20世紀における世界各国の自動拳銃開発に対し、非常に大きな影響を与えていた。


 誕生以来大半のパーツの設計がほとんど変わっていないため、非常に豊富なカスタムパーツが存在し、使用者の好みに合わせてカスタムしやすい銃である。現在もM1911を称する拳銃を多数のメーカーやカスタムショップが製造しており、そのバリエーションは把握できないほど増え続けている。同様にグリップも様々なものが作られており、ラバー製やアルミ製、中には象牙などの高価な素材で作られたものまで販売されており、専門のコレクターまで存在している。


 大きな特徴として、ハンマーをコックした状態でもかけられるサムセーフティが左側に備えられ、そして握った時親指と人差し指の股が当たる部分に安全装置(グリップセーフティ)があり、これをしっかり握り込まないと撃てない仕組みになっている。カスタム品の中にはグリップセーフティを敢えて外した物も存在する。


 次なるターゲットの井上聰いのうえあきら(竜也の兄)を襲撃しようとするが、聰と仲間割れしていた石原武蔵いしはらむさしが聰を葬るべく差し向けた殺し屋と紀尾井町にある清水谷公園で鉢合わせとなり、晴彦は聰を取り逃がしてしまう。

「こんな夜更けに何をしておる!?」

 通報で駆け付けた警官隊に追われた晴彦は、民家に押し入って同家の娘、真央まおを人質に取り逃走。晴彦は警察の包囲網を破り、美津子が住む九段上のアパートに行くが、美津子は石原に拉致されていた。晴彦はガバメントを手に、残る4人と石原の後ろ盾で警察の黒幕である警視監、鈴木花吉すずきはなきちの命を狙う。


 10月9日 - 読売新聞社社主で日本テレビ放送網創業者の正力松太郎が死去。

 また、この日巨人が後楽園球場で中日下し5年連続セ・リーグ優勝(V5)。

「やっぱ巨人は強いな」

 勇は新宿荒木町のアパートでテレビを見ていた。

「新津を殺ったのは晴彦じゃないかな?」

 蒲生が言った。彼は百地という偽名で潜入している。

 駒沢公園のアジト近くで怪物が目撃されている。

 虎、狼、狸が合体したような姿をした怪物だ。

 最近、コレラが流行っていた。

 タイムスリップする前はそんなことはなかった。もしかしたら時代が変わってしまったのかも。

 勇は古書堂に足を運び、調べた。

 当時のコレラの惨状を綴った『安政箇労痢流行記概略』によれば、幕末の黒船来航に伴って日本にコレラが伝染し、江戸だけでも数十万人が感染したとあるが、病気の原因が不明であったことから、当時の庶民は妖怪変化の仕業として「虎狼狸」の字を当て、あらぬ説を流言したという。

 また、幕末の社会資料として知られる『藤岡屋日記』によれば、文久2年(1862年)に江戸での3度目のコレラの大流行があった際、武州多摩郡三ツ木である人物がコレラから快方に向かった後、イタチのような獣が目撃され、薪で叩き殺して火で炙って食べたとある。同村でコレラに感染した別の人物の家でも、やはり同様の獣が家から出て行く様子が目撃されたといい、多摩の中藤村や谷保村では、コレラによる病死者の遺体から同様の獣が飛び出したという。当時まだ原因不明だったコレラが虎狼狸やオサキの仕業といわれていたことから、『藤岡屋日記』の著者・須藤由蔵はこの獣をアメリカのオサキと述べている。

 明治時代には、錦絵新聞『かなよみ』の明治10年(1877年)9月21日の記事で、「虎狼狸獣ころりじゅう」と称して虎の模様を持つ狸のような獣が描かれており、実在しない獣だと断った上で、この獣を見た読者がコレラを恐ろしい病気だと認識するよう述べられている。これはいわば、病気による恐怖そのものを図像化したものといえる。

 白髪頭の店長が「ゴホッ、ゴホッ」と咳払いをした。立ち読みしてるのが気に食わなかったのだろう。

 足早に店から出た。

 津の守坂通りの西側に窪地があり、急坂には飲食店が立ち並び、細道を何度か曲がり下りると谷底には池があり、昼間は少年たちが魚釣りをしている。

 虎狼狸が現れた!頭は狼、胴体が虎、尻尾が狸だ。

 エクスカリバーを持つ勇が手が震えた。

 大猫とは比べ物にならないくらい怖い。大猫は愛らしさもあったが、コイツは目も白濁としており勇の体は金縛りにあったように動かなかった。 

 そのとき銃声がした。

 坂の上に蒲生が立っていた。

 虎狼狸が呆気にとられてる間にエクスカリバーで串刺しにした。断末魔を上げながら怪物はドサッ!と倒れた。

 この夜からコレラは収束に向かった。 


 10月10日 - 巨人の金田正一投手が400勝達成。

 真央(19歳)は紀尾井町にある信用金庫の支店に勤務する新人OLであった。バス運転手をしてる父親が帰宅すると玄関の鍵が開いたまま娘がいなくなってるので、胸騒ぎを覚えた。支店に問い合わせた時、身代金を要求する一本の電話が入ったことから誘拐が発覚。支店側はすぐさま警視庁に通報。通信係の大木は犯人を刺激しないよう非公開としつつ、その後もかかってくる犯人からの電話に逆探知で犯人の居場所を特定しようとする。


 晴彦は父親に佃大橋に身代金4500万円を持ってくるよう指示するも身代金奪取に失敗。晴彦は警察が近くにいることを察知した。築地も随分変わったものだ。築地川と隅田川を結んで何本もの水路が走り、銀座を隔てた築地川にはカキ船が浮かんでいた。築地市場の北側には寺がたくさんあったが、空襲で焼けてバラック小屋になった。晴彦が幼い頃は河口付近には木造船(通称ダルマ船)を家として暮らす水上生活者がたくさんいた。

 

 真央の父、田中英心たなかえいしんは不安から眠れない夜が続いた。

 その後犯人からの連絡は途絶えた。そして10月12日、真央は芝浦運河で遺体として発見された。

 

 10月14日 - 西武秩父線(吾野駅 - 西武秩父駅間)が開業。同時に同池袋線との直通運転を開始するとともに、池袋駅 - 西武秩父駅間を結ぶ特急列車「レッドアロー」の運行も開始。

 勇と松永は八丈島にやって来た。山口芽衣子の故郷なのだ。

 東京都の本州島側地域の南方海上287キロメートル、御蔵島の南南東方約75キロメートルにあり、東山(別名:三原山・標高701メートル)と西山(別名:八丈富士・標高854メートル)のふたつの火山が接合した北西-南東14キロメートル、北東-南西7.5キロメートルのひょうたん型をした島。面積は山手線の内側とほぼ同じ(面積の比較)。羽田空港から飛行機で片道55分で行けることと、沖縄と比べても安価な旅費で済むため、手軽なリゾート地として親しまれている。

 富士火山帯に属する火山島で、東山は約10万年前から約3700年前まで活動し、約4万年前にカメソウノ鼻火砕流、鴨川火砕流を噴出した噴火で山頂部に6×4.5kmの東山カルデラを形成したと考えられている。完新世内では約4千年前と約6.6千年前に規模の大きな噴火が発生している。最終噴火は有史以前であり歴史記録上の噴火はない。西山は数千年前から活動を始めた新しい火山で、山頂に直径約500メートルの火口がある。1487年12月、1518年2月、1522年 - 1523年、1605年10月、1606年1月に噴火が記録されており、特に1606年の記録には、海底噴火によって火山島ができたとされる。


 東山と西山の間にある低地には、20以上の側火山(寄生火山)があり、海岸近くには神止山などのマグマ水蒸気爆発による火砕丘がある。17世紀までに数回活動した記録があるが、規模は大きくなかったと考えられている。


 気候は、暖流である黒潮の影響を受け、ケッペンの気候区分で言う所の温暖湿潤気候となっている。年平均気温は17.8℃となっており、高温多湿。年間を通して風が強く、雨が多いのが特徴。そのため、「常春の島」とも言われている。なお、雪は全く降らないというわけではなく数年に一度の頻度で降る。東京都心から遥か南に存在するため常夏のイメージを持たれているが、八丈島の緯度は大分県大分市と殆ど同じ(北緯33度6分)であるため、ハワイ(北緯18度55分)や沖縄(北緯26度12分)よりも遥かに高緯度になり、常夏とは言い難い環境となっている。それでも日本で海外渡航が自由化された1964年においては、ハワイ旅行が当時の国家国務員大卒初任給(1万9100円)の19倍となる36万4000円と非常に敷居が高かったため、ハワイの代替として旅行先(特に新婚旅行)に選ばれることが多かった。


 桟橋から海を眺めていた勇は大きく伸びをした。

「東京とは思えないな〜」

 松永は何故か、八丈島の歴史について詳しかった。考古学的には、縄文時代に人が住んでいたことが、湯浜遺跡や倉輪遺跡から確認されている。

 律令制度においては、東海道駿河国に当初含まれていた。

 平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が渡来し、八丈小島で自害した伝説が残っている。しかし、庶子であった二郎丸は生き延びのちに源頼朝より戦での功績として八丈島を領地として賜り、それから約1,000年、源為朝の子孫が暮らし続けているといわれている。八丈島の公式な流人第一号は、慶長5年関ヶ原の戦いに西軍石田三成方に属した宇喜多秀家である。

 秀家の子孫は、秀家の正室であった豪姫の実家である加賀藩前田氏の援助を受けながら数家に分かれて存続し、明治維新後の1869年に至ってようやく赦免された。赦免と同時に直系の者は島を離れて板橋宿の加賀藩下屋敷跡に土地を与えられて移住した。数年後には島へ戻った子孫の家系が現在も秀家の墓を守っている。


 最後の流人(最後まで流刑状態にあった人物)は北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男、近藤富蔵である。1826年(文政9年)に殺人を犯して八丈島に遠島となり50年以上もの間、島で流人としての日々を送った。1880年(明治13年)にようやく明治政府により赦免。彼が流人生活の間に記した『八丈実記』は島の研究の資料として東京都文化財に指定されている。しかしこの八丈実記には、検証してみると島に残されている他の資料との相違点がいくつもあり、島の歴史を語る資料としては不適切であると唱える者もいる。


 また、吉村昭の『漂流』は、野村長平ら鳥島への漂着者を題材にした小説だが、彼らが青ヶ島を経由して生還した地が八丈島であり、五か村四千戸が地役人を中心に統治され本土との連絡も緊密な様子が終盤に描写されている。


 江戸時代には、たびたび飢饉にさらされ、特に明和年間の大飢饉では島全体で多くの餓死者が出たが、その中でも中之郷村内では実に733人の餓死者が発生、生き残ったのは400人足らずであった。この悲劇を伝える「明和飢饉餓死者冥福之碑」が中之郷地区に存在する。


 1947年7月、安井誠一郎都知事が島内を視察。山羊の導入や開墾を伴う入植計画、サメ漁などの産業振興を提案。島は今に東京の宝島になるとして持ち上げた。


 集落間で水争いや集落の境界の揉め事を竹槍で争う事件も起きた。この対立は、明治時代以降も三根村と大賀郷村との間に遺恨として残り、第二次世界大戦後も高校(明治大学付属八丈島高等学校と東京都立園芸高等学校八丈分校)の誘致や中学校の建設などで競合が起こった。1954年、昭和の大合併の中、先行して三根村が八丈村へ合流すると、大賀郷村は最後まで合流に抵抗を示した。

 

 集落にある芽衣子の家に出向いたが彼女は不在だった。父親は浅黒い肌をしている。漁師をしているそうだ。戦争の悲惨さを話してくれた。

「東日本では唯一の回天基地も造られた。島の主要港である底土港の近くにはその回天の格納壕が残されており、内部には戦後の爆破処理による回天本体の破片が今も壁に突き刺さっている。1944年7月以降、島民の本土疎開が進められてな、人口の7割にあたる5,853人が、外国人疎開地に指定されていた長野県軽井沢町などに疎開したんだが、その途中で疎開船『東光丸』がアメリカ海軍の潜水艦『シードッグ』に撃沈されて、島民約60人を含む149人が死亡する事件も起きた。この事件をきっかけに『どうせ死ぬのなら故郷の島で』と、内地への疎開を拒む島民が数多くいたといわれている。島は空襲にもしばしばさらされ、滑走路や周辺施設への機銃掃射や爆弾投下により、守備隊側の戦死は数十名生じ、長楽寺への直撃弾など民間人の犠牲者として、11人が死傷したんだ」

 父親は涙を溢した。

「終戦後の昭和20年8月24日、野戦重砲兵部隊の藤井大隊長の総指揮のもと、島のあらゆる箇所の砲台で実弾を用いて「砲兵隊集中射撃」として大規模な射撃演習を行った。三原山腹から八丈富士山麓に向かって行われ、轟々たる砲弾の発射音・飛行音・炸裂音は真昼の夏空にこだました。敗戦のうっぷんは随分晴れたよ。結局八丈島での地上戦闘は起こらなかったものの、「防衛道路」や「鉄壁山」などに防衛拠点化の跡が残っている。また、硫黄島の戦いの教訓を生かし、より強固で複雑に作られた洞窟陣地や、司令部壕が三原山や神止山など島の至るところに現在も残されている。是非、行ってみるといい」

 戦争の話をしている余裕なんてあるのか?娘が行方知れずだというのに。

 父親は土産に焼酎をよこした。 この島産の焼酎は、薩摩からの流人が伝えたといわれる。大半が麦焼酎で、芋焼酎と称しているものもあるが実際は芋・麦の混合である。


 港近くにある日本風旅館に宿泊した。

 宿の女将からテンジという妖怪について教えてもらった。

 かつて八丈島の山奥には、防災のための山小屋があったが、夜になるとここにテンジが現れ、小屋の番人の耳や足をつねるなどのいたずらをしていた。番人が驚いてテンジを怒鳴りつけても、テンジは「ヒャッ、ヒャッ」と笑いながら逃げて行くだけだった。


 ある晩、美しい少女が村の名主の娘を名乗り、ぼたもちの差し入れといって重箱を届けに来た。山番は、こんな夜に娘が1人で山を訪れるわけがない、テンジに違いないと考えた。重箱を受け取ると見せかけ、娘を小屋に引き入れようと手をつかむと、その手は竹で出来ていた。山番がナタで竹の手を斬り落とすと、テンジは悲鳴を上げて逃げていった。残された重箱にはぼたもちではなく、牛の糞が入っていた。


 翌晩、テンジが自分の手を求めて小屋へやってきたので、山番は小屋に残されていた竹の手を投げ付けてやった。テンジは手を受け取り、いつもの笑い声を上げて山へ帰って行った。


 その年、八丈島を大飢饉が襲った。山番の番人も飢えに耐えかね、小屋で死を待つばかりだった。ある夜、小屋に何かが投げ入れられたような音がした。よく見るとそこには、山芋や木の実がどっさりとあった。


 番人はテンジがくれた物と確信して礼を言うと、いつものようなテンジの笑い声と、山の方へ駆けて行く足音が聞こえた。番人はその食料の差し入れのおかけで、飢饉を乗り越えて生き延びたという。

 

 夕食は郷土料理の島寿司を頂いた。🍣

 寿司種を薄く切り醤油主体のたれに軽く漬けて醤油漬とし、砂糖でやや甘味を強くした酢飯で握る。この際、ワサビの代わりに練りがらし(粉がらしを練ったもの)を使うのが特徴である。なお、伊豆大島では練りがらしではなく、醤油主体のタレに青唐辛子を加えており、その寿司種の色から「べっこうずし」とも呼ばれる。

 島で水揚げされるカジキ、シイラ、イサキ、カンパチ、メダイ、オナガダイ、アオゼ、キンメダイ、マグロ、カツオ、トビウオ等が使用される。伊豆諸島南部及び八丈島からの移住者が多い小笠原諸島でも作られており、小笠原ではサワラを使うのが一般的である。また、戦前には硫黄島でも作られていた(酢の代わりに島で栽培されていたレモンを用いる事もあったという)。島のりと呼ばれるイワノリの佃煮の握りを一人前に一つか二つ添えることも多い。

 伊豆諸島では温暖な地域で寿司を食べるために明治以降に独自の技法が発達した。ワサビの代わりにからしを使うのは、八丈島や小笠原諸島でワサビが手に入らなかった時代の名残りである。一方、伊豆大島では醤油に「青とう」と呼ばれる辛味の強い青唐辛子を加えたたれに漬け込む。酢飯の甘みはさほど強くなく、練りがらしは使わない。基本的には握りに作るが、甘酢生姜や島のりを混ぜた酢飯に魚を乗せて、ちらし寿司風に作ることもある。伊豆諸島では刺身を食べる時にもワサビの代わりに青とうが普通に使われている。


 食後は娯楽室で将棋で遊んだ。☖☗

 松永はメチャクチャ強かった。

 戦法は、最強の駒である飛車の使い方によって居飛車と振り飛車に大別される。居飛車は飛車を初期位置である右翼に居たまま使う戦法であり、振り飛車は飛車を左翼に振って(移動して)使う戦法である。なお、飛車の初期位置は厳密には右翼のうち右から2番目の筋(先手ならば2筋、後手ならば8筋)であるが、右から3番目や4番目の筋も右翼であることにはかわりはないから、これらの筋で飛車を使う戦法も居飛車に含まれ、右から3番目の筋で飛車を使う戦法は袖飛車、右から4番目の筋で飛車を使う戦法は右四間飛車と呼ばれる。

 飛車を中央である5筋で使うものについては、通常玉将を右翼に囲う点など、他の振り飛車との共通点が多いため、一般的に振り飛車に分類されるが、他の居飛車との共通点が多い戦法、たとえばカニカニ銀(中飛車)や矢倉中飛車など、相居飛車(この場合は相矢倉)で生じる戦法であるために、居飛車に分類されることもある。

 また、横歩取りのうち飛車位置が途中で左翼になるものや、ひねり飛車のように右に玉将を囲い途中から飛車の位置を変えるような、どちらかというと相居飛車に分類される指し方もある。

 互いに居飛車と振り飛車のどちらの戦法を採るかという基準により、戦型は3つに大別できることになる。すなわち、双方が居飛車の相居飛車、一方が居飛車で他方が振り飛車の対抗型、双方が振り飛車の相振り飛車である。

 松永は居飛車タイプだ。

 

 10月15日 - 悪徳の栄え事件の最高裁判所大法廷判決。被告人等の有罪が確定。

 超高級車の窃盗のエキスパートだった大木が窃盗の世界から手を引き、怪物討伐隊として名を馳せていた。15日、昔の仲間の俊樹としきがやってくる。彼は大木の弟、夏樹なつきとその仲間たちが、闇の窃盗組織に雇われ高級車を盗む途中で、アジトに隠していた盗難車を警察に押収されてしまい命の危機が迫っていることを伝えに来たのだった。夏樹は東京から単身地元の北海道に戻り、組織のボスである新田にったと話をつけようと小樽にあるビルを訪れるが、新田の命と引き換えに夏樹に後始末を迫る。弟の命を守るため、二度と窃盗をしないという勇たちとの約束を破り、後始末をつけることを決意する。しかしその後始末の内容は、超高級車20台を21日までにすべて集めろというものだった。


 大木はかつての仲間で、札幌で駄菓子屋を営んでいる額田ぬかたの元を訪ね仲間を集めようとするが、そのほとんどは死んでいたり捕まっていたりで、実際に集まったのは今は足を洗い印刷屋をしている根津ねづと、バーテンをしている野崎のざきのみだった。そこで、大木はかつての仲間で元恋人の春子はるこを誘うが彼女は足を洗ったからと断られてしまう。

  仕方なく4人で決行しようとしている所に、夏樹が仲間を連れて自分たちも手伝うと言ってきた。大木は弟が加わる事に難色を示すが、「警察でトップに立ちたくはないか?」と、額田がワンカップ大関を飲みながら言った。

「駄菓子屋の分際で権力なんてあるのか?」

 額田はハワイアン調のレジャーウェアのポケットから『王将』の駒を出した。

「コイツがあればどんな人間でもトップに立つことが出来る」

 魔法の道具らしい。

 警察庁長官になれば春子をモノに出来るかも知れない。

「新田軍団を倒したらコイツをくれてやる」

 説得されて彼らが仲間になる事を認めた。


 一方そのころ、夏樹たちが盗んだ盗難車の事件を捜査していた北海道警察の檜垣文雄ひがきふみお警部(刑事になったのが『太陽族』が流行した1956年だったので、昔はアロハと呼ばれていた。アロハシャツにサングラス、慎太郎刈りはこの頃の若者のファッションだ)は偶然町で大木を見かけたという警官の話を聞き、大木が事件にかかわっているのではと大木の周りを捜査し始め、押収したジャガーの線から手掛かりを割り出しはじめる。

「裕さんが乗っていた奴だよな」

『銀座の恋の物語』は檜垣の青春時代に流行った映画だ。

 そして額田の駄菓子屋を訪ねて大木達が集まっていることや、警察無線の暗号などを調べていることを知る。


 大木達は一晩で20台盗む事を計画、それらを入念に下見し、綿密な作戦をたてた。決行直前、春子が仲間入りして作戦を開始、順調に車を次々に集めていくが、ターゲットの中のトヨタ・センチュリーを盗む際に警察が張っていることに気づき計画を一旦中止せざるを得なくなってしまう。額田の駄菓子屋でしているそんな時、根津の持っていたセンチュリーの鍵から押収されたセンチュリーの事を思い出し、彼らはそれを取り返す事を計画。作戦を再開し、それらを見事取り返す事に成功した。その後もいくつかのハプニングを乗り越え、函館山近くのホテル街に三菱・デボネアを盗みに行った夏樹達は根津の失態によって警備員に追われ、その際の銃撃で根津が傷を負ってしまう。 

「足がいてぇよぉっ!!」

 函館港近くにある俊樹の知り合いの病院に連れて行くこととなり、夏樹はそれに同行、期限の時間が迫り夏樹を逃がすことを考えようとする俊樹に対し夏樹は、「自分は兄のように仲間を見捨てて逃げはしない」と言った。そんな夏樹に俊樹は、大木が窃盗から足を洗い仲間達を捨てた理由が、このままでは大木と同じ車泥棒になってしまうと心配した勇が夏樹のために足を洗ってくれと頼んだからだと教えた。


 18日、大木は、最後の1台であるトヨタ・クラウンエイトを盗む。

 日本製乗用車としては初めてのV型8気筒エンジン搭載車であり、このモデルでの実績が1967年(昭和42年)に発表されるトヨタ・センチュリーの開発に繋がることにもなった。

 トヨタ自動車は1955年(昭和30年)に初代トヨペット・クラウンRS型を発表した。前輪独立懸架や低床シャーシなど乗用車専用設計を採用したこのモデルは、それまでトラック並みのシャーシ構造で間に合わせられてきた日本製乗用車のレベルアップに貢献し、当初小型車枠の上限に合わせて1,500 ccであった排気量も、1960年(昭和35年)以降は1,900 ccに拡大され、日本製乗用車の中でも代表的な地位を得ていた。


 クラウンは1962年(昭和37年)に初のフルモデルチェンジを果たし、RS40系となっている。このモデル自体は、アメリカ・フォード社のコンパクトカー「ファルコン」の影響を受けたフラット・デッキ・スタイルを備え、当時の日本の小型乗用車規格一杯のボディ寸法で設計されたもので、エンジンについては初代後期型クラウン(RS30系)同様の1,900 cc級であった。


 初代、2代目のクラウンは、一般向けのオーナーカー用途やタクシー、ハイヤー用途の分野では大きなシェアを占めるようになったが、1960年代初頭の日本では、官公庁や大企業のVIP用公用車については、まだアメリカ製のフルサイズ車(日本では大型乗用車)が主流であった。


 トヨタはこの分野に日本製乗用車として進出すべく、RS40系をベースとした大型セダンを1963年(昭和38年)秋の全日本自動車ショウ(東京モーターショー)に参考出品し、翌1964年(昭和39年)4月20日、正式に「クラウン・エイト」として発売した。トヨタ自動車初の3ナンバー車になった。


 型式はVG10型を名乗り、クラウンとは全くの別車種であることが窺える。価格は東京店頭渡しで165万円であった。生産台数は当面年間500台を目標としていた。競合するプリンス自動車の直列6気筒2.5リッター車「グランド・グロリア」が皇室・宮内庁向け納入を果たしたのに対し、クラウンエイトは当時の内閣総理大臣である佐藤栄作の公用車に使われるなど、相応に互した実績を上げている。


 1965年(昭和40年)にはクラウンと共にマイナーチェンジを実施し、普及グレードであるスペシャルと4速フロアシフト付き車が追加発売されたが、2年後の1967年(昭和42年)7月にVG20系・初代センチュリーと入れ替わる形で生産、および販売を終了している。総生産台数は3,834台。


 盗難リストを調べていた檜垣はこの車が近隣に1台しか登録がない事から、その1台にターゲットを絞り込みそこに向かう。大木がクラウンエイトを持ち去ろうとした所に檜垣が到着し、壮絶なカーチェイスが始まった。1度はうまく撒く事に成功した大木だが、パトカーの姿を見た大木は隠れようとバックしたところ、今まで凄まじいカーチェイスでも傷一つ付ける事のなかったクラウンエイトのミラーを駐車中の車にぶつけて壊してしまい、そのことで不機嫌になったクラウンエイトはエンストを起こしてしまう。そのせいで隠れて避けようとしていたそのパトカーに見つかってしまった。何とかエンジンが動き再び檜垣らの激しい追跡を受けているうちに、事故を起こし渋滞が起きている橋にさしかかる。

 身動きが取れず立ち往生かと思われたその時、荷台が空であったキャリアカーに向かって発進し、その荷台をジャンプ台に使った荒業で並んでいる車を飛び越して逃亡に成功した。大木はなんとか車を新田の許に届けるも、『約束の時間より早過ぎる』と怒りを買い、殺されそうになる。そこに駆けつけた俊樹と夏樹により難を逃れ、組織のボスである新田と対峙するが銃を向けられ空き家に逃げ込んだ。

 大木の逃亡を許してしまった檜垣は唯一の手がかりである新田のアジトにやってきたが、屋上にて銃を向けられ、新田に殺されそうになってしまう。危機一髪のところを大木が檜垣を助け、その拍子に新田は転落して、頭をコンクリートに叩きつけ血まみれになって死んでしまった。命を助けられた檜垣は大木を逃がし、大木は盗んだ車の所在を教えるのだった。


 それから、数日後額田の家で秋刀魚を食べていると、夏樹が大木に今回の礼として受け取ってくれとコンドームを渡す。「春子ちゃんをものにしろよ?もう若くないんだからさ」 

「余計なことするんじゃない」 

「生の方がよかったか?ゴムいらないか?」

「一応、もらっとく」

 続いて、書斎から額田が出て来て『王将』の駒を渡した。

「頑張れよ?」

 大木は警察庁長官になった!

 

 10月21日 - ソマリアでクーデターが起きモハメド・シアド・バーレ少将が実権を掌握。また、国際反戦デーにあたるこの日、新左翼各派は新宿を中心に各地で機動隊と衝突。この事件での逮捕者は1594人に上り過去最大となった。

 ギリシアに旅行に出かけていた倉橋が土産を勇に持って来た。

「イカロスの翼だ。これでどんな場所でも飛んでいけるはずだ」

 伝説的な大工・職人ダイダロスとナウクラテーの息子。母ナウクラテーはクレータ島の王ミーノースの女奴隷である。

 ダイダロスとイーカロスの親子は王の不興を買い、迷宮(あるいは塔)に幽閉されてしまう。彼らは蝋で鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出した。父ダイダロスはイーカロスに「蝋が湿気でバラバラにならないように海面に近付きすぎてはいけない。それに加え、蝋が熱で溶けてしまうので太陽にも近付いてはいけない」と忠告した。しかし、自由自在に空を飛べるイーカロスは自らを過信し、太陽にも到達できるという傲慢さから太陽神ヘーリオス(アポロン)に向かって飛んでいった。その結果、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。

 ただし異説では、イカロスのみが死ぬ点は一致するものの、飛行に関するエピソードはない。父子は(幽閉ではなく)追放され、船でクレタ島を脱出する。2人は別の船に乗った(イカロスがダイダロスを追ったとも)が、イカロスは帆船をうまく操れず船が転覆し溺死してしまった、あるいは、船から降りる際に海に落ちて溺死してしまった。

 

 勇は背中に翼をつけて東京を冒険した。🗼東京タワーは明治の政財界人の社交場だった料亭『紅葉館』の跡に出来た。日活の職員寮日活アパートは4階建ての建物が3棟並んでいる。美しい女性が男とキスをしてる。

 愛宕山は夕陽に染まっている。ラジオ放送がはじまった大正14年から昭和13年まで東京中央放送局があった。

 街は黄昏にぼやけていた。🌇

 数年後に放送される刑事ドラマのタイトルバックみたいだ。

 勇は東京湾上空にやって来た。 

 翼をバサバサはためかせてアンピテプラが現れた。不思議と恐怖感はなかった。勇はエクスカリバーでアンピテプラの腹を掻っ捌いた。

 

 10月29日 - 人工甘味料チクロの使用が禁止される。またこの日、午後10時30分(アメリカ時間)インターネットの原型であるARPANETでUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)からスタンフォード大学に初めてメッセージ(LとO)が送信される。情報化時代の幕開けとなる。

   

 八丈島にある原生林から山口芽衣子の腐乱死体が見つかった。素行の悪さに手を焼いた父親が自らの手で首を絞めて遺棄したのだった。

 

 石原は都内にある大学で薬理学を学び、薬剤師を目指す優秀な学生であったが、卒論が認められず留年したことで社会を憎むようになる。

 六本木の麻薬組織の大物、井崎克典いざきかつのりの下でドラッグの精製をしていたが、ある日、ついに究極のドラッグ『マーキュリー』の開発に成功する。『マーキュリー』は服用すると新幹線並みに走る能力が上がるのだ。

 だが、これを利用して足を洗おうと考えていた石原は井崎を裏切り、品川の犯罪組織『海原組かいばらぐみ』に『マーキュリー』を売り込もうと品川に飛ぶ。


 そこで石原は潮篤史うしおあつしという関西人と出会うが、彼は大の関東人嫌いだった。当然、2人はお互いに反発し合うが、霧に煙る品川埠頭に晴彦が現れ、マシンガンで2人を狙う。ダダダダダダッ!!らに、地元のギャングや警察も巻き込んで、究極のドラッグをめぐる大争奪戦が展開される。


 新津を殺した犯人は、彼の元カノの山内緑子やまうちみどりこだった。

「私を捨てて美津子を愛した彼が許せなかった!」

 取調室に緑子の声が木霊した。  

 女の執念は恐ろしいものだなと、勇は思った。

 警視庁を出た勇の目の前に巨大な渦が現れた。

 🌀


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