第5話 1969年9月

 9月1日 - 順天堂が日本初のホームセンター1号店を島根県益田市に開店。

 この時代にやってきて1週間過ぎた。

 勇は『デウカリオーン』の影に怯えていた。

 渥美清主演の『男はつらいよ』が最近公開された。喫茶店の隅に置いてある蓄音機からいしだあゆみの『ブルーライトヨコハマ』が流れている。


 新宿に住んでいる2人の青年、勇と寛太かんたは、公子きみこという女性を巡って仲違いをし、半ばやけくそになって別々の犯罪組織に加入する。勇は叔父、健太郎けんたろうの元に身を寄せ、寛太は小曽根三郎こそねさぶろうという人物の手下となるが、その後健太郎と小曽根との間で抗争が発生。勇は小曽根を見限り、自分も健太郎の組織へ入る。公子は現状に不満を持ち、日本を去って渡米。🛫ニューヨークの健太郎を頼るが、健太郎は悪者で彼女をコールガールに仕立てようとしたりする。しかし勇と寛太は公子の勧めにより和解。実は健太郎はアメリカでも他の犯罪組織との対立を抱えており、会合のためサンフランシスコに移動。話し合いは決裂、勇と寛太の武道の師匠である熊原くまはらも敵に回る。


  2人は夜の坂道で熊原にナイフで殺されそうになるが、防塵チョッキを着ていたために勇たちは無傷、ナイフを奪った寛太は熊原を刺し殺す。

「スマンな師匠……」

 寛太は大粒の涙を溢した。

 2人はそのまま組織から離脱。健太郎の手下達の多くはFBIに捕らえられるが、健太郎自身は逃亡。しかし逃亡先の香港のホテルで何者かに銃撃されて死亡した。


 9月6日 - 新東京国際空港建設開始。

 新宿駅前にアンピテプラが現れた。 

 アンピプテラは翼の生えた蛇として表現され、フランスのギーヴル(ヴイーヴル)に似ている。アンピテプラやヴイーブルといった怪物は、戦場で敵に脅威を与え威嚇する意味もあって紋章にしばしば描かれていた。寛太は成すすべもなくアンピテプラの吐く炎の前に倒れた。


 寛太の葬式の後、焼け野原と化した新宿駅前に勇はやって来た。シルクハットをかぶった謎の男が「東京のあちこちに散らばる聖なる野菜を7つ集めたら怪物を倒せる武器を授けよう」と、低い声で言った。

 

 群馬県O市の高校を卒業後、須藤和也かずやはしばらく遊んで過ごした後、1968年8月1日から近所の『郷田石油』に入社し、ガソリンスタンドの給油・パンク修理などの仕事に従事。しかし、昔の知人である有田京子ありたきょうこから依然として冷たくあしらわれたように感じたことから、実力で同級生・同僚に仕返ししようと決意した。


 やがて、和也は芸能娯楽雑誌などで紹介された映画スターなどの豪華な私生活に憧れ、容貌もスタイルも頭も良く、金があり、体力もあってスポーツが堪能で、外国語も上手な映画の主人公のようなカッコいい男を強く夢に描くようになり、「自分も金を得て、いい家に住んで贅沢な生活をし、ボディ・ビルで体を鍛え、各種のスポーツが上手で英語も喋れる男になりたい。そうなれば、自分を馬鹿にしたり威張っていたりした者たちを見返してやることもできる」などと考えるようになった。そのような欲望を満たすための資金獲得の方法として、同年秋ごろからは女優や女性歌手を標的とした身代金目的の誘拐を半ば空想的に頭に描くようになり、ノートに100名以上の女優や女性歌手の名前や、身代金の金額を記入したりした。やがて、その計画はエスカレートし、1968年(昭和43年)5月ごろには「誘拐した女優らの裸体写真を撮ったり、強引に肉体関係を結んだりして、それを種に脅せば、相手は人気商売だから要求通り金を出すだろう」と考えたり、奪った身代金の使途をノートに記入したりした。


 その間も『郷田石油』で働き続けていたが、職場に楽しさを感じることができず過ごすうち、「贅沢でカッコいい生活をしたい」という欲求は次第に強まっていき、最終的には「誘拐計画を実現するため、時期を見て会社をやめて上京しよう」と考えていた。

 同年7月初めごろに上司から仕事に不手際があったとして殴られたりしたため、ますます仕事が嫌になり、上京の決意を固め、同月25日には親にも相談せず『郷田石油』を退職。翌26日、家人に「俺も男だ。一人ででっかいこと、一生一度の人生だ!好きなようにやらせてくれ!」と記した書き置きを残して家を出、同月28日に東京に着いた。


 上京直後、上野にある簡易旅館に投宿したが、女優などの誘拐には仲間や車が必要で、すぐにその計画を実行することは困難だった。駅前の車坂町の4軒に1軒は旅館で、お上りさんで賑わっていた。

 和也は「まず部屋を借り、家具などを揃えた豊かな生活をしたい」との気持ちから、質屋の子供を誘拐して身代金100万円程度を脅し取ることを思いつき、同月29日にはアメ横周辺を徘徊して質屋を物色した。戦後、上野駅の地下道やガード下は戦災受難者のたまり場となり、ヤクザやパンパンなどがひしめき合っていた。昭和30年代は『金の卵』といわれた中卒集団就職組の最盛期だった。そして、不忍池近くにある質店『夏』で腕時計・カメラを購入した際、土間に脱いであった履物の様子から「この店には中学生くらいの息子がいる」と知り、その息子を誘拐して身代金を得ることを決意。


 同店の三男である昌利まさとし(17歳)が下校する際に誘拐しようと考え、同年7月29日 - 8月9日ごろまでの間に小刀1本、鎮静剤ブネッテン60錠入り2瓶を購入し、後者は1瓶のほとんどをすりこぎ・すり鉢で粉末にした。その後、上野公園近くにある『小暮興信所』の者を用いて昌利を誘拐する計画に変更した。公園内にはモノレールが走っており、これは日本初のモノレールだった。

 8月9日には上野駅不忍池口近くの喫茶店で小暮と面談し、偽名を名乗った上で「友人からの頼みで、翌日(8月10日)17時に『夏』の末っ子昌利を旅館まで連れてきてもらいたい」と依頼した。その上で、指定した旅館『河合荘』の部屋を予約し、拐取の準備をした。しかし、小暮からは依頼を不審に思われており、彼に再び電話連絡した際に怪しまれていることに気づいたため、計画を断念した。


 このようにして昌利の誘拐計画に失敗した直後、和也は上野駅付近で偶然出会った若い女性を旅館に誘って強姦し、金品を要求しようと考え、その女性を「自分は明智小五郎だ。聞きたいことがあるから、旅館に行こう」と誘ったが、断られたため簡単に諦めた。やがて所持金が乏しくなり、数日間にわたり野宿生活を送るようになったが、同年8月21日ごろからは上野駅近くのパチンコ店に店員として住み込んだ。パチンコ店で働いていたころ、和也は女優などの誘拐計画を考えることはなく、真面目に過ごしていた。


 しかし1969年(昭和44年)1月5日、和也は客からの注文のうるさいパチンコ店での仕事に嫌気が差し、無断で店を辞め、近くのアパートに身を寄せた。同月16日ごろ、和也は新聞の求人広告で知った石油会社に入社し、緑ヶ丘給油所で店員として働き、同店の隣りにあった会社の寮に住み込むようになった。それ以降、一時は忘れていた女優などの誘拐計画を再び考えるようになったほか、同年3月ごろからは大金を得て贅沢な暮らしをするため、多くのガソリンスタンドを経営する石油会社の社長から金を脅し取ろうと考えるようになった。その方法をいろいろ考えた末、和也はガソリンスタンドの計量器の給油ホースを切断したり、駐車中の自動車のタイヤをパンクさせる方法で相手に嫌がらせをし、その後で脅迫状を送って金を脅し取ろうと決心した。

「あの野郎、窓の拭き方が雑だとかうるせーんだよ」

 ある夜、寮で毒づいた。


 同年4月中ごろ、和也は映画館にあった職業別電話番号簿で、大きなガソリンスタンドの経営者を物色し、石油会社『ケルベロス』と同社社長宅の番号記載部分を破り取り、同社(緑ヶ丘)の社長に脅迫文を送って恐喝する目的で以下の犯罪を犯した。


 1969年4月27日1時ごろ、『ケルベロス』の経営する給油所(緑ヶ丘)で給油計量器の給油ホース3本を繰り小刀で切断し、道路下の水槽に投棄した(器物損壊罪:損害額約48,000円)。


 1969年5月4日1時過ぎごろ、同社の経営する給油所(青海あおみ店)で1. と同様、給油ホース3本をくり小刀で切断し、付近の川に投棄した(器物損壊罪:損害額約39,000円)。また、同給油所に駐車していた自動車6台のタイヤ計20本をくり小刀で突き刺してパンクさせるなどした(器物損壊罪:損害額約65,500円)。


 1969年5月4日の夜、従業員寮の自室で便箋2枚に『ケルベロス』社へ宛てた「11日に100万円を用意して東京タワーへ来い。要求に応じなければ、さらに営業上の損害を与える」などの内容の脅迫状を書き、同社社長の小暮一之こぐれかずゆき(探偵の小暮とは血縁関係なし)へ郵送したが、手紙を読んだ小暮の息子が要求に応じなかったため、喝取の目的を遂げなかった(恐喝未遂罪)。

 また、このころは直ちに実行するつもりではなかったが、女優になった有田京子などの誘拐についても時々計画を練り、北区や品川区の地図の中の女優数名の住所や、将来大金を奪った際の預金先として、いくつかの郵便局や信用金庫の所在地に印をつけるなどしていた。

 それでも6月末ごろにはいったん心を入れ替え、真面目に働こうと考えたこともあったが、1週間くらいで元の気持ちに戻ってしまう。同年8月ごろ、和也は『会社をやめて子供を誘拐し、大金を手に入れて楽な生活をするとともに、女優などを誘拐する準備をしよう』との意思を固め、同月27日に退職した。当時、和也は給料と預金の解約金を併せ、約75,000円の現金を所持していた。

  

 8月28日以降、和也は金のある質屋の子供を誘拐しようと三軒茶屋付近で、子供がいそうな質屋を物色し、同日夕方に男児、義明よしあきの父親が経営する質屋『仁王におう』を見つけた。この質屋『仁王』には長男義明(当時6歳/小学校1年生)のほか、長女理彩りさ(4歳)の子供2人がおり、義明の父親である店主・加藤東吾かとうとうごの愛人、多田優希ただゆうきも近くで別の質屋『菩薩ぼさつ』を経営していた。また、その1日か2日後には別の質屋『如来にょらい』にも子供がいることを把握したが、徘徊し続けるうちに見つけた『仁王』を見つけたため、「誘拐ではなく、放火でもして家屋の一部を焼き、相手の畏怖に乗じてさらに脅迫して金品を得よう」と考えた。


 そこで放火の方法として、ガソリンをポリエチレン袋に入れて投げ入れ、着火する方法を思いつき、8月30日にはポリ袋とガソリン4 Lを相次いで購入。同日夜には野宿した砧公園の便所内で、ガソリンをポリ袋2つに分け入れ、31日5時過ぎごろにそれらの袋とマッチを持って『如来』へ向かい、放火の機会を窺った。しかし、向かい側の家の人に見られた感じがしたため、『如来』ではなく『仁王』へ放火することを決め、同日6時ごろ、ガソリン入りのポリ袋2包を『仁王』敷地内に投げ入れ、袋内のガソリンを母屋南側壁面に密接していた竹垣近くに飛び散らせた。そして点火した包装紙様の紙を投げ入れ、ガソリンに引火させたが、家屋には引火せず、竹垣の結び紐を焦がしたのみで自然鎮火した。そのため、「この計画も失敗した」と思い、同店から金を脅し取ることは断念した。


 このようにして放火による恐喝に失敗した和也は、再び質屋の子供を誘拐して身代金を得ることを考え、三軒茶屋付近を徘徊した。同日(8月31日)夜、和也は『仁王』の前を通りかかった際、店内に同家の長男である義明の姿を見つけたため、義明を誘拐の対象にすることを決めた。


 その翌日(9月1日)以降、和也は昼間は砧公園で過ごし、夜も同公園で野宿したり、『仁王』の向かいにある旅館に泊まるなどして、義明の動静を探った。その結果、9月4日ごろには義明が小学校へ徒歩で通学していること、その登下校時間、15時ごろに砧公園へ遊びに来ることなどを知った。その翌日(9月5日) - 7日ごろまでの間、和也は東公園に遊びに来る子供たちを安心させ、義明に近づく機会を得るため、公園で子供たちと遊んだり、菓子やおもちゃを与えたりした。その間、和也は「遊んでいる義明を友達を通じて連れ出し、腹を殴って気絶させた後、タクシーに乗せて旅館に連れ込み、ガムテープで両手足を縛って猿轡を噛ませ、薬を飲ませて眠らせ、鞄に詰めて押入れに入れておき、両親に身代金を要求する」という実行方法を考え、同月7日未明にはスナック店でその犯行の手順や、身代金の使途・犯行後の変装などについて手帳に書いた。


 9月8日、和也は義明の誘拐を実行しようと決め、14時ごろに遊びに来た義明や妹の理彩、友達たちと遊び、公園から義明たちを連れ出して空き地などを連れ回ることで犯行の機会を窺ったが、いつも他の子供がいたり、いざという時に容易に実行に踏み切れなかったりするうち、18時過ぎに義明の父、加藤東吾が迎えに来たため、同日は誘拐できずに終わった。その結果、和也は所持金も少なくなってきたことから焦りを覚え、「友達を使って義明を誘い出すのではなく、通学途中の義明を交差点歩道橋付近で襲って因縁をつけ、驚いたところを腹を殴って気絶させて略取しよう」と決意。同時に「もし略取後、義明が騒いだりした場合には刺し殺すか、旅館で絞殺するのもやむを得ない」と考え、同日中に死体を包む大型のポリエチレン袋(縦73 cm×横64 cm)10枚1組を購入。また、祖師ヶ谷大蔵駅の一時預かり所に預けてあった自分の荷物の中から小刀・布テープなどを取り出し、それらを持って砧公園に駐車中の自動車の中で寝た。


 9月9日朝、和也は義明の略取を実行するため、砧公園で登校する義明を待ち受けたが、義明は母親と一緒に登校していたため、略取できずに終わった。

 邪魔だババァ、失せろよ……と、心の中で毒づいた。

 同日午後、和也は再び砧公園で他の子供に「友達と会う約束をしている」と話している義明を見つけ、近くのパチンコ店の便所でズボンを穿き替えた上で義明を略取しようとしたが、パチンコ店に行っている間に義明は姿を消していたため、この時も失敗に終わった。同夜、和也は砧公園付近の旅館に泊まり、所持品のうち(小刀など)犯行のため携帯するものとそうでないものとを分けたりして、翌朝の犯行に備えた。

 

 事件当日(1969年9月10日)朝、和也は8時ごろに目を覚ました。8時10分ごろに砧公園を通って通学する義明を待ち構えるため、急いで身支度をし、小刀をシャツの下の腹のバンドのところに挟み、布テープの芯を抜いたものをズボンの左後ろポケットに入れて旅館を出ると、8時5分ごろに砧公園に着き、そのまま義明を待ち構えた。そして、まもなく友人2人とともに登校するため現れた義明の後を追い、8時10分ごろに歩道橋を渡った。

 その階段を降り終わろうとするや、和也は義明の襟首を掴んで階段下の路上に連れ込み、「俺の弟を泣かしたろう」と因縁をつけ、右手の拳で義明の腹部を殴った。義明が泣き出すと、和也は帽子やランドセルをその場に脱がせ、「助けて、助けて」と泣き叫び、もが義明を両手に抱きかかえ、走って砧公園の公衆便所まで拉致した。当時は周囲を多くの人や車が行き交っていたが、目撃者の多くは誘拐とは気づかなかった。


 和也は公衆便所の男用大便所に義明を連れ込み、内側から施錠したが、義明が「助けて!」「殺される!」と大声で泣き暴れたため、仰向けに押し倒し、手で口・頭を押さえつけたり、布テープを口に貼り付けたり、両手首を布テープで縛ったりした。しかし、義明が激しく暴れたことで口の布テープは外れてしまい、義明がまた泣き叫んだため、それを聞きつけた女性から「どうしたのですか」と声を掛けられた。そのため、和也は驚いて義明の口を両手で塞ぎ、右膝で義明の腹部を押さえつけ、声を出せないようにしながら、再度ドアの前から尋ねてきた女性の声に対し「何でもないんです」と繰り返し答え、女性を立ち去らせた。そして義明の口にハンカチを押し込み、その上に布テープをまた貼ったところ、義明は両手の布テープを外し取っており、口に貼られた布テープをもぎ取って「殺される!」「助けてえ!」と大声で叫んで暴れ出したため、和也はこの場で義明を殺すしかないと判断。8時20分ごろ、和也は右膝で義明の腹部を押さえつけ、左手で口を押さえたまま、右手で腹のところに挟んであった小刀を順手で持ち、義明の胸を突き刺そうと前に構えた。しかし、義明は小刀を防ぐため、両手で刃を掴んだため、和也は小刀を右逆手に握り直して上方に引き上げ、義明の手が小刀から離れたところ、そのまま心臓めがけて小刀を突き出し、義明を刺殺した。


 その後、和也は義明の死体を鞄に詰めて始末しようと考え、小刀や手に付いた血をちり紙で拭った上で、死体をそのままにしてドアを越え、便所の外に出た。そして、三軒茶屋の鞄屋を訪れ、ビニール製オープンケース(大型スーツケース/高さ46 cm×長さ66 cm)を購入して便所に戻り、義明の死体を便器の上に斜めうつ伏せに渡して血を切ってから、ケースに入れた。そして、便所の床タイルや壁などに付着した血液をハンカチで拭き取るなどした後、8時40分頃に死体入りのケースを持って便所を出、タクシーを拾って祖師ヶ谷大蔵駅に向かった。同駅付近でタクシーを下車。同駅公衆便所の大便所内に入り、ポリ袋8枚を用いて、オープンケースから出した義明の死体を包み、布テープで貼り付けた上で再びケースに入れたほか、水洗タンクの上に義明の靴のうち片方を放置した。そして同日10時過ぎ、祖師ヶ谷大蔵駅構内の携帯品一時預かり所にそのオープンケースを預けた。


 義明の死体を遺棄した後、和也は三軒茶屋まで徒歩で戻った。そして計画通り、義明の親(加藤東吾およびその妻)に電話を掛けて身代金を要求しようと考え、電柱広告の電柱広告により、加藤家の電話番号を確認してメモし、喫茶店『メロス』でメモ帳に、電話で通知する脅迫と身代金要求の文句を起案した。そして11時25分ごろ、祖師ヶ谷大蔵駅構内の公衆電話ボックスから加藤宅に電話を掛け、電話に応対した店主の加藤東吾に対し、メモ帳を見ながら「ガキは預かっている。500万円用意しろ。1日だけ待ってやる。警察に知らせたらかたわになるか、生きてはもどらないぜ?また電話する」と告げ、身代金を要求した。和也は警察の動向を窺ってから、翌11日に2回目の脅迫電話を掛け、義明の靴を家族に見せた上で、3回目の電話で身代金を得るつもりだったが、2,3回目の電話を掛けるタイミングは決めていなかった。


 その後、和也は祖師ヶ谷大蔵駅付近の映画館で映画『黒鉄くろがねの八人』を鑑賞したが、23時30分ごろに映画館を出て祖師ヶ谷大蔵駅前の喫茶店へ向かう途中で職務質問を受け、取り押さえられた。当時、和也の所持金は100円玉5枚、50円玉2枚、1円玉4枚しかなかった。


 しかし、義明とともに通学していた同級生2人が登校後、担任教諭の本田未華子ほんだみかこ(28歳)に義明が連れ去られた旨を伝え、これを受けた未華子は8時30分ごろに加藤宅に電話した。義明は帰宅しておらず、母親らが親類や知人宅を探したり、小学校周辺を捜索しても見つからなかったため、義明の父親、加藤東吾が9時30分ごろに三軒茶屋警察署へ捜索願を出した。これを受け、渋谷署は現場をはじめ、加藤宅や学校へ捜査員を派遣し、警視庁捜査一課にも事件を連絡。   


 三軒茶屋署の刑事課長に就任した明智勇は、10時ごろに加藤宅の電話に逆探知装置を取り付けたところ、11時25分ごろに先述のような身代金を要求する電話が掛かってきた。また、警視庁捜査一課は和也からの届け出と同時に、同課殺人班・特殊捜査班(誘拐担当)・強盗班のほか、機動捜査隊・三軒茶屋署員ら計100人を動員して捜査本部を設置し、現場付近での聞き込みなどによる極秘捜査を行ったほか、11時には報道関係各社との間で報道協定を締結した。


 11時10分、警視庁通信指令室に事件の一報が入った。事件によっては関係警察を総動員して緊急配備を司令するが、既に事件から3時間あまりが経過していたため、同室の大木圭おおきけいは「パトカーがサイレンを鳴らして走り回ると、かえって犯人を刺激し、義明の生命に危険が及ぶ虞がある」と判断して緊急配備検問は行わず、都内全警察署と交番、外勤警官に対し、事件内容と犯人・被害者義明の人相、特徴などを手配した。

 大木はホンコンシャツが大流行した1961年に刑事になったので、『ホンコン』と呼ばれていた。


 一方、目撃者の同級生2人は義明を拉致した男について、「事件の2日前(9月8日)に加藤宅付近の砧公園で、義明や自分たちを含む子供たちと遊んでいた若い男」と証言したため、勇は「犯人は砧公園で義明に狙いをつけ、登校時を狙った」と断定。翌日(9月11日)0時1分、下北沢駅周辺にある食品市場の路上で、捜査一課の倉橋裕典くらはしひろのり警部と勇が、若い男を見つけて職務質問したが、男は持っていたビニール袋を投げ出して逃走。しかし、男は追跡の末に取り押さえられ、包みの中に義明の靴が入っていたことから、三軒茶屋署へ連行されて事情聴取を受けた。そして、義明を殺害して死体を隠したことを自供したため、身代金誘拐・殺人・死体遺棄の被疑者として0時10分に逮捕(緊急逮捕)され、自供通り祖師ヶ谷大蔵駅構内の荷物預かり所で、鞄に入った義明の死体が発見された。


 勇の取り調べに対し、被疑者・須藤和也は「金に困り、1週間前から誘拐を計画した。犯行のヒントは映画やテレビを参考にした」と自供。

「え?どんなドラマ?」と、勇。

「刑事ドラマです。ヒントは頭文字に『う』がつく人が主演のドラマ」

 

 捜査本部は9月12日、和也を検察官送致(送検)した。同日付の検察官調書によれば、和也は「『もし子供が騒いだりして手に負えなくなった場合は、刺すなどして殺すしかない』と考えていた。ビニール袋は死体を包むため、事前に購入した」という趣旨の供述をしたほか、9月17日・18日・21日付の司法警察員調書や同月25日付の検察官調書によれば「9月8日の夕方に殺意が生じ、ビニール袋も死体を入れるために用意した」と自供していた。

 勇は和也を滅多刺しにしてやりたかった。

 何がコイツを怪物に変えたのか?親の育て方が悪かったのか?人間じゃねーよ!冷静になんかなれるか!

 あ〜!ぶん殴りて〜!!


 9月13日 - 東京・赤坂に赤坂東急ホテルが開業。

 勇は倉橋から「本庁に来ないか?」と、打診されたので即答した。「はい!是非行きます!」

 本庁の頭上に暗雲が立ち込めた。アンピテプラが雲間から現れた。 

「ギャ〜!龍だ!」

 倉橋は腰を抜かした。

 勇たちは庁舎内に逃げ込んだ。ゴジラみたいな鳴き声はしなかった。感情を押し殺してる?それとも、喉を痛めているのか?

 勇はシルクハットの男が言っていたことを倉橋に話した。

「野菜を集める?漫画みたいな話だな?」

「けど、集めないといずれ死ぬかも」

「悪いけど、俺には仕事がある。そんなことしてたら仕事無くす」

 本庁に入ることは勇の長年の夢だ。野菜を探すより大切なことだ。アンピテプラを倒したところで職を失ったらどうする?

「一緒に探しませんか?」

「話を聞いていたのか!?」

「やっぱ無理ですよね」

「ここまで来るのはかなり大変だった」

 寛太の仇を討ちたい。

「俺は1929年に生まれた」

「40歳?」

「来月でな?」

 聖バレンタインデーの虐殺が起きた年だ。シカゴで起きたノースサイド・ギャングとサウスサイド・ギャング(後のシカゴ・アウトフィット)との間で起きた抗争事件である。聖バレンタインデーの悲劇、血のバレンタインとも呼ばれる。

 犯行はサウスサイド・ギャングのボスであるアル・カポネが指揮していたと言われ、抗争を繰り広げていたバッグズ・モラン率いるノースサイド・ギャングの構成員4人及び一般人3人の計7人が殺害された。この事件は犯人たちがパトカーを使い警官に扮していたこともあり、全米中のマスコミの注目を集めた。

「太宰治が自殺した年だ」

 それは初耳だ。

「そんな話はあとにして龍を何とかしないと」

「本当に野菜を探せば怪物を倒せるんだな?」

 庁舎の外はガヤガヤしていた。機動隊たちが機関銃などで攻撃したがビクともしなかった。やり返すことはせずに彼方に消えていった。

 寛太は殺したのに、何でこいつらには!?

「俺たちに恐れをなしたんだ、きっと」

 隊員の一人が言った。

 龍は誰かの化身なんじゃ?そして、近くに親しい人がいたから攻撃出来なかった。須藤のクイズの答えが分かった。

『ザ・ガードマン』だ。宇津井健主演の刑事ドラマだ。


 9月15日

 勇は本庁の一室に呼ばれた。アンピテプラを倒すための勇者たちが集められた。

 ボスは倉橋、狙撃の名手・蒲生誠司がもうせいじはイニシャルからGSと呼ばれている。この時代、GS(グループサウンズ)が大流行していた。松永篤史まつながあつしは元ランナーでイニシャルはアンカー。勇は勇者っぽい名前なのでブレイブのコードネームが与えられた。

 作戦室はタバコの煙で充満していた。

「ブレイブはGSの中じゃ何が好き?」と、ハイライトを吸いながら蒲生が言った。登場したのは昭和35年、1ダース70円だ。

 主要10グループ・サウンズは次のとおり。


 ①ヴィレッジ・シンガーズ

 ②オックス

 ③ザ・カーナビーツ

 ④ザ・ゴールデン・カップス

 ⑤ザ・スパイダース

 ⑥ザ・ジャガーズ

 ⑦ブルー・コメッツ

 ⑧ザ・タイガース

 ⑨ザ・テンプターズ

 ⑩ザ・ワイルドワンズ

 

「俺はオックスがいいと思います」

「『スワンの涙』はいいよな?」と、松永。

「あんなのは女が聴くもんだ」

 ドアが開いて、大木が入って来た。

「遅いぞ、ホンコン」と、倉橋。

「寝過ぎてしまいました。西荻窪署時代はお世話になりました」 

 大木は33歳だ。

「おまえのドライビングテクニックはピカイチだ」

 大木は照れ笑いした。

 勇たちはガレージに移動した。

「サニーキャブじゃないか?まだ、最近発売されたばかりだよな」と、大木。

 勇はタイムスリップする魔法を使えることを説明した。

「1975年からやって来たなんてマジかよ?」と、蒲生。彼は35歳だ。

「どんな時代なんですか?」

 松永が言った。彼は最年少の29歳だ。

「ザ・ピーナッツが引退したり、ペヤングソースやきそばってのが発売されたりする」

「モスラ〜や、モスラ〜♪」

 蒲生が女みたいな高い声で歌った。

「気持ち悪いな?オカマか、おまえは……」

 倉橋が顔を顰めた。

「タイムスリップか〜、本能寺の変とかこの目で見てみたいなぁ」

 松永は信長ファンだ。

「龍を倒すには都内に散らばる7つの野菜を見つける必要がある」と、勇は倉橋にした話をみんなにした。

「里見八犬伝みたいだな?」と、大木。

『南総里見八犬伝』は、室町時代後期を舞台に、安房里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)を主人公とする長編伝奇小説である。共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士は、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち、牡丹の形の痣が身体のどこかにある。関八州の各地で生まれた彼らは、それぞれに辛酸を嘗めながら、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集する。

井原西鶴いはらさいかくが書いたんだっけ?」と、松永が大木の顔を窺った。

滝沢馬琴たきざわばきんですよ」

 大木は自信満々に言った。

「ボスはここから動かないでください」と、勇がクシャミを堪えた。アレルギー性鼻炎を持っている。

「何でだよ!?俺が役に立たないとでも言いたいのか?」

「王将が詰まれたら将棋だって負けでしょ」

 勇は倉橋を何とか宥めた。倉橋は体臭がキツい。狭い空間でこんな匂いをずっと嗅ぐのは拷問に等しい。

 倉橋は村田英雄の『王将』を歌いながらガレージから出ていった。今から7年前に流行った歌だ。

 4人はサニーキャブに乗り込んだ。大木が運転席、勇が助手席、残りの2人は後部席だ。

 勇たちは皇居の中にやって来た。

 以前は宮城きゅうじょうと公称されていたが、第二次世界大戦後に廃止され、現在は特別史跡「江戸城跡」一帯を指して皇居と呼んでいる。公式の英語表記は「The Imperial Palace」。天皇の平常時の住居である「御所」や各種公的行事や政務の場である「宮殿」、宮内庁庁舎などがある。


 平安京への遷都(794年〈延暦13年〉)から東京奠都(1869年〈明治2年〉)までは京都にあり、御所や禁中、禁裏、内裏などと呼ばれていた。現在の京都御所(京都市上京区)は、もとは里内裏として用いられ、南北朝時代以後は正式な御所となっていたもので、明治維新後の東京行幸に伴い留守となり使われなくなったが、荒廃した御所の様子を嘆いた明治天皇の指示により、隣接する仙洞御所や大宮御所とともに保存された。なお、行幸後に首都機能が東京に移った際、明確な遷都の法令が発せられなかったので、京都御所を現在も皇居とみなす向きもある。しかし明治以降、京都御所に近代的居住機能が付加されることはなく、平安時代の様式を伝える最高格式の紫宸殿(正殿)や日常生活の場である常御殿などが保存され、文化財となっている。


 皇居の呼び名は、史料や古典文学に登場するものの現在では使われない表現を含めると様々ある。内裏、御所、大内、大内山、九重、宮中、禁中、禁裏、百敷、紫の庭、皇宮、皇城、宮城、大宮、雲の上、雲居など非常に多い。

 

 4人は紅葉山にやって来た。少しずつ木々が色づきはじめている。

 紅葉山御養蚕所は、東京都千代田区千代田の皇居・紅葉山にある養蚕施設で、歴代の皇后による「御親蚕ごしんさん」が行われている。現在の建屋は、1914年(大正3年)に建てられた木造2階建で、1階が飼育室、2階が上蔟室となっている。地下に貯桑室を備えた平屋や御休所が別棟として隣接しており、御休所の神座には、養蚕の神とされる和久産巣日神と大宜都比売神が祀られている。

 山の中で聖なるサツマイモを見つけた!🍠

 残り6つ


「もうすぐ昼か、腹減ったな?」

 大木がビールっ腹をさすった。

「だからって芋食うなよ?」と、蒲生。

 麹町にある蕎麦屋で昼飯を食べた。

 締めの蕎麦湯が勇はとても好きだった。

 赤坂の街は古来、花柳の巷だ。料亭や置屋が数十軒ある。倉橋は何度か通ってるらしい。

 

 小曽根三郎は、恋人・和泉いずみと赤坂の宝石店から5000万円相当の宝石類を強奪し、都内を走る路線バスで逃走中。ところが銀行強盗に失敗した六角春夫ろっかくはるお西田豊助にしだほうすけがそのバスをジャックし乗客全員を人質にとる。小曽根のふてぶてしい強面ムードに六角と西田はピリピリしまくりだが、それ以上にヤバかったのがシャブの常用者であるバスの運転手、辺見俊樹へんみとしき。 

「ヒャッヒャッヒャーツ!!」

 辺見は奇声を発した。

 暴走バスは三宅坂を猛スピードで疾走。危険が充満したバスを発見しようとバス会社と警視庁は厳重体制に入った。


 サニーキャブは三宅坂に差しかかった。

 坂の名前は、江戸時代、この坂の途中に三河国田原藩(現在の愛知県田原市)・三宅家の上屋敷(現在の国立劇場周辺)があったことに由来する。当時はこの坂に沿って、三宅家のほかにも近江国彦根藩・井伊家上屋敷の広大な敷地(現憲政記念館・国会前庭等)もあった。


 また、三宅家や井伊家の屋敷から坂道を挟んだ向かい側は江戸城の内堀(桜田濠)であるが、堀端に皀莢さいかち橿かしの木が植えてあった。

 明治には三宅家・井伊家の屋敷の用地は政府の手に移り、陸軍の中枢が三宅坂に沿って置かれた。坂道から一段高い台地になっている井伊家屋敷跡は参謀本部庁舎に転用され、戦前・戦中には「三宅坂」と言えば参謀本部の代名詞だった。なお、1941年(昭和16年)12月8日から15日にかけて、陸軍省、参謀本部、教育総監部、陸軍航空本部、陸軍航空総監部が、三宅坂一帯から市ヶ谷台の陸軍士官学校跡地に移転した。


 戦後、参謀本部跡地は国会用地に転用、最終的に東半分は公園化されて国会前庭と憲政記念館に、西半分は国会の観光バス駐車場などになり、一角には国有地を借地して社会文化会館(日本社会党本部)が1964年(昭和39年)に建設された。三宅坂界隈は戦前と戦後で様相を一変させ、「三宅坂」は戦前の参謀本部から新たに国会の議席の多数を占めるようになった日本社会党、そして現在の社会民主党を指す通称として使われるようにもなった。


 やばいバスが後ろから現れた。🚍

 頭上には警察のヘリがバリバリバリと音を立てて現れた。🚁

「あの、バスやべーんじゃん?」と、蒲生。

「GSさん、先輩の銃で運転手殺したらどうです?ありゃ、まともじゃねーって」

 後ろを振り返った松永の目に、叫ぶ運転手の顔が飛び込んできた。 

「イヤ、そんなことしたら他の乗客に危険が及ぶ」

 勇は窓を開けて、聖なるサツマイモを掲げた。狂った者の精神を落ち着かせる効能があった。

 運転手の辺見が真顔になる。

「私は何をしていたんだ?」

 バスが静かに止まった。

 老婆にナイフを向けていた六角が、「すまないことをした」と泣き出した。

「ご迷惑をおかけいたしました」

 西田が深々と頭を下げた。

 西田たちは9年前に起きた安保闘争で大切な仲間を失い我を失っていた。警察に復讐するための資金を獲る為に銀行を襲撃したのだ。

 小曽根と和泉も投降した。

 

 日はとっぷり暮れ、サニーキャブは神田にやって来た。雀荘や食堂、映画館などが軒を連ねる。

「東洋キネマ、学生時代よく通ったなぁ」

 松永は昔を懐かしんだ。

「え?アンカーって大学出てたの?」

 勇が目を丸くした。

「一ツ橋です」

 学帽をかぶった人たちが闊歩してる。

 食堂でカレーを食べた。聖なるニンジンを見つけた!🥕

 残り5つ


 9月16日

 神保町にある旅館に泊まった。朝食べた鯵の干物は塩味がキツいと勇は思った。

 神保町は江戸城(現在の皇居)の北側に位置し、江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた。「神保町」の名は、戦国大名・越中神保氏の一族である旗本・神保長治の屋敷があったことに由来する。屋敷前の道は「神保小路」と呼ばれていた。


 江戸が東京府となった後の1872年(明治5年)、現在の神保町一丁目に「表神保町」「裏神保町」と「猿楽町」が、神保町二丁目に「北神保町」と「南神保町」が置かれた。「裏神保町」は1922年(大正11年)に「とおり神保町」へ改称された。


 1913年(大正2年)、当時は小川町を広域地名としていたこの辺り一帯が、大火で焼失した。神田高等女学校(現:神田女学園中学校・高等学校)教員だった岩波茂雄が焼け跡に古書店を開き、同店内で夏目漱石の作品や『哲学叢書』の出版販売も行って大成功を収めた。これが岩波書店の起こり。


 岩波の成功により教養人・大学生が神保町に足を運ぶようになったため、以後、一誠堂古書店、東京堂等の店舗新設が見られ、また読書の場を供すべくカフェを開業する者が相次いだ。


 1921年(大正10年)、神田区駿河台に「文化学院」が開校。音楽・美術・舞踊など芸術関係書が、濃紺くるみの学術書やけばけばしい猥雑本とともに書店の軒先に彩りを添えるようになり、「ない本はない」と言われた。関東大震災後、復興事業として一大舗装道路「大正通り」(現:靖国通り)が完成すると、交差点名として「神保町」が登場、昭和後期には今日の様な景観を呈し始めた。


 1934年(昭和9年)、震災後の復興に伴う土地区画整理事業により、「表神保町」「通神保町」および靖国通り北側の「表猿楽町」を併せて「神保町一丁目」とし、「南神保町」と「一ツ橋通町の一部」および靖国通り北側の「北神保町」ならびに「中猿楽町」を併せて「神保町二丁目」、今川小路一丁目〜三丁目が神保町三丁目となる。

 

 勇たちは本屋をいろいろ見たが、聖なる野菜は見つからなかった。

「電車隊とサニー隊に分かれないか?」

 本屋を出るなり最年長の蒲生誠司が言った。

「どういうこと?」

 勇は首を傾げた。

「聖なる野菜が駅にあるってことも考えられるだろう?」

 勇は蒲生の知能指数は200くらいあるんじゃ?と、ヒヤヒヤした。明智小五郎の息子なのにあまり知名度がない。蒲生がブレイクする日も遠くないかも知れない。

「GSさんって鋭いですね?」と、大木。

「ホンコン、頭に変なのがついてんぞ?ウワーッ!鳥の糞だ」

 蒲生がこの世のものとは思えない声で叫んだ。

 大木は公園の水道で頭を念入りに洗った。

 鳩がポッポー、ポッポーと餌を探している。

「鳥恐怖症になりそうだ」と、大木はハンカチで頭を拭いた。

「ヒッチコックじゃあるまいし」

 勇は鼻で笑った。

『鳥』は、1963年のアメリカ合衆国の映画。ジャンルは生物パニックもののサスペンス。アルフレッド・ヒッチコック作品。原作はダフニ・デュ・モーリエによる同タイトルの短編小説。

「それで、ゲッ、どう、ゲッ、分ける?」

 松永がゲップをしながら言った。

「きたねーよ。俺は足痛いから車がいいな」と、蒲生。

「捻挫ですか?」と、松永。

「疲れてるだけだと思う」

 蒲生と勇がサニー隊、大木と松永が電車隊ということになった。


 大木と松永は神田駅にやって来た。

「江戸時代は職人の街だったんだ。紺屋町は北乗物町を間に挟んで南北に分かれている。昔は紺屋が集まっていた地区の中央に、乗物を造る職人たちが住んでたんだろうな?」

「ホンコンさんって博識ですね?ゲッ」

 2人は駅構内を調べたが聖なる野菜は見つからなかった。

「ところで、ホンコンさんは『天と地と』は見てますか?」

「大河ドラマか?日曜はカミさんがずっとテレビ見てんだよ」

「ホンコンさんって奥さんいるんですか?」

「15歳年上だ」

「50近いんですよね?」

「おまえ計算早いな?」

「石坂浩二演じる上杉謙信が、カッコいいんですよ」

「上杉が軸なんだろ?」

「はい。何線に乗ります?」

 

 1919年(大正8年)3月1日:鉄道院中央本線万世橋駅 - 東京駅延伸開業に伴い、中央本線の途中駅として開業。

 1925年(大正14年)11月1日:東北本線秋葉原駅 - 神田駅延伸開業に伴い、東北本線の駅として開業。乗り換え駅となる。

 1931年(昭和6年)11月21日:東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)の駅が開業。

 1941年(昭和16年)9月1日:東京地下鉄道が路線を帝都高速度交通営団(営団地下鉄)に譲渡。

 1949年(昭和24年)6月1日:日本国有鉄道が発足。

 

「地下鉄」

「さすがに龍の怪物も地下には来ないでしょうね」

 松永は暗闇から龍が現れるシーンを想像して身震いした。松永は青春時代を思い出した。そして、淡い恋も。恋の相手は宝石泥棒をした和泉だったのだ。和泉はギャンブルにのめり込んでいた松永を見限って、松永の前から姿を消した。

 一橋大学は森有礼が渋沢栄一の援助を得て、1875年(明治8年)に開いた商法講習所を源流とする日本で最も古い社会科学系の大学である。第二次世界大戦前には商学専門の官立大学(旧制東京商科大学)として開設されていた。森有礼は、幕末期にロンドン大学に学び、のち初代米国代理公使としてワシントンに滞在した。英米両国では実業家が官僚や政治家に劣らず活動していること、国家独立の基礎は経済の富強にあって、そのためには経済人の育成が急務だと痛感したこと、それらが一橋大学の学校設立の端緒となっている。


 松永たちは銀座線に乗り込み、末広町駅で降りた。

 駅名の由来となった「神田末広町」という地名は、現在の外神田三丁目の北側一帯に当たり、当駅に隣接していたが、1964年12月1日の住居表示実施に伴い消滅した。駅構内を探り、駅前のバッタ屋に聞き込んだが有力な情報は得られなかった。

 神田明神を調べた。社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。


 承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた。嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。


 江戸時代、江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、さらに元和2年(1616年)に現在地へ遷座した。江戸総鎮守として尊崇された。神田祭は江戸三大祭りの一つである。山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、「天下祭」と言われた。当時は山車が中心だったが、明治に入ると電線の普及等により山車の数は大幅に減少した。「神田囃子」は東京都の無形民俗文化財に指定されている。江戸時代初期に豪華な桃山風社殿が、天明2年(1782年)には権現造の社殿が造営されたが、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失した。その後、1934年に当時では珍しい鉄骨鉄筋コンクリート構造で権現造を模して再建されたことから、1945年(昭和20年)の東京大空襲では、境内に焼夷弾が落ちたにもかかわらず本殿・拝殿などは焼失を免れた。


 江戸時代には「神田明神」と名乗り、周辺の町名にも神田明神を冠したものが多くあった。明治に入って神社が国家の管理下に入ると、明治元年(1868年)に准勅祭社に指定された。その後、府社に列せられ、明治4年(1872年)に正式の社号が「神田神社」に改められた。1874年(明治7年)、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。


 神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺(千葉県成田市)を参拝してはいけないというタブーが伝えられている。これは朝廷に対して叛乱を起した平将門を討伐するため、僧・寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と共に現在の成田山新勝寺へ遣わせ、乱の鎮圧のため動護摩の儀式を行わせたことによるもので、即ち、新勝寺参拝は将門を苦しめるとされるため。


 なお、同じく将門を祭神とする築土神社にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。


 ただし、成田屋の屋号で知られる歌舞伎の市川宗家では歌舞伎十八番の一つ『鎌髭』で将門を演じており、「助六」を演じる際には魚河岸との関わりから神田明神内にある水神社への参拝を行う。

 境内を調べた結果、銭形平次の石碑の前に聖なるじゃがいもが落ちていた。🥔

「よっしゃー!」

 松永はガッツポーズをかました。

 残り4つ


 勇たちは駿河台にやって来た。

 千代田区・神田地域の北に位置し、文京区(本郷・湯島)との区境に当たる。「駿台」との略称も存在する。徳川家康の死後、江戸幕府が駿府の役人を住まわせたことが地名の由来。


 もとは本郷台地と連続していたが、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達政宗が1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)の開削によって分離した。また、削って下町を埋めたために、今では台地では無い所もある。


 関東大震災の復興区画整理事業の第1号地となった。戦前の旧神田区時代は、明治の元勲である西園寺公望が私邸を構えるなど、山の手の住宅街として知られていたが、1970年代に入ると民家が主としてオフィスビル、店舗などに取って変わられ現在では住宅の存在が稀になった。


 1960年代には御茶ノ水駅から本郷通り沿い周辺を中心として学生相手の店が多くなり始めた事もあって日本のカルチェ・ラタンと呼ばれた。

 神田カルチェ・ラタン闘争は記憶に新しい。1968年6月21日に社会主義学生同盟(社学同。共産主義者同盟の学生組織)が東京神田駿河台の学生街で起こした解放区闘争。駿河台の明大通り2か所にバリケードを築いたが機動隊に突破された。

「ブレイブ、ラーメンでも食べたいな?」

 蒲生が腹を擦りながら言った。

 1968年8月にオーストラリアで、アスパック(アジア太平洋閣僚会議)の開催が計画されており、日本からも外務大臣が出席の予定であった。社学同は、この会議が日本帝国主義のアジア再侵略への一歩であり、70年安保の実質化であると位置づけていた。

 そこで1968年6月21日、アスパック開催抗議の実力闘争を組もうとして、この「神田カルチェ・ラタン闘争」を呼びかけた。各地から集まった社学同700名は、同日昼過ぎから駿河台の中央大学中庭で集会を開いた後、「神田を日本のカルチエ・ラタンにせよ」というスローガンで闘争を展開し、明大通りの明治大学記念館前と同大学院前の2か所に、中央大学や明治大学から持ち出した机などを使ってバリケードを築いた。

 しかし機動隊がバリケード撤去に来ると、赤ヘルメットの学生たちは群衆を隠れ蓑にして投石し、さらに明大校舎内に逃げ込む戦術をとったため、機動隊は排除に手こずった。結局、午後8時半ごろから雨が降り始めたため、社学同は明大大学院前で約3000人の学生を集めて集会を行ってから解散した。


 この騒動のため国電は御茶ノ水駅で1時間近くストップし、中央・総武両線で計40本が運休、76本が最高40分遅れ、約20万人の足に影響が出た。


 勇と蒲生は山の上ホテルにやって来た。

 ホテルは1954年(昭和29年)の開業で、表通りからは奥まった神田駿河台の高台に位置している。

 シンボルとも言える鉄筋コンクリート建築の本館は、1937年(昭和12年)に明治大学OBで若松(現在の北九州市)の石炭商だった佐藤慶太郎の寄付を基にアメリカ出身の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により「佐藤新興生活館」として完成した。 当初は財団法人日本生活協会の管理下に置かれ、太平洋戦争(大東亜戦争)中には旧海軍に徴用、敗戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収されアメリカ陸軍の婦人部隊の宿舎として用いられていた。


 ホテルとしての開業は1954年(昭和29年)1月20日で、GHQの接収解除を機に、実業家・吉田俊男(1913-1992)が佐藤家から建物を借り入れる形で創業した。ホテル名は、GHQ接収時代にアメリカ陸軍の女性軍人・軍属の間で建物の愛称になっていた「Hilltop」が起源で、これを吉田が「丘の上」でなく敢えて「山の上」と意訳したことによる。


 吉田は長く旭硝子の営業部門につとめていた人物で、この前年に独立して個人事務所を設立、知人から旧・佐藤新興生活館の接収解除を伝えられたことを機にホテル業に参入した。吉田は自らの手で花森安治のコピーライティング等とも通底する個性ある広告コピーを執筆し、ホテル経営の素人であることを逆手に取った懇切な接客体制に務めるなど、その後半生を費やしてこのホテル独特のアットホームなサービス文化を築いた。吉田俊男の死後、ホテルの運営は吉田の子孫によって行われている。

 

 アールデコ調の内装を見ていた勇は思わず溜息を漏らした。かつて出版社の密集していた神田に近いところから、作家の滞在や缶詰(ここでは執筆促進目的の軟禁場所としてホテルに強制滞在させられること)に使われることが多く、そのため「文化人のホテル」として知られており、川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、伊集院静らの作家が定宿としていた。

 勇はロビーで聖なるタマネギを見つけた。🧅

 残り3つ


「意外に早く揃いそうだな?」と、蒲生。

「そうはうまくいかないみたいだ」

 階段から降りてきた怪物を勇は見ていた。そいつは巨大な猫だった。勇は幼い頃、父親の小五郎から聞かされた怪談話を思い出した。

 袖ヶ崎そでがさきの大猫は、江戸における仙台伊達家(伊達氏宗家)知行地の一つである大崎袖ヶ崎 (武蔵国荏原郡上大崎村袖ヶ崎。現在の東京都品川区東五反田3丁目) に新設された下屋敷(大崎袖ヶ崎屋敷)にて、悪さを繰り返して討たれたという大猫の怪異譚である。


 只野真葛が文化8年(1811年)に刊行した回想記『むかしばなし』の巻1に掲載されている。只野真葛の祖父・丈庵(工藤安世)が獅山公(陸奥仙台藩第5代藩主・伊達氏宗家第21代当主・伊達吉村)の隠居屋敷(仙台藩下屋敷の一つとして隠居後の吉村のために新設された、大崎袖ヶ崎屋敷のこと)に勤めていた時の話という。怪しげな出来事があったのは下屋敷の落成後間もない頃ということであるが、伊達吉村が隠居して「袖崎隠公」と呼ばれるようになるのが息子に家督を譲った寛保3年7月(西暦換算:1763年の8月か9月)以降であることとすり合わせて、ちょうどこの頃と推定できる。


 大崎袖ヶ崎屋敷では、昼夜の別なく長屋にどこからともなく拳大の石が投げ込まれる、宿直の侍が枕返しをされる、灯火が突如として消える、蚊帳の吊り手が一斉に切れて落ちるなどといった、怪しげな出来事が相次いでいた。そのような最中のある日のこと、犬ほどもある大きな猫が長屋門の軒下あたりで眠っているのを見て近侍の者が鉄砲で撃ち殺したところ、それよりのち、妖しい出来事は起きなくなったという。

 

 シャンデリアが突然落ちてきた。危うく勇は下敷きになるところだった。

 蒲生が64式7.62mm小銃を構えた。

 1964年に制式採用された戦後初の国産小銃である。開発と製造は豊和工業が担当し、自衛隊と海上保安庁で採用された。アサルトライフル、もしくはバトルライフルに分類される場合がある。


 日本人の体格を考慮した設計となっており、命中精度を高めるために二脚を標準装備する。また、連発時の命中精度向上を図り、緩速機構による低発射速度や横ブレ・振動を防ぐ部品形状・配置を採用した。1984年度における製造単価は約17万円。弾倉はダブルカラム(複列)式で最大装弾数は20発。


 弾薬は有事の際に在日米軍との弾薬を共用する事を考慮し、当時のアメリカ軍が配備していたM14と同規格の、いわゆるフルサイズ小銃弾の一種である7.62x51mm弾を使用した。この弾薬は反動が強く、フルオート射撃に向かないため通常は装薬を減らして反動を抑えた減装弾を使用する。この7.62mm弾の採用は、当時採用されたばかりだった62式7.62mm機関銃との弾薬の統一化も含まれていた。


 制式採用後、九九式短小銃や、アメリカ軍から供与されていたM1騎銃や7.62mm小銃M1を更新する形で配備が行われ、230,000丁以上が製造された。また、陸上自衛隊では狙撃銃としても運用された。


 後継小銃の89式5.56mm小銃の採用をもって製造を終了した。陸上自衛隊の普通科など、戦闘職種に限れば更新は完了し、後方職種も順次更新が進んでいる。一方で予備自衛官用装備や海上自衛隊と航空自衛隊の自衛用装備としては、いまだに主力の小銃である。


 銃が唸り、大猫は拍子抜けしていたが手傷を負わすことは出来ない。

 普通の武器じゃ倒せないのか!?

 勇は狼狽した。

「ブレイブ、突っ立ってないで何かしろよ!?」

 蒲生ががなった。

 勇は聖なるタマネギを掲げた。

 次の瞬間、大猫が退散した。

「おっどろいたな〜!」

 勇は腰を抜かした。


 勇たちはこじんまりとしたラーメン屋でお昼にした。🍜

 外観はよろしくなかったが、味は最高だった。

 蒲生は若い頃、ラーメン屋のバイトをしていたことがある。だからなのか、ラーメンに関する知識は豊富だった。日本で最初に中華麺を食べたのは徳川光圀(水戸黄門)であるとする説がある。1659年(万治2年)に明から亡命した儒学者の朱舜水が水戸藩に招かれた際に、所持品リストに中華麺を作る際に使うものが含まれるから、中国の汁麺を献上したとの記録はないものの、実際に作ったに違いないという。1697年(元禄10年)には、光圀の隠居所である西山荘を訪れた僧や家臣らに中華麺がふるまわれたとの記録もある。この説に基づき復元したものが新横浜ラーメン博物館にある。


 一方、相国寺塔頭鹿苑院の蔭涼軒主(当時は亀泉集証)の公式日記『蔭涼軒日録』には、文明17年5月17日(1485年6月29日)に中国の『居家必要事類』という書物で「水滑麺、索麺、経帯麺、托掌麺、紅絲麺、翠縷麺」等の麺食品の調理法を調べ、長享2年(1488年)2月1日(3月14日)と5月16日(6月25日)に「経帯麺」という料理を調理して蔭涼軒への来客に振舞ったという記述があることが、2017年(平成29年)に判明した。この「経帯麺」は材料として小麦粉とかん水を使うことも書かれており、日本初のラーメンである可能性が示されている。


 日本への伝播としては、明治時代を迎え神戸や横浜などの港町に中華街が誕生し、そこで提供された南京そばに始まるとされる。1884年(明治17年)に函館新聞(当時)に函館の船場町にある中華料理店養和軒が南京そばを15銭で提供を始める広告を出し、大正の頃まで提供したとされている。証拠が乏しく、当時の関係者も存命ではないため、養和軒の南京そばが今のラーメンと同種の食べ物であると断言できない状況である。


 1910年(明治43年)には、横浜税関を退職した尾崎貫一が南京町(現・横浜中華街)から中国人コックをスカウトして、東京の浅草にラーメンをメインにした庶民的な中華料理店「来々軒」を開店。当時の来々軒を写した写真には「廣東支那蕎麦 來々軒」「支那御料理 シナソバ、ワンタン、シウマイ、マンチウ」という看板が見える。味は醤油スープで、1杯6銭と値段も手頃で連日行列ができた。


 1914年(大正3年)には東京市日本橋区茅場町 (現: 中央区日本橋茅場町) の「中国料理 大勝軒」が開店、東京に現存する最古のラーメン店とみられる。


 札幌では1922年(大正11年)、現・北海道大学正門前に仙台市出身の元警察官の大久昌治・タツ夫婦が「竹家食堂」を開店。そこで働く中国山東省出身の料理人王文彩が作る本格的な中華料理が評判となった。常連客の北大医学部教授(後の北大総長)の今裕こんゆたかの提案で店名も「支那料理 竹家」に改名。麺作りは初めは手で引っ張り伸ばす手打ち製法だったが、客が増え後に製麺機になった。なお、竹家のラーメンは中華料理の「肉絲麺(ロゥスーミェン)」を原型としたもので、塩味をベースとしており、主に中国人留学生向けの料理であった。そこで日本人の口にも合うようにと大久タツが王文彩の後任の料理人の李宏業、李絵堂の2人に相談し、2人はそれまでの油の濃かったラーメンから麺・スープ・具を改良、試行錯誤の末、1926年(大正15年)の夏に醤油味でチャーシュー、メンマ(シナチク)、ネギをトッピングした現在のラーメンの原形を作り出した。当時、先述の浅草来々軒でもチャーシュー、メンマ、ネギを入れた醤油ラーメンがあり、横浜南京街でも同様ものが出現していたといわれる。各地で現在一般的になったラーメンの基本型ができていった。


 1954年には、長崎ちゃんぽんの白濁スープをヒントに、トンコツスープを濃厚にした白濁トンコツラーメンの「元祖長浜屋」が開業。

 

 大木と松永は上野広小路駅にやって来た。2人は春日通りを探索したが無駄骨を折った。

 春日通りは東京都豊島区池袋から文京区・台東区を経由して、墨田区へとほぼ東西に延びる道路の通称。明治通り(六ツ又陸橋)から四ツ目通りを越えて江東区との区界直前までの区間を指す。


 六ツ又陸橋交差点から本郷三丁目交差点までの間は国道254号と重複し、本郷三丁目交差点から本所一丁目交差点までの間は東京都道453号本郷亀戸線と重複している。六ツ又陸橋から西は川越街道に通じ、逆の東側は横十間川にかかる栗原橋の西詰が終点となる。


 ほとんどの区間で4車線の道路であるが、横川交番前交差点(四ツ目通り交点)から東は2車線の生活道路となり、栗原橋の東詰にある交差点で道自体が途切れる。


 豊島区東池袋2丁目付近から新大塚駅を経て大塚1丁目付近(茗荷谷駅直前)と本郷三丁目駅西側のごく一部で東京メトロ丸ノ内線が地下を走っている。


「ブレイブたちちゃんとやってるかな?」

 大木が言った。

「ホンコンさんは心配症ですね?」

「アンカーが無頓着なんだよ」

 松永に言われて大木は取り付く島もない。

 

 2人は上野駅にやって来た。

 日本鉄道は上野 - 熊谷間の開業に先立ち、1882年11月に寛永寺の子院跡約29,800坪(約98,512平方メートル (m2))を東京府より借り受けて上野駅の用地とした。1883年(明治16年)7月28日に同線の仮開業に伴い上野駅を開設し、8月から貨物、10月より郵便物の取り扱いを始めた。1884年(明治17年)6月28日に仮駅舎で開業式が行われ、1885年(明治18年)に煉瓦造りの237坪(約783m2)の本駅舎が竣工した。この初代駅舎は三村周が設計、毛利重輔が監督を行い、中央の平屋部分に出札広場とコンコース、両翼に待合室を設置したH型平面の構造で、当時の汐留駅や横浜駅を踏襲した形となっている。


 1885年に途中大宮駅から宇都宮駅に至る区間が利根川渡河区間を除いて開通すると、上野駅は東京側のターミナルとして繁盛した。当初は1つの駅構内に旅客・貨物・車両基地の機能を併設していたが、次第に鉄道輸送の需要が伸びると構内が手狭になった。駅周辺の道路が狭隘で、旅客を輸送する馬車鉄道や貨物を輸送する大八車が輻輳したために、旅客と貨物の機能を分離することが計画された。1890年(明治23年)11月1日に南方に地上の貨物線を開通させ、新たに設置された秋葉原貨物取扱所へ貨物取扱を移転した。1896年(明治29年)12月25日に開業した隅田川駅にも荒荷の扱いなどを分散移転して、上野駅は12月1日に旅客専用駅となった。1900年(明治33年)に日本鉄道が駅前広場に110坪(約364m2)で2階建ての上野待合店を建設し、飲食店、喫茶店、雑貨販売店、理髪店などが入居したが、1922年(大正11年)に撤去された。


 1905年(明治38年)4月1日に常磐線の三河島 - 日暮里間が開通し、それまで田端で折り返して運転していた常磐線の列車が直接上野駅へ乗り入れた。この年に新橋 - 上野間の高架旅客線の建設とそれに伴う上野駅の改築が決議されている。1906年(明治39年)に、日本鉄道の国有化に伴い上野駅も国有化され、1909年(明治42年)10月に秋葉原 - 上野 - 青森間が東北本線と定められた。12月16日に山手線の烏森 - 品川 - 新宿 - 池袋 - 田端 - 上野間で電車の運転が開始され、上野駅はその一方の端となった。


 上野駅の利用者は増加を続け、1917年(大正6年)の駅構内は事務所9棟、倉庫10棟、その他売店などが44棟がが立ち並んでいた。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で初代駅舎が焼失し、23日に仮駅舎で営業を再開した。1923年から鉄道省東京改良事務所が上野駅周辺の改良工事を開始し、1925年(大正14年)3月1日に新橋駅と結ぶ高架旅客線が開通して山手線の環状運転が始まり、東京の都市内交通である山手線と、東北・常磐・高崎など長距離幹線を接続する駅として機能した。


 1930年(昭和5年)3月1日に地鎮祭が行われて改築工事が始まり、1932年(昭和7年)4月2日に2代目の駅舎が落成、5日から営業を開始した。この駅舎は利用者の安全を配慮して、乗車客は1階の車寄せから列車ホームへ、降車客は地下1階の車寄せへ、それぞれの動線が設計された。外壁は多胡石と小松石の砕石が入ったモルタル塗りで、臍壁は花崗岩が用いる。本屋の中央に設置した30×20.3×13.25メートル (m) の広間空間が構造上の特徴で、正面玄関の機能を有し、2階部に業務エリアの移動のための回廊が設けられていた。秋葉原の貨物取扱設備が高架上に移転したことを受け、東西交通を遮断するなど難点が多かった地上の貨物線は、1932年7月1日に廃止されている。


 過去においては代表的な帰省客の玄関口であり、1965年の例では8月10日から8月14日までの5日間に約90万人が利用した。お盆や年末年始の多客時には押しかける乗客を駅構内だけではさばききれず、駅舎に隣接して大型テントを連接したテント村を設営。待機列を整理、誘導する時代が続いた。


 大木たちは分担して上野駅周辺を調べることにした。大木はアメ横に入った。

 商店街が「アメヤ横丁」という名前で呼ばれるようになった由来は大別して二つある。第二次世界大戦直後、砂糖が手に入りにくかった時代に、マーケット周辺で露店を出した中国からの引揚者会が飴を販売し、甘味に飢えた人々の間で大好評を博したからとも、「芋あめ」を売る店が並んだためともいう説がある(飴屋横丁)。もう一つは、アメリカ進駐軍の放出物資を売る店も多かった説である(アメリカ横丁)。現在でも、アメヤ横丁問屋街には、飴などの菓子類を売る店がある。それが、いつしかアメヤ横丁の呼び名が縮まり、「アメ横」と通称されるようになっていったといわれる。

 元々は民家や長屋がひしめき合う下町の住宅街であった。国鉄の変電所があったことから、太平洋戦争下の空襲に因る被災を避けるため、強制的な建物疎開が行われた。しかし東京大空襲によって周辺一帯は焦土と化し、第二次世界大戦後はバラック建ての住宅と店舗、そして盛り場では屋台や露天商が目立ち始めるようになる。これらは公の営業許可を受けないため闇市と呼ばれ、アメ横があるところもその一つであった。配給が十分に行き渡らないため民衆はそこに集まり、十分なモラルがない中で、様々な人間が多種多様な物資を公定価格の10倍ほどの値段で売買しており、それらに群がる愚連隊や暴力団などが入り乱れ白昼の発砲事件なども起き、その度にMP(米陸軍憲兵)と警察が対処に当たるというような状況が続いていた。


 1946年(昭和21年)、手を焼いた当局(上野警察署と台東区役所)が近くの実業家・近藤広吉に頼み込み、現在アメ横センタービルの建っている三角地帯に、80軒の商店を収容した「近藤マーケット」を作らせた。近藤マーケットは出所の怪しい者を排除して出店させたため、アメ横はようやく正常化へと向かっていった。その後、マーケットの周辺では中国からの引揚者が露店を出すようになり、現在あるアメ横のルーツとなった。


 上野駅は北関東や東北地方、北陸との鉄道の玄関口であった。これらの地方から東京へコメや野菜を売りに来た行商人が、地元では不足していた甘味の飴を仕入れて帰るため、飴屋が並んだ。米軍放出品などを扱うミリタリーショップは現在もあるが、飴屋は日本で戦災復興が進み、飴の売り上げが減ると、取扱商品や業態を変えていった。上野駅側の「アメヤ横丁」看板は、まだ飴屋が残っていた1950年代に設置されたものである。


 松永は上野恩賜公園を探った。

 江戸時代、三代将軍・徳川家光が江戸城の丑寅(北東)の方角、すなわち鬼門を封じるためにこの地に東叡山寛永寺を建てた。以来、寛永寺は芝の増上寺と並ぶ将軍家の墓所として権勢を誇ったが、戊辰戦争では寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲殲滅したため(上野戦争)、伽藍は焼失し、一帯は焼け野原と化した。1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医アントニウス・ボードウィン(「ボードワン」とも呼ばれる)が、公園として残すよう日本政府に働きかけ、その結果1873年に日本初の公園に指定された。このことをもってボードウィンは、上野公園生みの親と称されている。


 松永はそれから野球場にやって来た。

 正岡子規記念球場だ。東京都が管理するレクリエーション施設で、プロ野球や大学野球などのリーグ戦や公式戦が行われる球場ではなく、草野球などが行なえる。使用する際は予約が必要になる。

 この球場の名前を冠している正岡子規は、明治初期に日本に野球が紹介されて間もない頃の愛好者であり、1886年(明治19年)から1890年(明治23年)頃、この球場がある上野公園内で野球を楽しんでいたという。


 その証拠に子規の随筆「筆まかせ」の中に、明治23年3月21日午後、上野公園博物館横の空き地で試合を行ったことが書かれており、その時子規は捕手を守っていたことが分かる内容が書かれている。


 その後、子規は野球を題材とした俳句や短歌・小説・随筆を発表して野球の普及に貢献した。また、数々の野球用語を日本語訳したことも知られる。

 

 妖怪が野球場に入って来た。巨大なそいつの顔には3つの目があった。三つ目入道って妖怪で、明治時代、東京府(現・東京都)神田区の神田元柳原町に三つ目入道が出現した事例が、錦絵新聞『東京日日新聞』第445号に記事として報じられている。1873年8月4日(明治6年)午前3時頃、梅村豊太郎という男が地震で目が覚めた後に寝つけずにいたところ、一緒に寝ていた子供が突然激しく泣き出した。何事かと思ったところ、枕元に三つ目の怪僧が立っており、しかも次第に巨大化し、天井を突き破るほどの大きさとなった。しかし度胸の据わった豊太郎は怪僧の裾を引っ張って力任せに倒したところ、その正体は古狸だったという。


 また長野県東筑摩郡の教育委員会の調査による資料では、同郡に伝わる妖怪として「人前で踊るもの」とされているが、それ以外の記述はなく、詳細な特徴などは不明。


 江戸時代後期の黄表紙においては見越し入道の一種として、首の長い三つ目の妖怪がしばしば描かれている。


 松永は聖なるじゃがいもを天に掲げた。

 大木とバラバラになるんじゃなかったな。

 恐怖感に胸が押し潰れそうだった。

 入道は軽々と松永を持ち上げて、体を引き裂こうとしたが松永の体は鋼みたく固くなった。

 聖なるじゃがいものお陰だ。

 何度か松永を殺そうと試みたが、諦めて帰っていった。

 次に松永は動物園に入った。

 1882年3月20日 - 農商務省博物局付属の動物園として開園。当初は1ヘクタールの広さであった。


 1883-1901年 - アジアゾウ、トラ、ヒョウ、シフゾウ、ハリモグラ、ニホンオオカミ、アホウドリ、ウシウマ、トキ、シマフクロウなどが来園。

 🐘🐅🐆🐺🦓🦉


 1895年7月 - 黒川義太郎、最初の動物園獣医として採用。


 1895年 - 日清戦争で旅順を陥落させた山地元治第1師団長からフタコブラクダ2頭が皇太子に献上され飼育された。🐫


 1902年 - ドイツ帝国ハンブルクのハーゲンベック動物園からライオン(バーバリーライオン)、ダチョウ、ホッキョクグマなどが来園。🦁


 1903-1935年 - キリン、カバ、チンパンジー、ゴールデンライオンタマリン、テングザル、メガネザル、レッサーパンダ、ナマケモノ、センザンコウ、タイマイ、クロツラヘラサギ、モリバトなどが来園。🦒🦛🐒🦥


 1907年 - キリンが2頭来園(ファンジとグレー)。当初ラクダ小舎の天井を除き、柱を継ぎ足した仮設キリン舎で飼育された。この年入場者数が初めて100万人を超えた。


 1924年2月1日 - 管理者が東京市となる(皇太子御成婚記念による特旨)。


 1935年 - タイの少年団から親善のためゾウ(ワンリー)が寄贈され来園。


 1936年7月25日 - クロヒョウ脱走事件、12時間後に無事捕獲。


 1937年 - 日本で初めてキリンが繁殖する(ただし、この時点で繁殖賞は存在しない)。爬虫類室が完成。


 1938年 - 日本で初めてカバが繁殖する。


 1943年8-9月 - 東京都長官・大達茂雄の命により、ゾウ(ワンリーとトンキー)、ヒグマ、ツキノワグマ、ライオン(アリとカテリーナ)、ヒョウ、クロクマ、トラ、チーター、ホッキョクグマ、ガラガラヘビ、ニシキヘビ、マレーグマ、アメリカバイソンなど14種27頭が戦時猛獣処分される。1944-1945年には餌不足により一部動物が処分される。


 1949年 - ゾウ「インディラ」と「はな子」来園。


 1950年 - 国内で初めてノドジロオマキザルの繁殖に成功する(これ以降、繁殖賞を受賞)。


 1951年 - 捕鯨団が持ち帰ったヒゲペンギンが来園。🐧


 1952年 - 開園70周年を記念して、ディック・クレメンスによるライオンショーが行われた。3月20日、海水水族館完成。


 1957年12月17日 - 園内に上野動物園モノレールが開業。🚟


 1959年 - アフリカ生態園完成(1979年まで)。


 1960年 - 2年前に来園したトラのワンとシュフが繁殖に成功、11年間で12回43頭を出産した。


 1961年 - 国内で初めてオランウータン、カリフォルニアアシカの繁殖に成功する。🦧


 1962年 - 国内で初めてジャガー、コビトカバの繁殖に成功する。


 1967年3月14日 - アジアゾウのインディラが運動場から脱走。休職中のベテラン飼育員が駆けつけてなだめ、無事収容された。


 午後3時、上野駅で松永は大木と合流した。

「上野公園で怪物に襲われました」

「よく助かったな?」

「じゃがいものお陰です」

「それはよかったが、宝は?」

「何も獲られませんでした」

「アンカーが無事だっただけでめっけものさ」

 大木の優しさに松永は目を潤ませた。

「野郎の涙なんて気持ち悪いな」


 勇たちは神田小川町にやって来た。

 千代田区の北部に位置する。北辺は、神田猿楽町・神田駿河台・神田淡路町にそれぞれ接する。東部は神田須田町に接する。南部は神田錦町・神田司町・神田美土代町にそれぞれに接する。西部は錦華通りと千代田通りに接しこれらを境に、神田神保町に接する(地名はいずれも千代田区)。


 神田小川町は商業地域でビルや商店が多く立ち並んでいる。町域内の靖国通り沿いを中心にスポーツ用品店が多く並んでいることでも知られる。ほかに神保町に隣接していることもあり出版・書籍関連の企業も見られる。また、カレーの街としても知られ、神田界隈、特にこの小川町周辺には100店舗を超すカレー店が犇き合い、それぞれ個性的な店が出店している。

 

 神田小川町一丁目

 地域東部。概ね外堀通りと本郷通りの間に挟まれた区域。町域の中央部を東西に靖国通りが通っている。各種商店やオフィスビルが並んでいる。都営新宿線・小川町駅と丸ノ内線・淡路町駅の地下鉄出口の前になる。

 

 神田小川町二丁目

 地域中部。東部は本郷通りに接する。中央部を東西に靖国通りが通っている。ビルや商店が並ぶ地域。靖国通り沿いにはスポーツ用品店が目立つ。


 何の収穫もなかった。


 勇はサニーキャブを疾駆させ、大手町にやって来た。中央区(日本橋本石町・八重洲)との区境に当たる。町名としての大手町は、地下鉄各線の大手町駅を中心とする地域である。日本経済の中心地として、南に隣接する丸の内と共に政府系金融機関・大手銀行(メガバンク)・総合商社・マスコミの本社などが集積する、東京屈指のオフィス街・中心業務地区(CBD)である。最近は建物の老朽化などが見られ、再開発が盛んである。以前、この地域は皇居前ということもあり、建築基準によって建造物の階数に厳しい制限があった。

 この辺りは平川の河口部分、神田山の尾根の先に当たり、芝崎村と呼ばれていた。1590年、徳川家康の入府後、日比谷入江が埋め立てられ大手前と呼ばれた。江戸時代には姫路藩酒井氏、福井藩松平氏、小倉藩小笠原氏などの大名屋敷が連なっていた。


 明治維新後、武家屋敷は取り壊され、内務省・大蔵省・文部省・大蔵省印刷局などが建設され、官庁街となった。1952年、分散していた中央官庁を霞が関に集中させる都市計画が決定され、多くの敷地が民間に払い下げられた。その後、高度経済成長期におけるビルの新築ラッシュにより、官庁街は丸の内地域から続くオフィスビル街へと様変わりした。


 何の収穫もなかった。


 神田小川町も大手町も勇が探した方がいいと言った。

「おまえの話を信じた俺が馬鹿だった」

 蒲生は泣きそうな顔をしている。

「じゃあ、どこにあるんですか!?」

「何怒ってるんだ?」

「そろそろ戻る方向で行きましょう」

 太陽が西に傾き、カラスが塒に帰り始めた。

「疲れたなぁ、もう寝たいよ」

 蒲生はガックリ肩を落とした。


 大木と松永は上野から銀座線渋谷行きに乗り込んだ。つまり、今までとは逆のコースだ。上野広小路駅、末広町駅、神田駅は飛ばし、三越前駅で降りた。1932年(昭和7年)4月29日:東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)三越前駅開業。

1941年(昭和16年)9月1日:東京地下鉄道が路線を帝都高速度交通営団(営団地下鉄)に譲渡。

 2人は三越にやって来た。三越の旗艦店。東京メトロ銀座線「三越前駅」に直結しており、本館と新館で構成される。元々三井越後屋があった場所であり、東京において、江戸時代から現在まで同一の場所で続く百貨店は、当店と松坂屋上野店だけである。本館の道路を挟んで北隣には、三井財閥の本拠だった三井本館がある。本館 49,000m2+新館15,000m2=64,000m2。本館6階には三越劇場がある。


 売上高は1651億円(恵比寿店、外商などを含む)。店舗別年間売上高において国内5位に位置する。髙島屋日本橋店を抑えて日本橋地区での地域一番店である。


 長い歴史を待つ老舗として高いブランド力を誇り、取締役といった国内の富裕中高年や全国の法人外商に強みを持っており、叙勲・褒章を受けた人物向けのサービスなども行っている。


 本館は「我が国における百貨店建築の発展を象徴するものとして価値が高い」(意匠的に優秀なもの・歴史的価値の高いもの)として、百貨店建築としては日本橋高島屋本館に次いで2例目の国の重要文化財に指定されている。1920年代から30年代にヨーロッパで流行したアール・デコ様式が取り入れ、内装には一部大理石が用いられている。1932年の東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)開通にあたっては三越前駅の建設費用を負担した。 1935年には増築改修が行なわれ、五層吹抜けのパイプオルガンを設置した中央大ホール、人気の「特別食堂」が設置された。 1960年、三越創立50周年を記念して、日本橋本店本館の中央ホールに、佐藤玄々さとうげんげん制作の巨大木彫『天女像 まごころ』が設置され、現在は日本橋三越本店における象徴的存在である。

 

 二手に分かれたが収穫はなかった。

「足が痛いからどこかで一休みしましょう」

 松永が足首を押さえながら言った。

「元ランナーがそんなんじゃいかんな」

 大木のYシャツは汗でグショグショだった。

「スミマセン」

「謝る必要はないけどさ」


 日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代徳川綱吉の頃で、長崎の出島においてオランダ人に振舞われたのが最初であると考えられている。大田南畝の『瓊浦又綴』には「焦げ臭くして味ふるに堪えず」とあり、日本人の味覚には合わず受け入れられなかったことが記されている。その後、黒船来航と共に西洋文化が流入し長崎、函館、横浜などの開港地を中心として西洋料理店が開店するようになり、そのメニューの一部としてコーヒーが一般庶民の目に触れるようになった。慶応2年(1866年)に輸入関税が決定され正式にコーヒーが輸入された1877年(明治10年)頃になるとコーヒーを商品として取り扱う地盤が出来上がり、下岡蓮杖が浅草寺境内に開設した「油絵茶屋」(1876年)をはじめ神戸元町の「放香堂」(1874年(明治7年)開店-創業は天保年間・現在も神戸市中央区元町通りに現存)、東京日本橋の「洗愁亭」(1886年(明治19年)開店)などの店でコーヒーが振舞われた。


 現代に見られるような本格的な喫茶店としての形態を初めて持ったのは、1888年(明治21年)に開店した「可否茶館」である。勤めていた外務省を辞めた鄭永慶ていえいけいが、現在の台東区上野に開店した可否茶館は現代の複合喫茶の様相で、トランプやビリヤードなどの娯楽品、国内外の新聞や書籍、化粧室やシャワー室などが備えられていた。鄭は「コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場」として広めようとした。当時ブラックコーヒー一杯の値段は一銭五厘、牛乳入りコーヒーは二銭だったが、蕎麦が八厘から一銭だったことを考えると高価な飲み物だった。経営が振るわなかったことに加え、鄭は投資にも失敗して多額の借金を抱えたため、1892年(明治25年)にその幕を下ろし、鄭は日本を去って偽名でアメリカ合衆国に密航した。


 それからしばらく経った1911年(明治44年)、画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイメージして4月に開店した「カフェー・プランタン」をはじめ、水野龍の「カフェー・パウリスタ」、築地精養軒の「カフェー・ライオン」など銀座にカフェーと称する店が相次いで誕生する。それぞれの店は独自色を打ち出し、カフェー・プランタンは「初の会員制カフェ」として、カフェー・パウリスタは「初の庶民喫茶店」「初のチェーン店舗型喫茶店」として、カフェー・ライオンは「初のメイド喫茶」として人気を博した。また、この頃、暖めた牛乳を提供する「ミルクホール」も登場し、学生などに人気を博した。


 一方、大阪では1912(明治45)年、旧川口居留地の大阪市西区川口町に「カッフェー・キサラギ」がオープンしている。

「日本初のカフェ」としてオープンしたカフェー・プランタンは経営の安定化を図るため維持会員を募る方式を採用し、知識階級のサロンとして流行した。会費は50銭で店舗の2階を会員に供し、特別料理を提供するなどしていた。会員には黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、森鷗外、押川春浪、岡本綺堂、永井荷風、正宗白鳥、小山内薫、島村抱月、木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、谷崎潤一郎、田村寿二郎、吉井勇、萱野二十一、長田秀雄、長田幹彦、市川左団次、松崎天民、長谷川時雨、岡田八千代など多数の文化人がいた。


 皇国殖民株式会社の社長であった水野は、ブラジルへの日本人移送の見返りとしてブラジル政府より3年間1,000俵のコーヒー豆(ブラジル種)無償提供を受けた。これを元に1910年(明治43年)、大隈重信に協力を仰ぎ合資会社カフェーパウリスタを設立、翌年「南米ブラジル国サンパウロ州政府専属珈琲販売所」と銘打ち、カフェーパウリスタを開業した。芥川龍之介や平塚らいてうなどの文化人のほか一般の学生や社会人などが出入りする庶民的な店舗として人気を博し、「誰もが気軽に親しむことが出来る喫茶店の元祖」とされた。カフェー・パウリスタは全国各地に店舗を展開し、ブラジルコーヒーを広めた。しかし関東大震災の影響により店舗が崩壊すると規模を縮小し、コーヒーの輸入・焙煎業を主として行い戦時下には日東珈琲株式会社と名を変えるなどした。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが愛した銀座店は、現存する国内最古のコーヒーショップとして知られている。


 洋酒や洋食をメニューの中心として供したカフェー・ライオンの特筆すべき点は、女性給仕(ウェイトレス)のサービスにあった。和服にエプロンを纏った若い女給が客の話相手となったこの店は、いわゆるカフェーを代表する存在である。後年の美人喫茶やメイドカフェの嚆矢となったという見方もある。


 昭和に入ると「飲食を提供しつつ(女給の)サービスを主体にした店」と、「あくまでコーヒーや軽食を主体とした店」への分化が進む。前者はそのまま「カフェー」または「特殊喫茶」「特殊飲食店」としてバーやキャバレーのような形で次第に風俗的意味合いを持つようになった。1929年(昭和4年)に「<カフェ><バー>等取締要項」が、1933年(昭和8年)に「特殊飲食店取締規則」が出され規制の対象となった。一方後者は「純喫茶」「喫茶店」と呼称されるようになり、やがて外来する店舗も含んだ「カフェ」として発展していくこととなった。1933年(昭和8年)当時は、特殊飲食店が喫茶店の2倍を数えたものの、一般庶民にコーヒーが浸透しはじめ、1935年(昭和10年)には東京市だけで10,000店舗を数えるなど順調に増え続けサービスや提供形態の多様化が進んだ。多様化は地域の特性を育み、例えば銀座は高級感を売りに出した店舗が特徴として知られるようになり神田は容姿端麗な女性給仕を揃えた学生を対象としたサービスを展開、神保町は落ち着いた雰囲気で本を読みながら過ごすスタイルが定着した。


 戦前の喫茶店、カフェーや女給の姿は永井荷風や谷崎潤一郎の『痴人の愛』、広津和郎の『女給』、龍膽寺雄の『甃路スナップ 夜中から朝まで』、太宰治、林芙美子の『放浪記』、佐多稲子の『レストラン洛陽』、平林たい子の『砂漠の花』、宇野千代の『脂粉の顔』などの作品で様々に描き出されている。


 しかし日中戦争が勃発し、戦時体制が敷かれるようになるとコーヒーは贅沢品に指定され、1938年(昭和13年)には輸入制限が始まった。第二次世界大戦がはじまると完全に輸入が禁止され、供給源を断たれた喫茶店は次々と閉店していった。そのような中でも大豆や百合根を原料とした代用コーヒーを用いて細々と経営を続ける店も見られた。また、こうした事情を契機として、喫茶店から別の業種へ転向した店も多く見られ、「千疋屋」「ウエスト」「コロンバン」「中村屋」などはその転向が成功した代表的な存在である。


 戦後の荒廃した日本で喫茶店が復活を見るのは1947年(昭和22年)頃からで、戦時下の代用コーヒーや米軍の放出品を用いたGIコーヒーなどが提供された。一般にコーヒーが再び広まるのは、輸入が再開された1950年(昭和25年)以降となる。こうした輸入豆は、その需要のほとんどが喫茶店であったと見られ、オリハラコーヒーの代表である折原烈男は当時を振返り、「輸入が再開されたコーヒーはその9割以上が喫茶店で消費されていた。そのほとんどは個人経営の喫茶店だった」と語っている。


 世の中が平静を取り戻すにつれ、そのときの世情を取り込んだ様々な喫茶店が興亡した。1960年(昭和35年)頃は個人経営の店が主流となり、店主のこだわりが店の個性として色濃く反映された喫茶店が人気を獲得した。特に「音楽系喫茶」と呼ばれる喫茶店は、美輪明宏や金子由香利などを輩出した「銀巴里」に代表されるシャンソン喫茶、「ACB」「メグ」「灯」のようなジャズやロックの音楽演奏がサービスの主となったジャズ喫茶、歌声喫茶、ロック喫茶、後年のディスコやクラブなどに多大な影響を与えたロカビリー喫茶、ゴーゴー喫茶など多数の業態の店が誕生している。LPレコードなど金銭的にも個人レベルでは入手が困難であった時代であり、喫茶店にはこうした音楽鑑賞を趣味とした庶民たちへの場所貸しといった要素が強く出ていた。そのため、住宅環境の改善や音楽配信媒体の低価格化が進むにつれ、こうした業態の喫茶店の需要は無くなっていった。

 

 松永たちは三越前駅の目と鼻の先にある『RED 』って喫茶店に入った。松永はブルーマウンテン、大木はモカを頼んだ。

「ホンコンさん、ブレイブのことどう思います?」

 松永はブルーマウンテンをフ〜フ〜しながら言った。☕

「どう思うって?」

「昨日の夜、イビキうるさかったですよね?」

「うん」

「朝、トイレでバッタリ会って、イビキのこと言ったら『おまえはイビキしないのか?ロボットか?俺に文句つけるなんて100年早いんだよ』って突き飛ばしてきたんですよ」

「それはよくないな」

「ホンコンさんから注意してやってください」

「分かったよ」


 松永たちは三越前駅から5駅の虎ノ門駅で降りた。虎ノ門は港区の北部、芝地域(旧芝区)の北端部に位置する。

「虎ノ門」とは江戸城の外堀(現在の虎ノ門交差点附近)にあった城門の名前である。明治6年(1874年)に城門が撤去された後もその近隣地域の俗称として使われ続け、交差点名や都電・地下鉄銀座線の駅名となった。虎ノ門の名が正式な地名に初めて採用されたのは昭和24年(1949年)になってからである。


 まずは1丁目。

 2人は大阪屋砂場ってそば屋にやって来た。

 1872年(明治5年)、尾張国(現・名古屋地方)出身の稲垣音次郎が、そば屋で砂場本家「糀谷七丁目砂場藤吉」の暖簾分けにより、琴平町(現・虎ノ門一丁目)に「琴平町砂場(後の虎ノ門大坂屋砂場)」を創業したのが始まり。稲垣音次郎の妻・よそは、徳川家と縁の深かった武家・刈谷家の娘で、父は鍋島藩の剣術指南役だったが、御前試合で負けた相手から逆恨みされ闇討ちにあい命を落とし、その時、養女として「糀町七丁目砂場藤吉」に預けられた。


「琴平町砂場」の店舗は、旧大名家・阿部氏の敷地の一部を譲り受けるなど、武家との縁が深かった。創業当初は、幕末、明治の剣術家の山岡鉄舟、高橋泥舟、勝海舟の三舟らにひいきにされ、書が残されている。現在の店舗は、1923年(大正12年)の 関東大震災直前に建てられた建物である。


「砂場」の名は、豊臣秀吉が大坂城を築いたとき、大坂の和泉屋という菓子屋が、資材の砂置き場に蕎麦屋を開店し、「砂場」と呼ばれていたのに始まる。徳川家康が江戸城を築くときは、江戸に進出し糀町(現・麹町)に店を構えた。「虎ノ門大坂屋砂場」の「大坂屋」は、本店からもらった屋号である。

 そばは美味かったが何も手に入らなかった。

 

 2人は2丁目にやって来た。

 現在の港区虎ノ門二丁目のあたる江戸見坂、霊南坂、汐見坂に囲まれた地域には、天保年間、川越藩・松平大和守の屋敷があった。明治期以降は政府が接収し、工部省地理寮などとして使われていたが、1878年(明治11年)大倉財閥の創始者である大倉喜八郎が購入し、邸宅を構えた。広大な敷地内には喜八郎が蒐集した美術品を展示する私設美術館も設立され、それがのちに日本初の私立美術館「大倉集古館」となった。


 喜八郎の長男である大倉喜七郎は、1922年(大正11年)から父の跡を継ぎ、帝国ホテル会長(のち社長)を務め、1924年(大正13年)大倉組頭取に就任し、川奈ホテルや赤倉観光ホテルの創業を手掛けた。戦後の公職追放と財閥解体を経て喜七郎は大倉商事監査役に復帰し、帝国ホテル社長への返り咲きも渇望するが、それが叶わないと見るや、1958年(昭和33年)に資本金10億円で大成観光を設立。邸宅跡に1962年(昭和37年)「ホテルオークラ」を開業した。


 喜八郎が設立した有限責任日本土木会社を前身とする大成建設が施工を担った本館は、高低差と法規による高さ制限とを適合させ、坂上にホテルエントランスを、坂下には宴会場エントランスを設けた地上6階地下6階の画期的な建築であり、中心のエレベーターホールから三つの客室棟に伸びる三ツ矢式建築も、客室を効率的につくるのに、合理性の高いものだった。


 ホテル内を探ったが何も手に入らなかった。

「上野以降、空振りばっかですね?」

「アンカーよ、人生そうはうまくいかないさ。今日はもう諦めて明日にしよう」

 警視庁のある霞ヶ関は虎ノ門駅から数分のところにある。

 1954年(昭和29年)7月1日 新警察法の施行により、国家地方警察と自治体警察が廃止され、警察庁と都道府県警察に再編成される。これにより、国家地方警察東京都本部(15署)と警視庁 (旧警察法)、八王子市警察などの4市警察が廃止され、現在の警視庁に再編成される。新警察法案の審議は国会乱闘事件となり、警視庁 (旧警察法)の警察官が院内出動する事態となった。


 1957年(昭和32年)4月1日 警邏交通部を交通部に、警備第一部を警備部に、警備第二部を公安部に、予備隊を機動隊にそれぞれ改称。警らに関する業務を警備部に移管。


 1967年(昭和42年)

 4月1日 住居表示実施に伴い、本部の住所表記が「東京都千代田区霞が関二丁目1番1号」に変更。

7月21日 警備部から警ら部が独立。


 🚪捜査第一課

 殺人、強盗、暴行、傷害、誘拐、立てこもり、性犯罪、放火などの凶悪犯罪を扱う。

 🚪捜査第二課

詐欺や通貨偽造、贈収賄、背任、脱税、不正取引や金融犯罪、経済犯罪、企業犯罪等の金銭犯罪・知能犯罪を取り締まる部署である。選挙違反や公務員職権濫用その他の公権力に関する汚職についても二課で取り扱っている。

 🚪捜査第三課

 空き巣、ひったくり、スリ、万引きなどといったさまざまな窃盗事件を取り扱う。ただし、県警の規模によっては三課は置かれず、捜査一課が窃盗事件も担当している場合もある。刑事に任用されるとまずは捜査三課からキャリアを始めることが多いという。

 🚪捜査第四課

 暴力団等の取り締まりを扱う。警視庁と福岡県警察は本部長直轄の「組織犯罪対策部(警視庁)」「暴力団対策部(福岡県警察)」として他の部と同様に独立している。

 🚪鑑識課

 事件現場に残された指紋や足跡、血痕、毛髪、唾液、皮膚片、体液、服の繊維などを照合する。より高度な技術を必要とする鑑定は科学捜査研究所で行う。科捜研でも鑑定が困難な場合は警察庁の科学警察研究所で行う。

 🚪機動捜査隊

 普段は覆面パトカーで地域を警邏し、事件が起こった場合には、初動捜査を行う。初動捜査のみで事件が解決出来ない場合は、捜査一課、捜査三課などに捜査を引き継ぐ。


 大木と勇に関してはいまさら説明するまでもないが、倉橋は捜査一課、松永は捜査二課、蒲生は機動捜査隊にそれぞれ配属している。

 松永と大木が作戦室に入ると、勇たちが談笑していた。

「おっ、無事に戻ったな?」

 倉橋は瓶を松永と大木に渡した。中身はコカコーラだ。

 松永はコーラをラッパ飲みした。

 大木が勇に詰め寄った。

「松永のこと突き飛ばしただろ?」

「なんの事ですか?」

「忘れたとは言わせませんよ!?」

 松永がコーラを飲み干して言った。

「おまえ、今朝のことを怒ってんのか?」

「痛かったですよ」

「悪ったよ、ごめんな?」

 

 9月23日 - 中国が第1回地下核実験を行う。

 あれから勇たちはあちこちを回ったが残り3つがどうしても見つからなかった。

 

 勇は、山の上ホテルのロビーでの会合の最中、偶然別の人物に間違えられ、広壮な邸宅に連れていかれてしまう。そこで待っていた蹴上篤郎けあげあつろうという男は、彼をスパイの出町柳でまちやなぎと決めつけ、どこまで情報を嗅ぎつけたのかを教えろと迫る。人違いだと訴えても、出町柳の行動はすべて把握していると言って受け付けない。勇があくまで否定すると、男の手下たちが強引に酒を飲ませて車に乗せ、崖から転落させて殺そうとする。彼は辛くも逃れるが、パトロール中の警官に逮捕されてしまう。


 罰金を払って釈放された勇は、拉致された現場のホテルに戻って出町柳の正体を確かめようとする。しかしホテルの客室に出町柳が宿泊している形跡はあっても、出町柳当人を見た者は誰もいない。そのうち男の手下たちが迫ってきたのを知ってホテルから逃走し、蹴上が国会議事堂で演説する予定と聞いたのを思い出すと、今度は蹴上を追って国会議事堂へ向かう。ところが議事堂のロビーで会った蹴上は、邸宅にいた男とは別の人物だった。2人が噛み合わない会話をしていると、その蹴上の背中に手下の一人が投げた刃物が突き刺さる。勇は殺人容疑者として写真入りで大きく報道されてしまう。


 政府のスパイ機関の会議室では、四条しじょうと呼ばれるボスを中心に、予想外の事態への対応を協議している。蹴上に成りすました男は、蛸薬師たこやくしという敵のスパイ一味の親玉で、四条たちは彼ら蛸薬師一味の中に自分たちの側のスパイを送り込んでいた。出町柳は四条たちが創造した架空のスパイで、蛸薬師の注意を出町柳に向けさせることで、味方のスパイを守ろうという作戦だった。四条たちはスパイ合戦に巻き込まれた勇に同情しつつも、味方のスパイの安全のため、あえて何もしないことに決める。


 架空の人物とも知らず、なおも出町柳を追い求める勇は、彼が新橋に向かったと知ると本町駅から都電本通線に乗る。🚊

 本通線は、東京都電車(都電)の路線の一つである。港区新橋にあった新橋停留場と千代田区神田須田町にあった須田町停留場を結んでいた路線で、1903年(明治36年)11月25日に開業した。1882年(明治15年)開業の東京馬車鉄道をルーツに持つ都電で最も長い歴史を有する路線であったが、高度経済成長期の都電大規模撤去によって新橋 - 通三丁目間が1967年(昭和42年)12月に区間廃止され、残る通三丁目 - 須田町間も1971年(昭和46年)3月18日に廃止された。


 その車内で和泉いずみという女性と親しくなる。彼女は勇がお尋ね者であることを承知していて、彼を自室に招き入れてかくまう。ところが同じ列車に蛸薬師一味も乗っていて、実は和泉は彼らと通じていた。新橋に着くと、彼女は出町柳と連絡をとったと言って、勇を郊外の広大な平原に向かわせる。しかし彼がその平原で待っていても、いつまでも出町柳は現れず、そのかわり農薬を散布していたはずの軽飛行機が襲いかかってきた。平原を縦横に逃げる勇を追い回すうち、軽飛行機は通りかかったタンクローリーに衝突して炎上してしまう。


 新橋に戻った勇は、出町柳が宿泊しているはずのホテルで和泉を見つける。すでに彼女の素性を怪しんでいた勇は、客室をこっそりと出て行った彼女の後を追う。向かった先は骨董品のオークション会場だった。彼が会場に乗り込むと、はたして彼女が蛸薬師と手下に囲まれて客席に座っていた。蛸薬師は彼の出現に驚くが、出展品のダイヤモンドを落札すると、和泉を連れて会場を出ていく。勇は手下たちに見張られて動けなくなるが、とっさにオークションの客に扮して、出展品にでたらめな値を付けて会場を混乱させ、警官に連れ出される形で脱出に成功する。


 彼を乗せたパトカーが向かった先は羽田空港だった。その場で四条が初めて勇に接触して、すべての事情を説明する。和泉こそは四条たちが蛸薬師側に送り込んだスパイだった。蛸薬師は、彼女が敵側のスパイの出町柳(勇)と懇意であることを知り、彼女を疑い始めていた。四条は勇に彼女を助けるために協力するよう要請する。四条と勇は飛行機で蛸薬師のアジトがあるベルリンまで飛び、蛸薬師一味を待ち構える。そこのカフェテラスに彼らを呼び寄せ、彼らの目前で和泉が拳銃で出町柳を撃ったように見せかけることで、彼女に対する蛸薬師の疑念を晴らすという作戦だった。


 作戦は首尾よくいったが、その後で勇は、和泉が蛸薬師に連れられて出国することを知らされた。憤激した勇は、彼女を蛸薬師から奪う行動に出る。彼らのアジトに潜入して様子をうかがうと、すでに和泉の正体は見破られていて彼女を殺害する予定になっていること、そして彼らが盗み出したものはくまのぬいぐるみの中にあることを知った。🧸

 それらの情報をひそかに和泉に伝えるが、近くで待機している飛行機の離陸は間近に迫っていた。和泉は、機内に乗せられる寸前に蛸薬師の手からぬいぐるみを奪って逃げ出す。勇と合流して2人で逃走するが、蛸薬師の手下たちにハーフェル川の際に追い詰められる。この川は多くの湖を有する。全長は325kmだが、水源から河口までの直線距離は69km、その間の標高差はわずか40.6mしかない。川は、初めに南へ、次いで西に、さらに北西にと向きを変える。こうしてこの川はエルベ川右岸で最も長い支流となっている。河口での年間平均水量は108m3/sで、エルベ川支流の中ではモルダウ川(150m3/s)、ザーレ川(115m3/s)についで3番目である。最も大きな支流は全長380kmのシュプレー川で、ハーフェル川自身の2倍以上の水量(15m3/sに対して38m3/s)を有し、全長においてもハーフェル川を凌駕している。

 2人は死を覚悟したが、四条が要請した保安官が銃を撃って死地から脱した。

 蛸薬師は雲隠れしてしまった。


 9月28日

 警視庁近くの居酒屋で勇は倉橋と飲んでいた。勇は本来は捜査一課の所属だ。

「9月ももうじきで終わりだな?」

 倉橋は酔いがかなり回っているのか顔が真っ赤だ。勇は腕時計を見た。

「もう9時だ。そろそろ帰りましょう」

「風邪引いたって嘘ついて休めばいいよ」

「嘘つきは泥棒のはじまりですよ」

 居酒屋を出て裏路地を歩いていると神官の死体を見つけた。背中にナイフが突き刺さっている。

「罰当たりなことをしやがる」と、勇。

 

 翌朝になり新たなことが分かった。

 アスファルトに血で『洲豊蒲』とダイイングメッセージが書かれていたのだ。昨夜は暗くて分からなかったのだ。

「すとよかまって読むのかな?」

 現場で倉橋は言った。

「変わった名前ですね?」

 勇は何を表してるのかさっぱり分からなかった。

 本庁に戻って来て食堂でカレーを食べていると、脳内が活性化された。

 あのダイイングメッセージは洲崎すさき豊島としま蒲田かまたを表している。聖なる野菜も残りは3つだ。あの神官は悪魔を倒そうとしていたが返り討ちにあった。

 

 勇は作戦室にメンバーを呼んだ。倉橋は神官殺しに忙殺されており来れなかった。

「聖なる野菜の在り処が分かったってのは本当か?」

 蒲生は眠いのかあくびをした。

「GSさんちゃんと寝てますか?」と、松永。

「近所に住んでいる犬がうるせーんだよ」

 豊島には松永&蒲生、洲崎と蒲田には勇&大木がそれぞれ向かうことになった。

  

 🎡豊島園は家族連れで賑わっていた。大正15年に開園。していた。室町時代に築城された練馬城の城址を中心に造園された。名称は同城を築城し治めた豊島氏に由来している。その園名から誤解されがちであるが、豊島区内或いは北区豊島所在ではなく、練馬区向山三丁目に所在していた。ただし、豊島園が開園した当時の地名は、東京府北豊島郡上練馬村であった。

 所有者は西武鉄道で、株式会社豊島園へ業務委託をしていた。

 日本で最も古い遊園地の一つで、首都圏有数の規模を誇る遊園地でもあり、各種遊戯施設がある他、春のソメイヨシノ、初夏のアジサイの花の名所として、或いは夏のプールなどで多くの地域住民が訪れる都会のオアシスとなっていた。

 石神井川の南側はかつて矢野山と呼ばれ、室町時代に豊島氏によって築城された練馬城があった。太田道灌との戦いに敗れ廃城となった跡地に再び城が築かれることも無く、雑木林や畑となった。後に板橋の「なべや」が同地を所有し、更に上練馬村長の増田藤助が入手した。石神井川の北側は沼地・湿地であったが、後に田地となった。


 明治後期 - 練馬城址が豊島公園となる。


 1916年(大正6年) - 樺太工業(後の王子製紙)専務であった藤田好三郎が自身の静養地として、石神井川南側の12000坪を入手。

 景勝地だったため、この間には家屋を建てず自然のままで、休日ごとに家族で訪れていた。


 1922年(大正12年) - 藤田自身の住居を建てるため、土地の形を整える接続地6000坪を追加入手。

手始めに小さな温室を作り、将来のために庭を造る(後に開園式が行われる日本庭園)。


 1925年(大正14年)秋 - 藤田好三郎が、石神井川北側の18000坪を入手。

 当時石神井川北側は悪田で、川の南北で土地の価値に大きな隔たりがあった。そこで藤田は悪田に池を掘って埋め立てをすれば、立派な土地になると見込み、2年がかりで入手した。しかし時勢が変わり、大邸宅を構えるのは不謹慎と藤田は考え、景勝地を公開して大衆と娯しむこととした。


 1926年(大正15年)9月15日 - 戸野琢磨(造園家)の設計により部分開園。当初の名称は「練馬城址 豊島園」。


 1927年(昭和2年)4月29日 - 開園式を日本庭園で挙行。


 1931年(昭和6年)11月20日 - 競売にかけられ安田信託銀行(現在のみずほ信託銀行)が自己落札。この後経営者が転々とする。


 1937年(昭和12年)5月 - 第1回「森永母の日大会」を開催し、20万人が参加。


 1941年(昭和16年)11月1日 - 武蔵野鉄道(現在の西武鉄道)が、当時の経営会社である日本企業(社長は小川栄一。後に藤田観光初代社長となる)を吸収合併。


 1944年(昭和19年)4月 - 戦況悪化により一時閉園。

 この頃は太平洋戦争であり、空襲に備えて園内の練馬城跡に、練馬監視哨(軍事施設)が設置される。


 1946年(昭和21年)3月 - 営業再開。


 1951年(昭和26年)1月31日 - 株式会社豊島園臨時株主総会により同社は解散し、事業を西武鉄道株式会社が継承することを決議。


 1951年(昭和26年)9月15日 - 同年11月30日までユネスコこども博覧会(第一会場)を開催。


 1952年(昭和27年)9月 - 豊島園ホテル開業。


 1953年(昭和28年)2月29日 - 閉館した大橋図書館(新宿区若宮町38)の蔵書を引き継いだ堤康次郎が大橋図書館事務所を置く。


 1957年(昭和32年)11月22日 - 大橋図書館事務所は財団法人三康図書館と改称する。


 1958年(昭和33年)11月23日 - こども劇場を改装し、世界初のインドアスキー場開業。


 1959年(昭和34年)9月 - 三康図書館が港区芝公園へ移転する。


 1963年(昭和38年)

 8月23日 - 株式会社豊島園は解散し、事業を西武鉄道株式会社が継承。


 10月1日 - 株式会社豊島園を設立。


 1964年(昭和39年)4月30日 - 堤康次郎の葬儀を挙行。


 1967年(昭和42年) - 花火大会を開始。


「せっかく来たんだから遊んで行きましょう」

 松永はおっさんぽい顔をしていたが、心の中は少年だ。

 模型列車(MINIATURE TRAIN)は、アメリカの開拓時代に走行していた機関車を模した列車式の乗り物。製造メーカーはアメリカ、チャンス社。模型列車のモデルはセントラルパシフィック鉄道で活躍していた蒸気機関車である。

 乗り物の乗り場を出発し、原野やトンネルの中などを通って行くが、途中で降りる駅などは存在しないため、園内の移動手段としては使用出来ないので注意が必要とされる。また、自然の中を走行するため虫がたくさん現れた。🦗🐝

 1966年に営業を開始した。設置時は、園の北側を広範囲にわたって走っていたが、コークスクリューの設置時に現在の形になった。

 模型列車には赤色をしている「フラワープリンセス」と黒色をしている「ウエスタンシルバー」の計2種類の列車が存在し、車体にはそれぞれ「193」「265」というチャンス社のシリアルナンバーが記載されていた。過去に模型列車の線路を走っていたシリアルナンバー「183」と記載されている車両がこどもの森に展示されていた他、模型列車の側線にも過去の車両が飾りとして設置されていた。

 松永たちが乗ったのは「フラワープリンセス」だ。

 

 次いでミステリーゾーンにやって来た。2人乗りの自動式ライドに乗り込み暗闇の中を走行するお化け屋敷タイプの乗り物。1966年開業で、下記のお化け屋敷よりも古くから存在している。

 名称と建物の外観は洋風であるが、中は神社や屋敷、首吊り自殺をしている人形など数多くの和風の展示品が並べられ、その場に合わせたBGMが流れる。夏休み時期などの大型連休時にとしまえんに訪れる人々にはとても人気が高い乗り物で、最長60分待ちを記録した時代もあった。

「リアルに造られてるな?」

 蒲生は全く恐れている様子はないが、松永はオシッコがちびりそうだった。


 2人はアドベンチャーゾーン アフリカにやって来た。アフリカ各地を模した情景を6人乗りのジープに乗って巡るダークライド。アフリカ館とも呼ばれる。

 今年の7月19日に開業したばかりだ。3億円という巨額を投じて設置された。館内は古代エジプトのアブ・シンベル神殿に入り、宮殿の宴会風景やナイジェリアのカノの町、マサイ族の集落、ゴリラの森などを巡った。揺れる吊り橋の上に何かが落ちてる。

🍅

「聖なるトマトだ!」

 松永は思わず叫んだ。

 残り2つ

「いつか、アフリカに行ってみたいな」

 蒲生は少年の心を取り戻していた。


 大木の運転するサニーキャブが洲崎に入った。

 洲崎は、東京都江東区東陽一丁目の旧町名。元禄年間(1688~1704)に埋め立てられた土地であり、古くは「深川洲崎十万坪」と呼ばれた海を望む景勝地であった。明治21年(1888)に根津から遊郭が移転し、1958年(昭和33年)の売春防止法成立まで吉原と並ぶ都内の代表的な遊廓が設置され、特に戦後は「洲崎パラダイス」の名で遊客に親しまれた歓楽街であった。


 江戸時代初期ころ、江戸城への運搬船を通すための水路として、小名木川などの河川を整備し、その河口付近の湿地帯(現在の洲崎付近)をならした。この付近はまだ満潮で冠水する状態であったため、逆に水路と畦を配して養魚場が発達していった。


 寛政3年9月4日(1791年10月1日)、洲崎一帯を台風による高潮が襲い、周辺家屋を呑み込み多数の死者を出す大惨事が発生。幕府は以後、高潮に備えて洲崎一帯に家屋の建築を禁止した。


 その後も養殖業は依然として盛んに行われ、また潮干狩りの名所として発展していく。江戸後期には「東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地」として発展し、初日の出の名所として人気を集めた。


 1887年(明治20年)までに富坂(現・文京区)に東京帝国大学校舎が新築される計画が策定されたため、風紀上の観点から直近に存在した根津遊廓の移転計画が発足。しかし最大の歓楽街だった吉原に受け入れの余裕がなく、1886年(明治19年)6月に洲崎弁天の東側の広大な湿地を整備して移転することとなり、現在の東陽一丁目に洲崎弁天町が誕生した。1888年深川洲崎遊廓の開業式が挙行された。1893年(明治26年)に大火があったものの、大正時代末期には300件前後の遊郭がひしめき、吉原と双璧をなす規模の大歓楽街(吉原の『北国』と同様に、『辰巳』の異名を持つほど)に発展した。


 第二次世界大戦により深川地区は激しい空襲に晒されるようになり、1943年(昭和18年)には洲崎遊廓の閉鎖令が下され、跡地は軍需工場等となったが、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲で洲崎はほぼ完全に灰燼に帰し壊滅した。


 第二次世界大戦終結後から半年で洲崎遊廓は、大門通りより東半分(洲崎弁天町二丁目)に「洲崎パラダイス」の愛称で復興した。その規模と海の直近という風情から、吉原以上の人気を誇る歓楽街として隆盛を誇った。1956年(昭和31年)製作の映画「洲崎パラダイス赤信号」には、ロケにより往事の華やかな洲崎の様子が記録されている。その後、1958年(昭和33年)4月1日に施行された売春防止法により、洲崎パラダイスは70余年の歴史に幕を引き、静かな住宅街へと変遷していった。


 1967年(昭和42年)、町名の変更に伴い洲崎弁天町一丁目・二丁目は江東区東陽一丁目となった。

 

「ブレイブは風俗とか行ったことあるのか?」

 サニーキャブを路駐させ大木が口を開いた。

「あまり、女遊びはしないんだ」

「そうなのか?」

「すすきのは面白いぞ」

「ホンコンって北海道出身なの?」

「あれ、言ってなかったっけ?」

 すぐ近くには東京ヘリポートがあり、ジャイロ音が遠くから聞こえてきた。

 勇たちは波除碑なみよけのひの前にやって来た。

 洲崎弁天の境内に建つ江戸時代中期の石碑。1791年9月4日にこの一体を襲った津波の惨状から、江戸幕府によって洲崎弁天から西側一帯が津波に備えての冠水地帯とされ居住が禁止された。その空き地の北側両端(平久橋西詰・洲崎神社境内)に災害の惨状を記録した2本の波除けの碑が設置された。

 聖なるナスを見つけた!🍆

 残り1つ


 勇の無線に蒲生から入電があった。

「ブレイドか?としまえんで聖なるトマトを見つけたぞ」

「こっちも洲崎でナスを見つけた」

「残り1つだな?ブレイド、最後の野菜はなんだと思う?」

「キャベツじゃないかな?GSは?」

「キュウリだと思う」

「もし俺が当たってったら缶コーヒーごちそうしろ?」

「いいよ。俺が当たったら、1万よこせよ?」

「分かった」

 

 蒲田は古い地名で、かつては蒲田郷と呼ばれていた。927年の延喜式神名帳に荏原郡の社として蒲田の薭田神社が上げられている。中世には、武蔵江戸氏の支流一族である江戸蒲田氏が蒲田郷を領地とした。後北条氏が作成した小田原衆所領役帳にも蒲田氏の一族が蒲田周辺を所領としていたことが記されている。


 新編武蔵風土記稿によると、かつて蒲田は梅の木村と呼ばれ、梅の名所であった。江戸時代には歌川広重が蒲田の梅を描いており、蒲田梅屋敷と呼ばれた。現在でも蒲田の属する大田区の「区の花」は梅である。


 1945年4月15日の空襲(城南空襲)により蒲田駅周辺は太平洋戦争末期に焦土となった。

 勇たちは蒲田駅東口にいた。バラック建て駅舎には、まだらになったスレート葺きの屋根。

「『砂の器』に蒲田って出てくるよな?」と、大木。

「松本清張はいいよな」

 勇は昭和35年5月から読売新聞夕刊で連載された『砂の器』を熱心に読んでいた。

 勇たちは蒲田操車場にやって来た。『砂の器』ではここで死体が見つかり、物語がはじまる。

 聖なるキュウリを見つけた!🥒

 勇の顔が青ざめた。 

「GSの奴、何たる強運の持ち主」

「さぁさ、本庁に戻るぞ」


 大木は元カーレーサー。今は怪物討伐隊に加わり正義のヒーローと仲間も家族も思っていたが、それは表の顔。本業は依頼を受けて目的の車を非合法に入手する、つまり窃盗によって取りそろえる窃盗団のボス。ただし、盗難保険に入ってるクルマしか狙わないというポリシーをもっている。


 9月29日、ドイツのディーラーから大量の高価で希少な車の手配を頼まれる。対象のクルマにそれぞれ虫の名前を付けて、鮮やかな手口でその依頼を着々とこなしていくが、アストンマーティンDBSにだけは何故か手こずっていた。DBSは1967年より販売開始された。1950年代の雰囲気を色濃く残していた先代DB6とは異なり、DBSのデザインはウィリアム・タウンズによって手掛けられたモダンなデザインとなっている。ボディサイズを拡大したことで室内空間が拡張されたが、前面投影面積が増えたことで空力的には不利になった。

 シャーシはハロルド・ビーチがDBS用に新開発したシャーシを採用した。サスペンションはフロントにはダブルウィッシュボーン、リアにはド・ディオンアクスル(トレーリングアーム/ワッツリンク)を採用。

 エンジンは開発中の5.3リットル水冷V8SOHCエンジン(330PS/40.1kgm)をFRレイアウトで搭載する予定だったが、開発が予想以上に遅れていたため、急遽DB6用の4.0リットル水冷直6エンジン(286PS/39.8kgm)を搭載した。しかし重量がDB6より重いため性能は低下している。のちに開発中だったV8もラインナップに加わった。

 大木は『ヒグラシ』と名づけた。


 そんなある時、ルールをめぐって諍いのあった仲間の密告に遭い、警察に待ち伏せされて追われる羽目になる。大木は『ヒグラシ』を駆って新宿を舞台に一大カーチェイスを展開する。


 新宿で発生した警察のカーチェイスを知った地元ラジオ局は放送内容を変更し、目撃者や被害者の情報を集めて逐次実況する。警察に追われ『ヒグラシ』のハンドルを握る大木の後には警察車両と一般車を巻き込む事故が次々と発生、警察の追跡を振りきって損傷激しい『ヒグラシ』と共に逃走した先の洗車場にて同型車を発見、従業員を騙って利用客が所有する洗浄を済ませたばかりの無傷の『ヒグラシ』に乗り込んだ大木は高速道路に向かう。

 

 一方の勇は新宿駅前にやって来た。焼け野原にはたくさんの花が備えられていた。ポピーやパンジーが雨に打たれている。

 シルクハットの男が勇に剣を渡した。

「よくやったな」

 シルクハットの男は7つの野菜を得て、不死身になった。

 

 

 


 

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