第3話 1938年7月

 1930年代、水面下で再軍備を模索していたヴァイマル共和国軍では、高価格と機構の信頼性について問題を抱えていた当時の制式拳銃、ルガーP08の更新計画が持ち上がった。1929年に警察向け拳銃PPを発表したばかりであったワルサー社は、この動きを受けて軍部向け新型拳銃の開発に乗り出し、まず1934年に、PPを9mmパラベラム弾仕様に大型化したMP (Millitärische-Pistole) を試作した。しかし、MPの固定バレルとシンプルブローバック方式は使用される9mm弾に対して脆弱であったことから、ワルサー社は改めて1935年にショートリコイルを採用したAP (Armee-Pistole) を開発し、軍に提案した。このAPは既に後のP38に近い外観を有していたが、撃鉄が内装式でコッキングされているかどうか直感的に分かりづらい点を軍当局は好まなかった為、製造は少数にとどまった。それらの試作品の中には75mmの短銃身仕様も存在した。


 APに対する評価を踏まえ、ワルサー社は1937年に撃鉄を外装式に変更したHP (Heeres-Pistole) を完成させた。陸軍兵器局で提出品の試験が続けられる間、ワルサーHPは民間市場向けに販売が開始され、第二次世界大戦勃発まではアメリカにも輸出された。スウェーデン軍は1939年と1940年に計1,500挺のHPを購入し、m/39として制式化した。民間向けとして、通常の9mmパラベラム弾仕様以外に、少数の7.65x21mmパラベラム弾や.38スーパー弾、.45ACP弾仕様も製造された。


 1938年、HPはドイツ国防軍によって制式採用され、P38の名称が与えられた。翌1939年春から生産が開始され、ドイツ国防軍で実用試験に供された。HPとP38のエキストラクターは当初は内蔵式であったが、軍の改善要求を受け、排莢が左側へスムーズに行われるよう露出した構造に変更された。更に軍用であるP38については、清掃の容易化の為にグリップのすべり止めがチェッカリングから畝状に並ぶ溝に改められた。


 1940年4月にドイツ国防軍での試験が完了し、軍は410,600挺を発注した。銃の左側に入れられたワルサー社のロゴは、1940年秋に機密保持のためコード番号「480」の刻印に置換えられた。この刻印は企業名をアルファベットの秘匿コードに置き換える新方針の導入に伴い、程なくしてワルサー社を示すacと製造年の数字下二桁の組み合わせに変更された。ワルサー社では1945年までに約584,500挺が生産され、民生用であるHPの刻印を持つ製品は1944年半ばまで製造された。


 ドイツ国防軍は月産10,000挺以上の製造を望んでいたが、ワルサー社の生産能力ではその目標をかろうじて満たす事しかできなかったため、軍は1940年6月にモーゼル社に対し、ルガーP08の生産を終了してP38の生産を開始するよう要求した。しかし、同社によるP38の生産開始は1942年11月まで遅れ、それまではP08の量産が継続された。モーゼル社製P38には秘匿コードbyf、1945年からはSVWが打刻され、約323,000挺が生産された。


 1941年9月からはシュプレーヴェルク社もP38の製造に加わり、翌年夏より本格的な量産が開始された。同社の秘匿コードはcyqで、1945年4月に工場がソ連軍に占拠されるまでに約283,300挺が生産された。


 この他、1942年にベーメン・メーレン保護領のベーミッシェ・ヴァフェンファブリーク 社にて100挺が組立てられたという軍需省の記録が残されている。


 大戦末期、プレス鋼板と電気溶接による試作品も作られたが、1丁のみを生産しただけあった。


 1945年の終戦時、独ソ戦の舞台となった東ヨーロッパ各国にはドイツ軍からの鹵獲・接収品としてのP38が大量に存在していた。一方、ドイツ本国に進駐したアメリカ軍なども、国内に備蓄されていたP38を一定数入手している。これにより、戦後は東西各国の軍・警察にてP38が採用され、一部では1990年代まで使用された。


 モーゼル社は1945年4月20日にP38の製造を終了したが、5月10日には現地に進駐したフランス軍の命令により製造が再開されている。これは事前に連合国間で交わされたドイツ国内での武器製造を禁じる合意への明確な違反であった。モーゼル社の製造コードもSVW45として維持され、1946年にはSVW46となった。フランス向けP38の大部分は第一次インドシナ戦争只中の仏領インドシナへと送られた。皮肉なことに、これを受け取ったフランス外人部隊の中には敗戦後に志願した元ドイツ軍人も少なからず含まれていたという。フランス向けP38はパーカー処理のために明るい灰色に見えるものが多く、後年コレクターからは「グレイゴースト」と通称された。


 シュプレーヴェルク社が所在したチェコスロヴァキアも、残っていた部品を用いて1946年に約3,000挺を組立て、CZ46と命名した。


 西ドイツの再軍備に伴い、創設されたドイツ連邦軍もまた制式拳銃としてP38を欲し、1957年5月、ウルムに移転していたワルサー社でP38の生産が再開された。その後いくつかの仕様変更を施されたP38は、1963年にワルサーP1に改称された。


 そのほか、イタリアの極左テロ組織赤い旅団のメンバーも、P38を凶器として愛用したと伝えられている。


 1974年10月から1981年まで、銃身長を70mmまで短縮し(パイプ部分がほとんどない)、セーフティーレバーを単純にデコッキング機能だけとしたP38Kが2,600挺生産された。


 勇は腕にした時計を見た。⌚

 74年の4月に登場したシチズン時計の『クオーツ リキッドクリスタル』だ。コイツに呪文をかければ、元の時代の1年前に戻れる。コイツを失くしたら大変なことになる。

 どこからともなく、「あっはっは!」という笑い声が聞こえた。その笑い声の主は名探偵・金田一耕助だ。

 アドバルンが上がっている。まさか、怪人が近くにいるわけじゃないよな?

 この時代、勇はまだ3歳だった。

 勇の母はアルバイトサロンで働きながら、勇を育てた。昭和20年代後半から素人の女性を採用し、接客させるのだ。

 いざり車が傍らに止まっている。病気などで歩行が困難な者が移動のために利用する車輪付きの台だ。傷痍軍人が勇の横を通り過ぎる。

 金田一は前年、『本陣殺人事件』を解決したばかりだった。


 1937年(昭和12年)11月25日、岡山県の旧本陣の末裔・一柳家の屋敷では、長男・賢蔵と小作農の出である久保克子の結婚式が執り行われていた。式と披露宴は、賢蔵の妹・鈴子が琴を披露するなどして何事もなく午前2時前にお開きとなった。


 その2時間ほどのち、明け方に近くなった頃、新郎新婦の寝屋である離れ家から悲鳴と琴をかき鳴らす音が聞こえてきた。父代わりに克子を育てた叔父の久保銀造らが雨戸を壊して中に入ると、賢蔵と克子が布団の上で血まみれになって死んでいた。しかし離れ家内には死んだ夫婦以外に誰もおらず、庭の中央には血に染まった凶器の日本刀が突き立っているほかには、披露宴終了直後に降り出して積もった雪の上にも犯人の逃げた跡がなかった。銀造は名探偵と見込んで自らが出資している金田一耕助が偶然家に遊びに来ていたので、彼を呼ぶ。


 警察による捜査の結果、結婚式の直前に顔を隠し手袋をした3本指の男が一柳家を訪れ、賢蔵に「君のいわゆる生涯の仇敵」と署名した復讐遂行を示唆する手紙を託したこと、および「生涯の仇敵」と書かれた男の写真が賢蔵のアルバムにあったことが判明し、さらに日本刀についていた指紋と2日前に3本指の男が駅前で水を飲んだコップとの指紋が一致したため、3本指の男がその「生涯の仇敵」であり、犯人であると目される。しかし、夢遊病が疑われる鈴子が式の前夜に死んだ愛猫の墓に参っていたときに出くわしたと証言した以外、その足取りがつかめなかった。


 やってきた金田一は、一柳家の三男・三郎の本棚いっぱいの探偵小説の存在に非常な興味を示し、三郎と探偵小説における密室殺人の論議を交わす。その夜、同刻に再び琴の音が響き、同じ離れ家で重傷を負った三郎が発見される。やはり庭に凶器の日本刀が突き立っていた。三郎は金田一との探偵小説論議がきっかけで密室殺人の秘密を暴くべく離れ家に来たところ、不審な男に斬りつけられたと証言する。


 そんな時克子の友人が訪れ、克子とかつて交際のあったある不良青年が犯人に違いないと主張する。その男と「生涯の仇敵」の写真の男が別人なので警察は混乱するが、金田一は、克子が処女でないことを賢蔵に打ち明けていたということを知って事件の大筋に見当をつけ、鈴子の愛猫の墓から手首から切り落とされた3本指の手を発見。さらに家の近くの炭焼き窯から3本指の男の死体を発見する。


 金田一は一同を事件現場に集め、事件のトリックを再現してみせた。水車に結びつけてあった糸に引かれて、凶器の刀は雨戸上部の欄間より外に出、幹に刺さった鎌で糸を切られ、地面に刺さるという仕掛けなのであった。事件のたびに琴が鳴らされたのは、琴糸をその通過経路上にある叢竹が弾いて音を鳴らしてしまうことをカムフラージュするためであった。賢蔵は、克子が処女でないことを知って婚約を破棄したかったが、小作農の娘がゆえの周囲の猛反対を押し切っての結婚だったので、「それ見たことか」と笑われるようなこともプライドが許さないことから、自分に苦悩をもたらした克子を殺し、自らも死ぬ計画を立てたのであった。しかし、自殺したというのもまた自己の敗北を認めることになるため、自分も殺されたと装えるトリックを考えたのであった。さらにトリックの実験現場を見られたため三郎を共犯に引き入れ、探偵小説好きの知恵を借り、殺人に見せかける細工を付加した。賢蔵の死亡保険の受取人になっていた三郎は、自殺では保険金が受け取れないこともあって協力した(ただし克子を殺すことは知らなかったと主張)。3本指の男は単なる通りがかりに衰弱死したところを賢蔵に偶然見つけられ、犯行の予行実験に使われたり、切られた手首をスタンプとして使われたり、持っていた運転免許証の写真を「生涯の仇敵」として仕立てあげられたりしていたのであった。賢蔵の誤算は、殺人に見せるために雨戸は開けておくつもりで犯人と思わせる足跡も庭につけていたのだが、雪が積もってしまいそれが無駄になってしまったことであった。金田一は、雨戸を開けなかったのは賢蔵の最後の自棄であったと推測する。鈴子が事件のあった次の夜に出会った相手は3本指を掘り出していた三郎で、夢遊病を起こしてふらふらやって来た彼女を3本指で驚かせたものであった。三郎の負傷事件は自演で、探偵小説論議における金田一の「密室殺人も機械的トリックは感心しない」という言葉への挑戦で行ったものであった。

 勇は金田一の話を聞き終えた。

 

 7月3日 - ドイツで「KdF-Wagen」(のちのフォルクスワーゲン・タイプ1・通称ビートル)発表。

 

 山梨県の山奥にある龍神市で、列車が雪崩で動けなくなっており、駅の待合所では、出発は明日になる旨が乗客に告げられる。乗客には勇と金田一、新垣麻美あらがきまみ弁護士と愛人の池上龍臣いけがみたつおみ、家庭教師の湯原悟志ゆはらさとしなどがいて、仕方なく駅の近くの狭いホテルに泊まることになる。勇と金田一は、ホテルで客室が足りないためにメイド部屋もあてがわれ、レストランでは食べるものが足りず、情報も入ってこないので不満ばかり。同じホテルには、結婚前の最後の旅行で、友人2人と楽しんでいる、八木佳織やぎかおりという関西の女性がいるが、友人から結婚を心配されている。湯原がホテルの部屋でのんびりしてると、上階から三味線の音が聞こえ、また下の階で寝ようとしていた佳織は煩くて眠れない為に、支配人に頼んで静かにするように頼む。しかし上の階の中条結菜なかじょうゆなは、三味線の練習は大事な作業だと譲らなかった為、支配人に部屋を追い出され、何と佳織の部屋に転がり込んでくる。この時に結菜は何者かに射殺される。   後々、この三味線の調べが何かの暗号を送っていたことが分かる。


 翌日、列車は運行され、みんな乗り始めるのだが、勇は出発時に、湯原を狙ったと思われる落ちて来た植木鉢に頭に当たり、列車に乗ってからも朦朧となる。列車で同室となった湯原と食堂車に行って、御茶を飲んで過ごし、客車に戻って、一眠りした勇が起きた時には、湯原は消えていた。同室の金田一が、湯原など知らないと言った為に、心配になった勇は探し回るのだが、他の乗客も乗務員も初めからそんな老人は見なかったと口を揃える。さらに、同乗していた高名な医師の小野田清史郎おのだせいしろうは、湯原は実在せず、勇が頭を打った後遺症で記憶障害を起こしているのだと断定する。湯原の実在を信じる勇は金田一と共に列車内で湯原を探し始める。御忍びの不倫旅行中の新垣弁護士は、勇とは関わりたくない雰囲気で嘘を吐き、池上と佳織はババ抜きに勤しんでいた。


 列車は次の駅である桂馬で停まり、全身包帯の病人が運び込まれるのを、小野田医師から聞いた、勇と金田一は、湯原が下ろされるのではないかと見張るのだが何も起きない。本当に幻覚だったのではと考え直し、金田一と食堂にいった勇は、しかしそこで湯原が窓に書いたへのへのもへじを見て確信し、列車を急停車させるが、勇も意識を失い、倒れてしまう。動き出した列車で捜索する勇と金田一は、魔術師・立川征樹たちかわまさきが、人を消す手品を行うことを知り、道具箱から湯原の眼鏡を発見、湯原の存在を確信する。立川が現れ、明智と金田一はステゴロで戦うが、立川には手品の箱で逃げられてしまう。2人は、全身を包帯で巻かれた患者を診ているナースがハイヒールなのを不信に思い、小野田医師に相談する為に一緒に食堂へ行くのだが、そこで2人の酒に毒を混ぜた後、湯原は陰謀に巻き込まれたことを小野田医師は明かす。医師は中国のスパイであり、給仕と魔術師立川の一座や乗客などを買収して、湯原を拉致しようとしているのを告げるのであった。しかし実はナースは罪悪感から給仕に毒を渡しておらず、重病患者として拘束されていた湯原を勇と金田一は助け出して、身代わりの女性を包帯で包む。駅で患者と下りた小野田医師は、身代わりに気付き、甲府へ走る列車は切り離され、本線から外れて山の中へ向かう支線に入る。列車が止まった所で、金田一は、乗客に事実を話し、半信半疑だった池上と佳織も銃撃されて、事の重大さを知り、中国の軍隊と激しい銃撃戦となる。新垣弁護士などが降参するふりをしたら、銃殺されるのを見て、湯原は自分が中国の諜報員であることを告白、謎の暗号としてのメロディを金田一に教えて、列車を下りて走るのだが、撃たれたようにも見える。犠牲者を出しながらも、金田一は車掌を脅して、列車を逆に走らせることに成功し、勇と共に甲府に到着。


 犠牲者:新垣麻美・池上龍臣


 甲府城へ急ぐ勇だが、メロディを忘れてしまう。しかし、湯原は生きていて、再会。勇は結婚する予定だったフィアンセを振って、列車で冒険をした佳織に惹かれ、2人は結ばれる。


 三味線にあっては、調弦は複数のパターンがあり、曲によって、また曲の途中でも調弦を変化させる。基本の調弦は次の通りである。調弦法が多種あるのは、異なる調に対応するためと、響きによる雰囲気の違いのためである(詳しくは「地歌」を参照)。現在では三味線の調弦に対応したチューニング・メーターも販売されている。


 ◎本調子

 一の糸に対し、二の糸を完全4度高く、三の糸をオクターブ高く合わせる。一の糸がCならば二の糸はF、三の糸は高いCとなる。

 ◎二上りにあがり

 一の糸に対し、二の糸を完全5度高く、三の糸をオクターブ高く合わせる。本調子の二の糸を上げるとこの調子になる事から。沖縄県では「二上げ」とも言う。C-G-Cとなる。

 ◎三下りさんさがり

 一の糸に対し、二の糸を完全4度高く、三の糸を短7度高く合わせる。本調子の三の糸を下げるとこの調子になる事から。沖縄県では「三下げ」とも言う。C-F-B♭となる。

 

 中条結菜は二上りにあがりの手法を使っていた。甲府城は大量の武器が眠っているのだが、中に入るには暗証番号を入力する必要があった。

 C‐G-Cと入力すればよい。


 成立は15世紀から16世紀にかけてとされ、戦国時代に琉球(現在の沖縄県)から伝来したもの。他の多くの和楽器と比べ「新しい楽器」である。基本的にはヘラ状の撥を用いるが、三味線音楽の種目により細部に差異がある。近世邦楽の世界、特に地歌・箏曲の世界(三曲)等では「三弦さんげん」、または「三絃」と呼称し、表記する事も多い。雅語として「みつのお(三つの緒)」と呼ばれることもある。沖縄県や鹿児島県奄美群島では三線(さんしん)とも呼ぶ。


 楽器本体は「天神」(糸倉)、「棹」(ネック)、「胴」(ボディ)から成る。さらに棹は上棹、中棹、下棹の3つに分割出来るものが多く、このような棹を「三つ折れ」という。これは主に収納や持ち運びの便のため、また棹に狂いが生じにくくするためである。分割されていないものもあり、「延棹のべさお」と称される。逆に5つ以上に分割できるものもある。


 素材には高級品ではコウキ材(インド産)を用いるが、シタン、カリン材(タイ・ミャンマー・ラオスなどの東南アジア産)の棹もある。以前はカシ、クワ製も多かった。最近一部ではスネークウッドを使うこともある。特殊なものとしてビャクダンやタガヤサンを使うこともある。固く緻密で比重の高い木が良いとされる。胴は全て花林製だが昔は桑、ケヤキのものもあった。上級品では、内側の面にのみで細かな模様を一面に彫り込む。これを「綾杉」といい、響きを良くすると言われている。


 革は一般に琉球三線のニシキヘビの皮と異なり、猫の腹を使用していたが、高価な事と生産量の減少により、現在は稽古用など全体の7割程度が犬の皮を使用している。 また津軽三味線は例外を除き犬革を使用する。雌猫は交尾の際、雄猫に皮を引っ掛かれてしまうため雌猫の皮を用いる場合は交尾未経験の個体を選ぶ事が望ましいと言われることもある。実際には交尾前の若猫の皮は薄い為、傷の治ったある程度の厚みの有る皮を使用することが多い。合成製品を使用する場合もあるが、音質が劣るため好まれない。三味線が良い音を出すためには、胴の大きさの範囲内で厚みのある皮を使うことが必須となる。このため牛革では大きすぎる。小動物で入手が容易な理由で、琉球時代の三線から改変を経て猫や犬が使用され、試行錯誤の末に江戸時代に現在の形が完成された。現在は、猫や犬の皮はほとんどが輸入品である。また、皮以外の棹の材料の紅木をはじめ胴と棹の材料である花林、糸巻きに使用される象牙や黒檀、撥に使うべっ甲なども同様である。


 現代では、胴に合成紙を張るなどした簡易版の三味線も製作されている。入門用や、動物愛護を重視する欧米観光客の日本土産として購入されている。


 糸(弦)は三本で、絹製。津軽三味線に関しては、ナイロンやテトロン製の糸を用いる事もある。太い方から順に「一の糸」「二の糸」「三の糸」と呼ぶ。それぞれ様々な太さがあり、三味線音楽の種目ごとに使用するサイズが異なる。

 

 通常、一の糸の巻き取り部の近くに「さわり」と呼ばれるシタールの「ジュワリ」と同種のしくみがある。これは一の糸の開放弦をわずかに棹に接触させることによって「ビーン」という音を出させるもので、倍音成分を増やして音色に味を付け、響きを延ばす効果がある。これによって発する音は一種のノイズであるが、三味線の音には欠かせないものである。「さわり」の機構を持つ楽器は琵琶など他にもあるが、三味線の特徴は一の糸のみに「さわり」がついているにもかかわらず、二の糸や三の糸の特定の押さえる場所にも(調弦法により変化する)、共鳴によって同様の効果をもつ音があることである。これにより響きが豊かになるとともに、調弦の種類により共鳴する音が変わるので、その調弦法独特の雰囲気をかもし出す要因ともなっている。「東さわり」と呼ばれる棹に埋め込んだ、螺旋式のさわりもある。

 

 甲府城は天正11年(1583年)、一条小山に徳川家康の命で築城された。

 甲府盆地北部、現在の甲府市中心街の一条小山に築城された中世から近世にかけての平山城である。

 甲斐国では戦国期から甲府が政治的中心地となり、躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が造成されたが、武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配し、甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備された。豊臣政権では徳川家康を牽制する要所、江戸時代では将軍家に最も近い親藩(甲府藩)の城となった。天守台はあるが天守が建てられていたかは不明である。江戸時代には初期の幕府直轄領時代から甲府藩時代、享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を通じて統治の拠点となる。


 明治時代、1873年の廃城処分となった以降にも甲府は政治的・経済的中心地として機能し、甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ、内堀が埋め立てられて官業施設化される。さらに中央線(JR東日本中央本線)の開通と甲府駅(甲府城清水曲輪跡にあたる)の開業により城跡は分断されたが、戦後には城跡の発掘調査や史跡の整備が進み、現在は、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残り、武田氏居館とともに甲府駅周辺の観光地となっている。

 また、出土遺物のうち鯱瓦(甲府城跡出土金箔鯱瓦)と飾瓦(甲府城跡出土飾瓦)は県指定文化財。

 甲府城が築城された一条小山は甲斐国山梨郡板垣郷にあたり、平安時代後期には甲斐源氏の一族である甲斐一条氏が領し、一条忠頼の居館があったという。忠頼の死後、館は夫人がその菩提を弔うために開いた尼寺となり、鎌倉時代には時宗道場の一蓮寺となる。


 戦国時代には守護武田氏・武田信虎期に甲府が開創され、躑躅ヶ崎館(武田氏居館、甲府市古府中町)を中心とする武田城下町が整備される。一条小山は武田城下町の南端に位置している。武田氏は信虎・晴信(信玄)期に戦国大名化し、信濃・駿河・西上野へと領国拡大を行い、甲府・躑躅ヶ崎館は勝頼期至るまで領国経営の中心であった。勝頼期には盆地西部の穴山郷に新府城(韮崎市中田町中條)が築城され府中の移転が試みられたが、天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍の侵攻による武田氏の滅亡で途上に終わった。


 武田氏滅亡後の甲斐仕置において、甲斐一国と信濃諏訪郡は織田家臣の河尻秀隆が領し、秀隆は岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠とした。同年6月に本能寺の変により秀隆は一揆勢に殺害され、無主状態となった甲斐・武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。天正壬午の乱において甲斐は三河国の徳川家康と相模国の後北条氏が争い、家康は甲府城下の尊躰寺・一条信龍屋敷に布陣して、やがて新府城へ移り北条氏と対峙した。同年には徳川・北条同盟が成立し、武田遺領のうち甲斐・駿河は徳川家康が領し、家康は五カ国を領し東国において台頭する。


 家康は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを経て豊臣政権に臣従し、天正壬午の乱後に残された上野国の沼田領問題において豊臣政権と後北条氏との関係が緊張すると、後北条氏の領国と接する甲斐においても政治情勢が緊迫化する。なお、天正壬午の乱においては後北条氏は郡内領を制圧し、秩父往還沿いの浄居寺城(中牧城、山梨市牧丘町浄居寺)を本拠とする大村党が北条方に帰属する事態が発生した。家康は天正17年にはこの浄居寺城の大修築を命じている。


 天正18年(1590年)の小田原合戦により後北条氏は滅亡し、家康は旧後北条領国の関東へ移封される。甲斐は豊臣大名に与えられ、豊臣大名時代には甲府城の築城が本格化している。


 家康は甲府・躑躅ヶ崎館を甲斐における支配的拠点としていたが、1583年(天正11年)には家臣の平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、甲府城の築城を企図したと言われる。


 甲府城の築城主を徳川家康とする説は古くからあり、江戸後期に編纂された『甲斐国志』では築城主を家康・年代を天正13年(1585年)としている。昭和戦後期には1969年(昭和44年)に『甲府城総合調査報告書』が築城主を家康・年代を天正11年としている。


 築城主を家康・年代を天正10年・13年とする説の根拠となる史料には年未詳徳川家奉行人連署状写、享保年間の『甲斐国歴代譜』、「愛宕山宝蔵院」『甲斐国志』仏寺部があるが、いずれも家康による築城を確定する史料でなく、この時期に甲斐国内において大規模な動員がかけられた形跡もないことが指摘される。


 天正11年築城説の根拠となる年未詳正月27日付平岩親吉宛書状において、家康は家臣の平岩に対して一条小山における築城の準備を命じており、「石垣積」の技術を持つ職人衆の派遣を行っている。石垣積は「穴太積」とも呼ばれる西国系の技術で、織田信長が天正4年(1576年)の安土城築城において本格的に使用し、豊臣秀吉に引き継がれたという。戦国期の甲斐や武田領国、家康の領した東国五カ国には存在せず、甲府城において初めて用いられている。現在の甲府城の石垣遺構は技術的な中断の形跡が無く同一の技術水準によるものであることが指摘され、豊臣大名時代の築造と考えられている。


 これらの石垣積の導入時期や甲斐・家康を巡る政治情勢から、平山優は甲府城築城に関わる年未詳家康文書の年代比定は天正11年ではなく、小田原合戦・家康の関東転封をひかえた天正17年頃である可能性が指摘を指摘し、家康は甲府城の築城を企図していたが実現されず、甲府城の築城は豊臣大名時代になされたと評価している。


 甲府城の築城は豊臣大名時代に本格化している。羽柴秀勝は天正18年7月に甲斐を拝領するが、翌天正19年2月には美濃へ転封されているため在国期間が短く、秀勝時代の甲府城築城に関する史料は天正18年8月3日付羽柴秀勝黒印状写のみが知られている。


 秀勝の次に甲斐を拝領した加藤光泰時代には天正19年10月19日付加藤光泰黒印状や年未詳正月14日付加藤光泰書状などの史料が見られ、杣工に動員をかけ甲府城築城を行っており、城内の殿舎の建設も開始されている。光泰時代に甲府城の築城は本丸・天守曲輪・稲荷曲輪・館曲輪など中心部分が竣工されていたと考えられている。


 次代の浅野長政・幸長時代にも築城は継続されているが、このころには秀吉の朝鮮出兵が行われ、甲府城の築城は困難にさしかかっており、甲斐では農民の逃散も発生している。光泰・浅野氏時代には一条小山の一蓮寺をはじめ、寺社の移転も行われている。


 江戸時代には甲府藩が設置される。宝永元年(1704年)には甲府藩主・徳川綱豊(家宣)が将軍・綱吉の後継者になると、綱吉の側用人であった柳沢吉保は甲斐・駿河領国に15万1200石余りの所領と甲府城を与えられる。翌年4月には駿河国の知行地が替えられ甲斐国国中三郡を支配した。吉保は大老格の立場であったため甲斐を訪れることはなかったが、家老の薮田重守に対して甲府城と城下町の整備のほか、甲斐国内の検地や用水路の整備、甲州金の一種である新甲金の鋳造などを指示している。甲府城の整備では新たに花畑曲輪を設置し、楽屋曲輪や屋形曲輪には御殿を建設した。こうした柳沢氏時代の甲府城下の繁栄を『兜嵓雑記(かいざっき)』では「棟に棟、門に門を並べ、作り並べし有様は、是ぞ甲府の花盛り」と記している。

 

 江戸時代・近代

 1603年(慶長8年) 徳川義直(家康の九男)が城主となる。

 1607年(慶長12年) 義直が清洲へ転封。甲府城番が敷かれる。

 1616年(元和2年) 徳川忠長(秀忠の二男、駿府城主)の支城となる。

 1632年(寛永9年) 忠長死去。城番制がしかれる。

 1661年(寛文元年) 徳川綱重(家光の三男)が城主となる。

 1678年(延宝6年) 徳川綱豊(綱重嫡男)が城主となる。

 1704年(宝永元年) 綱豊が将軍世嗣として江戸城に入り、徳川家宣と改名。

 1705年(宝永2年) 柳沢吉保が城主となる。初めて親藩以外の領地となる。

 1724年(享保9年) 柳沢吉里(吉保嫡男)が大和郡山へ転封。甲斐一国が幕府領となる。甲府勤番の設置。

 1727年(享保12年) 甲府城大火。

 1734年(享保19年) 城内に盗賊が侵入し1400両の公金が盗難される甲府城御金蔵事件が発生する。犯人は不明で、当日に博打をしていた甲府勤番士の怠慢が指摘され17名が処罰される。1742年(寛保2年)には 高畑村の百姓次郎兵衛が捕縛され、事件は解決した。この事件は人々の間で関心を呼び、作者成立年代は不明で出版もなされていないが、フィクションを交えた勧善懲悪の物語として構成された実録小説『甲金録』となった。

 1866年(慶応2年) 勤番制を廃止し、城代を設置。

 1868年(明治元年) 明治維新。板垣退助らが無血入城。

 1873年(明治6年) 廃城。


 明治初期には県令・藤村紫朗のもと甲府城郭内の建物の多くが撤去され、1876年(明治9年)には鍛冶曲輪に勧業試験場が設置された。1880年(明治13年)3月には明治天皇の山梨県巡幸が実施され、明治天皇は甲州街道を進み6月17日に山梨県入りすると、6月19日には甲府へ到着した。明治天皇は6月20日に甲府城跡に存在した勧業製糸場を視察すると、天守台を臨幸している。1938年(昭和13年)3月には明治天皇の天守台臨幸を記念し、天守台跡に「明治天皇御登臨之址」が建設された。

 

 7月5日- 阪神大水害

 藤原真理子ふじわらまりこは明智勇に恨みを持っていた。彼は八木佳織とよろしくやっている。

 最近、真理子はあることで悩んでいた。

 膝小僧に人面瘡が出来たのだ。

 その顔は昔の男に似ていた。勇の前につきあっていた前田隆まえだたかしに似ていた。

 1935年10月26日、甲府の山林で小間物行商人(当時26歳)が殺害され、現金50円と為替手形といった金品が奪われた。その被害者こそ前田だ。真理子は金に困っていた。

 

 7月11日 - 張鼓峰事件勃発( - 8月10日)

 怪しい老人の後をつけて奇妙な洋館に忍び込んだ少年探偵団員の相川泰二あいかわやすじ。探索していた泰二の目に飛び込んできたのは、ぐるぐる巻きに捕えられた美少女だった。少女を助けようとする泰二だが、老人に見つかってしまう。奇怪な老人の蛭田ひるた博士は何か説明の出来ないような力を持っている様子で、屋敷にも不思議な仕掛けがあった。


 7月13日 - ソ連より亡命したリュシコフが東京山王ホテルで記者会見。

 勇は銀座にある喫茶店で相川って少年から蛭田博士について聞かされていた。

「屋敷には不思議な生き物がたくさんがいた。羽根がない蝿、片目の犬」

「気味が悪いな」

 日が暮れたので外に出るとゴブリンが襲いかかって来た。棍棒を振り回してるが、当てるフリをするだけだ。勇たちは全速力で逃げた。

 もしかしたら、タイムスリップしたことによって磁場が狂ったのかも知れない。


 7月15日 - 1940年東京オリンピック開催権を返上。1940年東京オリンピックは、1940年(昭和15年)9月21日から10月6日まで、日本の東京府東京市(現・東京23区)で開催されることが予定されていた夏季オリンピックである。史上初めて欧米以外の、アジアで行われる五輪大会、そして紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたものの、日中戦争(支那事変)の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。


 勇は佳織と熱海に新婚旅行に出かけた。

 古くからの湯治の地であり、元々の地名表記は「阿多美」(阿多美郷)であったが、海から熱い湯が湧き出ていたことや「あつうみが崎」とも呼ばれていたことなどから、江戸時代までには「熱海」表記が定着した。

 

 熱海温泉の開湯伝説としては、奈良時代(749年)に箱根の万巻上人が、漁民を困らせていた海中にあった泉脈を山里(大湯間歇泉)へ移し、そこに湯前神社(湯前権現)を作ったという由来が伝わっている。『伊豆風土記』の記述(713年)にも、大湯間歇泉を表現していると見られる箇所がある。どちらも、湯前神社に祀られている神であるスクナビコナ神(少彦名神・少名毘古那神)に言及している。


 また北部の伊豆山地区の伊豆山温泉(走り湯)は、699年(文武3年)に役小角(役行者)によって発見されたとする開湯伝説が伝わっており、さらに北端の泉地区が関わっている湯河原温泉は、万葉集の歌にも詠まれるなど、総じてこの地域の温泉の起源は、古代に遡るほど古い。


 またこの地域は、古くからの山岳霊場である十国峠(日金山)の影響下にある地域でもあり、伊豆山神社(伊豆山権現)も元々は、応神天皇・仁徳天皇の時代に松葉仙人が日金山に「伊豆山の浜辺に現れた神鏡」を祀る祠(現・日金山東光寺)を創ったのが起源とされ、数度の東遷を経て836年(承和3年)に現在地に落ち着いたと社伝で伝えている。そして源頼朝以来、伊豆山神社(伊豆山権現)が箱根神社(箱根権現)と共に「二所権現」に指定され、「二所詣」が行われるようになると、日金山は両社を結ぶ要所の霊場として発展し、各地からの参拝道も整備された。


 こうして戦国時代以前までは、源頼朝や鎌倉幕府3代将軍源実朝をはじめとする東国武士に崇敬された伊豆山神社(走湯神社, 伊豆山権現)の麓にある伊豆山温泉(走り湯)の方が有名であったが、伊豆山・箱根両権現の別当寺(神宮寺)所属の僧兵たちが小田原の北条氏側に加勢したことで、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の過程で一帯が焼き討ちに遭うなど多大な被害を被ることになった(江戸時代に再建)。


 他方の熱海温泉は、1593年(文禄2年)9月に関白・豊臣秀次が40日余り湯治に訪れ、さらに1602年(慶長7年)と1604年(慶長9年)3月に徳川家康が湯治に訪れ、その後、江戸幕府3代将軍徳川家光が現在熱海市役所がある場所に湯治用の御殿ごてんを造らせたり、4代徳川家綱以降は熱海の湯を江戸城まで運ばせる御汲湯おくみゆが行われるなど、「将軍御用達の湯」として徳川家に愛用されるようになったため、江戸時代には「温泉番付」で行司役の一角を占めるほどに全国的な知名度と特権的格付けを獲得した。


 江戸時代の熱海温泉は、「大湯」の周辺(現・熱海ニューフジヤホテル別館(アネックス)周辺)に27戸程度の「湯戸」(ゆこ)と呼ばれる引湯権を持った特権的な温泉宿が連なって湯治場が形成されていた。江戸時代の熱海村は幕府直轄地(天領)であり、江戸に滞在している大名・旗本やその親族も、幕府の許可を得て度々湯治に訪れた。

(なお、「御殿」跡は明治維新後に熱海村の公有地となるが、三菱の岩崎弥太郎が1878年(明治11年)に買い取って宮内省へ提供し、1889年(明治22年)から1931年(昭和6年)まで、主に大正天皇の療養を目的とした、当時横浜・神戸に次ぐ3番目の御用邸である「熱海御用邸」が建てられていた。その後熱海町へと払い下げられ、現在当地には市役所が立っている。)

 

 温泉は格別だった。宵闇の街を歩いているとスライムが現れた。ネバネバした粘液状のモンスターだ。勇たちは武器を持っていなかった。

 木刀を持った丸坊主の少年が現れた。少年は果敢にスライムに挑んだ。木刀でスライムを叩きつけた。スライムは少し弱ったが、少年の顔は紫色に変わり苦しんで、やがて死んだ。

「逃げろ!」

 勇は佳織の手を引き、駅へと全力疾走した。


 7月21日 - チャコ戦争終結(ブエノスアイレス講和条約)

 千代田区采女町(架空の地域。采女町は現在の中央区銀座の旧町名。また麹町区と神田区が合同して「千代田区」が出来たのは1947年)の開化アパート2階に勇はやって来た。『明智小五郎探偵事務所』

「ここに親父がいるんだ」

 結局、事務所に入ることなく采女町を後にした。

 北の空が灰色に染まっていた。

 🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳

 雑木林の前に老人の死体が転がっている。フードをかぶった少年がナイフを手にしている。少年は老人の腹を刺して殺したようだ。

 少年は勇を見て、「妖怪を倒すには仕方がない」と意味の分からないことを言った。なるほど、この老人はゾンビか何かだったんだ。

「こっ、こっ、殺さないでくれ!」

 そのとき、林からどす黒い肌をした怪物が現れた。🦹手足には鉤爪が生えてる。身長は子供くらいだ。ブツブツわけのわからないことを呟くと、数が増えた。

 😈「ブツブツブツブツ」 

 今度はねじ曲がった刀が出現した。

 おそらく、オークだ。元々はエルフという美しい妖精だったが、悪魔により姿を変えられると性格も変貌した。

 少年はオークに果敢に立ち向かった。

「ロイパロイパ!」

 呪文を唱えると火の玉が現れた。🔥

 この少年も人間ではないのか?悪いことをして冥界に落ちて、魔法を覚えたのだろうか?

 少年は火の玉をオークに投げつけた。

 戦ってる最中に、勇は逃げ出した。

「ウギャアッ!」

 オークの断末魔が聞こえた。

 

 7月24日 - オーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーがアイガー北壁初登頂に成功

 勇は東京大空襲を思い出し、身震いした。

 勇は父親の顔を知らずに育った。勇の母親は文代という優しい女性だった。彼女の父親は奥村源造という魔術師だ。小五郎はとある事件で文代と知り合い、結婚している。小五郎の助手は小林少年だけでなく、文代も務めていた。文代は病気の為に高地療養を強いられた。療養先で勇を生んだのだ。

 銀座にあるアパートで夕食を取っていた。

 素麺を勇は啜った。

「花火でもしない?」と、佳織。

「君は信じないだろうが、僕は未来から来た」

 勇は東京大空襲について佳織に話した。

 1942年4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲が航空母艦からのB-25爆撃機で行われ、東京も初の空襲を受け、荒川区、王子区、小石川区、牛込区が罹災し、幼児らを含む一般都民が無残な黒焦げの死体となった。死者は39人。


 1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本打倒の空戦計画を提出、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張、焼夷弾(ナパーム弾)の使用に関しても言及。この時、アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない。


 1944年からのマリアナ・パラオ諸島の戦いでマリアナ諸島に進出したアメリカ軍は、6月15日にサイパンの戦いでサイパン島に上陸したわずか6日後、まだ島内で激戦が戦われている最中に、日本軍が造成したアスリート飛行場を占領するや、砲爆撃で開いていた600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て、翌日にはP-47戦闘機部隊を進出させている。その後、飛行場の名称を上陸3日前にサイパンを爆撃任務中に日本軍に撃墜され戦死したロバート・H・イズリー中佐に因んでコンロイ・イズリー飛行場(現在サイパン国際空港)改名、飛行場の長さ・幅を大幅な拡張工事を行い新鋭爆撃機B-29の運用が可能な飛行場とし、10月13日に最初のB-29がイズリー飛行場に着陸した。同様に、グアムでも8月10日にグアムの戦いでアメリカ軍が占領すると、日本軍が造成中であった滑走路を利用してアンダーセン空軍基地など3か所の飛行場が建設され、8月1日に占領したテニアン島にもハゴイ飛行場(現・ノースフィールド飛行場)とウエストフィールド飛行場(現在テニアン国際空港)が建設された。ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、これらの巨大基地の建設によりB-29の攻撃圏内に東京を含む日本本土のほぼ全土が入るようになった。日本ではマリアナ諸島陥落の責任を東条内閣に求め、1944年7月18日に内閣総辞職した。


 1944年10月12日、マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設されて、司令官には第20空軍の参謀長であったヘイウッド・ハンセル准将が任命された。ハンセルはマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島に乗り込んだ。第20爆撃機集団が中国を出撃基地として1944年6月15日より開始した九州北部への爆撃は、八幡製鐵所などの製鉄所を主目標として行われていたが、これまでの爆撃の効果を分析した結果、日本へ勝利するためにはまずは航空機工場を破壊した方がいいのではないかという結論となった。当時の日本の航空機産業は、三菱重工業、中島飛行機、川崎航空機工業の3社で80%のシェアを占めていたが、その航空機工場の大半が、東京、名古屋、大阪などの大都市に集中しており、新たな爆撃目標1,000か所がリストアップされたが、その中では三都市圏の航空機工場が最優先目標とされた。次いで、都市地域市街地が目標としてリストアップされたが、都市地域は、主要目標である航空機工場が雲に妨げられて目視による精密爆撃ができない場合に、雲の上からレーダー爆撃するための目標とされていた。同時に都市圏の爆撃については、精密爆撃だけではなく、焼夷弾による絨毯爆撃も行って、その効果を精密爆撃の効果と比較する任務も課せられた。したがってアメリカ軍はマリアナ諸島からの出撃を機に都市圏への焼夷弾による無差別爆撃に舵をきっていたことになる。


 1944年11月1日にB-29の偵察型F-13のトウキョウローズがドーリットル以来東京上空を飛行した。日本軍は帝都初侵入のB-29を撃墜してアメリカ軍の出鼻をくじこうと陸海軍の戦闘機多数を出撃させたが、高度10,000m以上で飛行していたので、日本軍の迎撃機はトウキョウローズを捉えることができなかった。なかには接敵に成功した日本軍機もあり、40分以上もかけてようやく高度11,400mに達しトウキョウローズを目視したが、トウキョウローズはさらにその上空を飛行しており攻撃することはできず、ゆうゆうと海上に離脱していった。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨーなど合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した。これらの機が撮影した7,000枚もの偵察写真がのちの東京空襲の貴重な資料となった。この後もF-13は東京初空襲まで17回に渡って偵察活動を行ったが、日本軍が撃墜できたF-13はわずか1機に過ぎなかった。この夜に日本軍は、対連合軍兵士向けのプロパンガンダ放送「ゼロ・アワー」で女性アナウンサー東京ローズに「東京に最初の爆弾が落とされると、6時間後にはサイパンのアメリカ人は一人も生きていないでしょう」という警告を行わせているが、B-29の東京侵入を防ぐことが不可能なのは明らかとなった。


 11月11日に予定していた東京初空襲は天候に恵まれず延期が続いていたが、11月24日にようやく天候が回復したため、111機のB-29がそれぞれ2.5トンの爆弾を搭載して出撃した。主要目標は中島飛行機の武蔵製作所であった。作戦名は「サン・アントニオ1号作戦」と名付けられた。1号機の「ドーントレス・ドッティ」には第73爆撃航空団司令のエメット・オドネル准将が乗り込んで、機長を押しのけて自ら操縦桿を握った。東京上空はひどい天候であったが、特にB-29の操縦員を驚かせたのが、高高度を飛行中に120ノット(220㎞/h)で吹き荒れていた強風であった。これはのちにジェット気流であることが判明したが、その強風にのったB-29は対地速度が720㎞/hにもなり、目標に到達できなかったり、故障で爆撃を断念する機が続出した。このジェット気流はこのあともB-29を悩ませることになった。出撃したB-29の111機のうち、主要目標の武蔵製作所に達したのはわずか24機であり、ノルデン爆撃照準器を使って工場施設に限定精密照準爆撃を行なったが、投下した爆弾が目標から大きく外れるなどした結果、命中率は2%程度で、主要目標の工場施設の損害は軽微であった。

 主要目標に達することができなかった64機は2次目標であった港湾及び東京市街地へ爆弾を投弾したが、うち35機が雲の上からのレーダー爆撃で正確性を欠き、被害は少なく、死者57人と負傷者75人が生じた。


 東部軍司令部には、小笠原諸島に設置されたレーダーや対空監視所から続々と大編隊接近の情報が寄せられたため、明らかに東京空襲を意図していると判断、隷下の第10飛行師団に迎撃を命じ、正午に空襲警報を発令した。迎撃には陸軍航空隊のほか、第三〇二海軍航空隊も加わり、鍾馗、零戦、飛燕、屠龍、月光といった多種多様な100機以上が、途中で17機が引き返し94機となったB-29に襲い掛かったが、B-29は9,150mの高高度で進行してきたため、日本軍機や高射砲弾の多くがその高度までは達せず、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外の日本軍の反撃の低調さに胸をなでおろしている。それでも日本軍は震天制空隊の見田義雄伍長の鍾馗の体当たりにより撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果と未帰還6機を報じたが、アメリカ側の記録によれば体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としている。


 1944年11月29日深夜から30日未明にかけて、第73爆撃航空団所属29機が初めて東京市街地へ夜間爆撃を行った。名目上は東京工業地帯が目標とされたが、実際は「サン・アントニオ1号作戦」や11月27日に行われた「サン・アントニオ2号作戦」と異なり、航空機工場などの特定の施設を目標としない東京の市街地への無差別焼夷弾攻撃であり、のちの東京への大規模焼夷弾攻撃に通じるものであった。作戦名は「ブルックリン1号作戦」と名付けられ、B-29は11月29日22時30分から11月30日5時50分にかけて数次の波状攻撃で神田区や日本橋区を爆撃し、火災は夜明けまで続いた。10,000mからの高高度爆撃ながら、この日の東京は雨が降っており雲の上からのレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害は、死者32人、家屋2,952戸と限定的であったが、日本軍も雨天によりまともな迎撃ができず、B-29の損失は、ハロルド・M・ハンセン少佐指揮の機体番号42-65218機のみであった。


 その後も12月3日の「サン・アントニオ3号作戦」で主要目標の武蔵製作所を爆撃できなかったB-29が、杉並区、板橋区などの市街地に爆弾を投弾し死者184人が生じたが、このように主要目標は航空機工場などの軍事目標としながら、主要目標に爆撃できなかったB-29による市街地への爆撃が恒常化し、1944年の年末までに東京市街地へは10回の空襲があったが、心理的効果はあったものの実質的な効果は少なかった。一方で東京以外での航空機工場に対する高高度精密爆撃は効果を挙げつつあり、12月13日のB-29の75機による名古屋の三菱発動機工場に対する空襲(メンフィス1号作戦)は8,000mから9,800mの高高度からの精密爆撃であったが[46]、投下した爆弾の16%は目標の300m以内に命中、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下した。12月18日にも再度ハンセルは名古屋爆撃を命じたが、今回の目標は三菱の飛行機組み立て工場であった。63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため、前回と同じ8,000mから9,850mの高高度からレーダー爆撃を行ったが、爆撃精度は高く、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれた。この2日間のB-29の損失は合わせて8機であった。


 ハンセルによる高高度精密爆撃がようやく成果を上げていたころ、この2回目の名古屋空襲と同じ1944年12月18日に、第20爆撃集団司令官カーチス・ルメイ准将は、焼夷弾を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験として、日本軍占領下の中国漢口市街地に対して中国成都基地を出撃した84機のB-29に500トンもの焼夷弾を投下を命じた(漢口大空襲)。漢口はその後3日にわたって燃え続けて市街の50%を灰にして、漢口の中国人住民約20,000人が死亡した。この爆撃により、市街地への無差別爆撃の有効性が証明されて、ルメイは自信をつけ、上官のアーノルドはルメイを高く評価することとなった。


 漢口で焼夷弾による無差別爆撃の効果が大きいと判断した第20空軍は、参謀長ローリス・ノースタッド准将を通じてハンセルに名古屋市街への全面的な焼夷弾による無差別爆撃を指示した。ハンセルは市街地への無差別焼夷弾爆撃の効果に懐疑的であり、アーノルドに対して「我々の任務は、主要な軍事、工業目標に対して精密爆撃を行うことで、市街地への焼夷弾攻撃は承服しがたい」と手紙を書いて直接抗議したが、アーノルドはノースタッドを通じて、焼夷弾による無差別爆撃はあくまでも実験であり「将来の計画の必要性から出た特別の要求に過ぎない」と説いて、ハンセルは納得しないままで、翌1945年1月3日に、アーノルドの命令通りに名古屋の市街地への実験的な焼夷弾攻撃を97機のB-29により行ったが、死者70人、負傷者346人、被害戸数3,588戸と被害は限定的であり、日本側には空襲恐れるに足らずという安心感が広まることになった。


 年も押し迫った1944年12月27日にハンセルは今年1年の総括を「その結果は頼もしいものであるが。我々が求めている標準には遠く及ばない」「我々はまだ初期の実験段階にある。我々は学ぶべきことの多くを、解決すべき多くの作戦的、技術的問題を抱えている。しかし、我々の実験のいくつかは、満足とまではいかないとしても、喜ばしい結果を得ており、B-29は偉大な戦争兵器であることを立証した」と報道関係者に発表したが、この見解はアーノルドを失望させた。アーノルドはすでにB-29は実験段階を終えて戦争兵器としての価値を確立しており、それはルメイの第20爆撃集団が証明しつつあると考えていたので、ハンセルの見解とは全く異なっていた。また、アーノルドはかつて「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」とハンセルを叱責したこともあった。18万ドルのB-17に対して、B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であったのにも関わらず、挙げた成果に見合わない大きな損害を被ったハンセルに対する不信感もあって、前々から検討してきた通りにハンセルを更迭しルメイにB-29を任せることにしている。


 1945年元旦、アーノルドは、ハンセルに更迭を伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナに派遣し、また指揮権移譲の打ち合わせのためルメイもマリアナに飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍の参謀長をハンセルから引き継いでおり、2人は個人的にも親しかった。またルメイはヨーロッパ戦線でハンセルの部下として働いたこともあった。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日に手短な打ち合わせを行って、ルメイは一旦インドに帰った。1945年1月20日、ハンセルを更迭し、その後任に中国でB-29を運用してきたルメイを任命する正式な辞令が発令された。第20爆撃集団はルメイ離任後にはクアラルンプールに司令部を移して、日本本土爆撃を中止し、小規模な爆撃を東南アジアの日本軍基地に継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団がマリアナに合流している。


 戦後ハンセルは「もし自分が指揮を執り続けていたら大規模な地域爆撃(無差別爆撃)を行わなかっただろう。自分の罷免は精密爆撃から地域爆撃への政策転換の結果である」と語っているが、実際はハンセルの任期中でも、あくまでも主目標は航空機工場などの軍事的目標としながら、東京の市街地へも焼夷弾攻撃を行ったり、アーノルドからの圧力とはいえ、市街地への無差別爆撃の準備を進め実験的に実行していた。


 1945年1月27日、B-29は中島飛行機武蔵製作所を爆撃するため76機が出撃したが(エンキンドル3号作戦)、うち56機が第2次目標の東京市街地である有楽町・銀座地区を爆撃した。この空襲はのちに「銀座空襲」と呼ばれたが、被害は広範囲に及び有楽町駅は民間人の遺体で溢れるなど、死者539人、負傷者1,064人、全半壊家屋823戸、全半焼家屋418戸、罹災者4,400人と今までで最大の被害が生じた。日本軍も激烈に迎撃し、B-29撃墜22機を報じ、12機の戦闘機を失った。アメリカ軍の記録ではB-29の損失は9機であった。


 1945年2月25日、当日に行われる予定のアメリカ海軍高速空母部隊の艦載機による爆撃と連携して、B-29は中島飛行機武蔵製作所を高高度精密爆撃する計画であったが、気象予報では日本の本州全域が雲に覆われており、目視での精密爆撃は無理と判断されたため、急遽、爆撃目標を武蔵製作所から東京の市街地へと改められた。進路も侵入高度もそのまま武蔵野製作所爆撃のものを踏襲したが、使用弾種の9割に焼夷弾が導入された。「エンキンドル3号作戦」と異なる点は、最初からB-29全機が東京の市街地を目標として焼夷弾攻撃を行うことであった。


 作戦名はミーティングハウス1号(Meetinghouse)とされたが、このミーティングハウスというのは、東京の市街地のうちで標的区画「焼夷地区」として指定した地域の暗号名で、1号というのはその目標に対する1回目の攻撃を意味していた。ミーティングハウス1号作戦では、それまでで最多の229機が出撃し、神田駅を中心に広範囲を焼失させて、神田区、本所区、四谷区、赤坂区、日本橋区、向島区、牛込区、足立区、麹町区、本郷区、荒川区、江戸川区、渋谷区、板橋区、葛飾区、城東区、深川区、豊島区、滝野川区、浅草区、下谷区、杉並区、淀橋区空襲、死者195人、負傷者432人、被害家屋20,681戸と人的被害は「銀座空襲」より少なかったが、火災による家屋の損害は大きかった。宮城も主馬寮厩仕合宿所が焼夷弾によって焼失し、局、大宮御所、秩父宮御殿などが被害にあった。


 ミーティングハウス1号作戦は、天候による目標の急遽変更によるもので、攻撃方法も、この後の低空からの市街地への無差別焼夷弾攻撃とは全く異なるものであり、直接の関連はなく、この日に出撃したB-29の搭乗員らにも特別な説明もなく、あくまでも、これまでの出撃の延長線のような認識であった。作戦中は常に悪天候であり、また急遽作戦目標を変更したこともあってか、B-29は編隊をまともに組むことができず、17機の編隊で整然と爆撃した部隊もあれば、まったく単機で突入した機もある始末で全く統制がとれていなかったので成果は期待外れであったが、結果的には、3月10日から開始される市街地への大規模な無差別焼夷弾爆撃の予告となるような作戦となった。悪天候とB-29の統制が取れていなかった分、日本軍の迎撃も分散してしまい、この日のB-29の損失は空中衝突による2機のみであった。雲上からの空襲で多くの家屋が焼失したのに対してまともな迎撃ができなかった日本軍は、東京都民の間に沸き起こりつつあった「軍防空頼むに足らず」という感情を抑え込むために、特に悪天候時にも迎撃機が出動できるようレーダーの強化を図る必要性に迫られた。


 1945年2月26日から28日までの時期のB-29による東京空襲は、昼間に8000メートル程度の高高度を編隊で飛びながらノルデン爆撃照準器による目視照準を主用し、悪天候時には雲より高空からレーダー照準を活用する精密爆撃を意図したものだった。工場などが目標のため、使用弾種も焼夷弾ではなく通常爆弾が中心だった。攻撃隊は東京西部からジェット気流に従って侵入し爆撃を行うのが通例で、悪天候で攻撃目標を捉えられない場合にはそのまま東進して市街地を爆撃することがあった。


 1945年1月20日に着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃はアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンであり、前任者ハンセルの方針を踏襲していたが、工場に対する高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に1月23日の名古屋の三菱発動機工場への爆撃(エラディケート3号作戦)と1月27日に行った中島飛行機武蔵製作所への爆撃(エンキンドル3号作戦)で合計11機のB-29を失うという惨めな結果に終わった。1945年2月までにアメリカ軍は、中国からの出撃で80機、マリアナ諸島からの出撃で78機、合計158機のB-29を失っており、ルメイはあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナに派遣してルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した。


 アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度9,000m前後の高高度から3,000m以下に下げることにした。高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと考えたからである。そして、爆撃高度を下げることによる下記の利点が想定された。

 ジェット気流の影響を受けないこと。

 エンジン負荷軽減で燃料を節約し多くの爆弾を積めること。

 爆撃の精度が格段に向上すること。アメリカ軍は弾道学に基づいて精密に計算して作成したデーターブックを使用していたが、高高度爆撃ではジェット気流の影響もあって何の役にも立っておらず、精密爆撃の精度を低下させる最大要因となっていた高高度爆撃では好天を待たなければならなかったが、爆撃高度を下げれば雲の下を飛行すればよく、出撃日を増加できることができた。ルメイの分析を後押しするように、アメリカ軍の情報部は、今までの日本本土への空襲を検証して、1,500m以上では日本軍の高射機関砲は殆ど効果がなく、高射砲は3,000m以下の高度はレーダー照準による命中率が大幅に低下していることを突き止め、爆撃高度は1,500mから2,400mの間がもっとも効果が高いと分析した。


 しかし低空では日本軍戦闘機による迎撃が強化されるので夜間爆撃とした。夜間戦闘機が充実していたドイツ軍と比較して、ルメイは日本軍の夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず、B-29尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やすことにした。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載を今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、編隊は防御重視のコンバット・ボックスではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高いパスファインダーの爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するというトレイル(単縦陣)に変更した。


「ミーティングハウス2号作戦」と呼ばれた1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、前述の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。 アメリカ軍がミーティングハウス2号作戦の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためである。ルメイは出撃に先立って部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示している。このルメイの訓示に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「何でもいいから低く飛ぶんだ」と恫喝している。搭乗員の中では、このような自殺的な作戦では、空襲部隊の75%を失うと強硬に反対した幕僚に対してルメイが「それ以上に補充要員を呼び寄せれば済むことではないか」と言い放ったという真偽不明の噂も広がり、出撃前の搭乗員の不安はピークに達していた。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の3個爆撃航空団で、325機のB-29爆撃機が出撃した。ルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗し空中指揮することも考えたが、このときルメイは原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画の概要を聞いており、撃墜され捕虜となって尋問されるリスクを考えて、自分がもっとも信頼していた トーマス・パワー准将を代わりに出撃させることとした。


 本隊に先行して、第73、第313編隊から先行した4機のB-29が房総海岸近くの海上で1時間半にも渡って旋回しながら日本本土に接近している本隊を無線誘導した。この日は非常に強い風が吹き荒れており、日本軍の監視レーダー超短波警戒機乙は強風により殆ど正常に機能しておらず、強風による破損を恐れて取り外しも検討していたほどであった。レーダーは役に立っていなかったが、防空監視哨が勝浦市南方で敵味方不明機(無線誘導のために旋回していたB-29)を発見し、日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令したが、やがて敵味方不明機が房総半島沖に退去したので、警戒警報を解除してしまった。しかし、その間に本隊は着々と東京に接近しており、9日の24時ちょうどに房総半島最西端の洲崎対空監視哨がB-29らしき爆音を聴取したと報告、その報告を受けた第12方面軍 (日本軍)が情報を検討中の、日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始された。325機の出撃機のうち279機が第一目標の東京市街地への爆撃に成功し、0時7分に


 第一目標 - 深川区(現在の江東区)

 第二目標 - 本所区(現在の墨田区)

 第三目標 - 浅草区(現在の台東区)

 第四目標 - 日本橋区(現在の中央区)

 

 へ初弾が投下されたのを皮切りに、城東区(現在の江東区)にも爆撃が開始された。空襲警報は遅れて発令され、初弾投下8分後の0時15分となった。日本軍と同様に多くの東京都民も虚を突かれた形となり、作家の海野十三は3月10日の日記に「この敵、房総に入らんとして入らず、旋回などして1時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいった」と書いているなど、床に就いたのちにB-29の爆音で慌てて飛び起きたという都民も多かったという。


 出撃各機は武装を撤去して焼夷弾を大量に搭載したこともあり、この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1,665トンにも上ったがその全部が焼夷弾であった。また、「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾を投弾、その閃光は攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。パス・ファインダー機はこの日のために、3月3日、5日、7日に戦闘任務に出撃して訓練を繰り返して腕を磨いていた。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれた領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃に比べて高いものだったが、アメリカ軍の想定以上の大火災が生じ、濃い火災の煙が目標上空を覆ってしまい、爆撃を開始してしばらく経ったころには秩序ある投弾というのは机上の空論に過ぎなくなってしまった。


 0時20分には芝区(現在の港区)に対する爆撃も開始された。この他、下谷区、足立区、神田区、麹町区、日本橋区、本郷区、荒川区、向島区、牛込区、小石川区、京橋区、麻布区、赤坂区、葛飾区、滝野川区、世田谷区、豊島区、渋谷区、板橋区、江戸川区、深川区、大森区が被害にあった。災難の中で昭和天皇の初孫の東久邇信彦が防空壕で誕生した日でもあった。


 一部では爆撃と並行して旋回機関銃による非戦闘員、民間人に対する機銃掃射も行われた。日本側資料では「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、中心に包囲された市民を焼き殺した」と証言するものがあるが、そのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できない。アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東側から順に攻撃する指示が出されていた。体験者の印象による誤解と考えられる。発生した大火災によりB-29の搭乗員は真夜中にも関わらず、腕時計の針を読むことができたぐらいであった。B-29が爆撃区域に入ると、真っ昼間のように明るかったが、火の海の上空に達すると、陰鬱なオレンジ色の輝きに変わったという。他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は関東大震災のさいにも発生した火災旋風が大規模に発生したためであったが、爆撃していたB-29も火災旋風による乱気流に巻き込まれた。荒れ狂う気流の中で機体の安定を保つのは至難の業で、気が付くと高度が1,500m以上も上がっていた。

 なかには機体が一回転した機もあり、搭乗員は全員負傷し、顔面を痛打して前歯を欠いたものもいた。あまりに機体が上下するので、着用していた防弾服で顔面を何度もたたかれ、最後には全員が防弾服を脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている。そして、人が燃える臭いはB-29の中にも充満しており、搭乗員は息が詰まる思いであった。


 誘導機に搭乗したパワーは「まるで大草原の野火のように燃え広がっている。地上砲火は散発的。戦闘機の反撃なし。」と実況報告している。空襲時の東京を一定時間ごとに空からスケッチするため高度1万メートルに留まっていたB-29に対して、ルメイは帰還後にそのスケッチを満足げに受け取ると「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ」と語った。


 勇の話を聞き終えた佳織は涙を溢れさせた。

「そこまで詳しいんだもの、嘘じゃないわ」

 勇は腕時計に向かって呪文を唱えた。

「ラーメブンラーメブン」

 

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