第2話 1974年1月

 1月 - 日本短波放送(現日経ラジオ社)のBCL番組「ハロージーガム」放送開始、BCLブームが始まる。


 夕凪ゆうなぎ銀行が開店まもなく武装強盗団に襲撃された。警察に包囲されて立て籠もる銀行強盗団。強盗団のリーダーの沖田裕二おきたゆうじは、強盗人質事件で犯人と共に人質を死なせ、謹慎処分で休職中の刑事、西川洋介にしかわようすけを交渉人に指名してくる。


 上官の加藤さやか警部は、西川に大学出の新人の有森美夜子ありもりみやこを相棒として組ませ、夕凪銀行の現場に指揮官として西川を送り出す。やがて犯人の沖田から西川へ電話がかかってくる。早速交渉を始めるも、沖田からは明日の日の出まで待てとの指示が来る。11時15分に突入の決断をした西川であったが、突入直前に武装グループの罠に気付いた西川は、突入の中止を指示。


 事件解決を急いだ機動隊は中止命令を聞かずに突入するが、同時に銀行内で大規模な爆発が起こり、機動隊チームも巻き込んでしまう。爆発が鎮まり銀行内を捜索するも、犯人グループの姿はどこにも見られなかった…。

 

 1月15日 - 西沙諸島の戦い。

 南シナ海上の西沙諸島は、第一次インドシナ戦争後、中華人民共和国と南ベトナムが領有権を主張して領土問題を生じていた。中国が西沙諸島の東部を、ベトナム共和国(以下、南ベトナム)が珊瑚島等の西部(永楽群島)を実効支配していた。1971年には中国軍が西沙諸島に艦隊を派遣し、多数の施設の建築を行って軍事的緊張が高まったことがあった。


 1974年当時の南ベトナムはベトナム戦争末期の追いつめられた状況にあった。前年のパリ協定に基づきアメリカ軍は南ベトナムから全面撤退し、わずかな軍事顧問が残る程度になっていた。南ベトナム海軍は、アメリカから供与された旧式艦を主体とし、護衛駆逐艦など比較的に大型の艦艇は保有していたが、実戦経験は乏しく練度も高いとは言い難かった。


 対する中国側も文化大革命の混乱期ではあったものの、海軍の近代化が進みつつあった。中国海軍の主力艦艇はソビエト連邦から供与された駆逐艦や潜水艦であったが、1960年代後半から上海型哨戒艇などの小型艦艇の国産化を実現していた。うち、西沙諸島を担当する部隊は、湛江市に司令部を置く南海艦隊であった。また、西沙諸島はベトナム本土よりも中国本土に近く、中国側航空部隊の作戦圏内に収まっていた。


 1974年1月11日、中国政府は、西沙諸島が自国領土であることを改めて主張する声明を発表した。この発表の意図は、前年9月に南ベトナム政府が、同じく中国と係争中の南沙諸島についてフートイ省へ編入する旨を発表したことに応じて、対抗措置を講じることにあった。従来からの中国政府の主張を確認するものではあったが、島嶼そのものだけでなく周辺海域の支配権にまで言及した点で新しく、大陸棚資源を確保しようという戦略的な狙いが明らかにされていた。


 1月15日、南ベトナム海軍の哨戒艦リ・トン・キェトが、西沙諸島を哨戒に訪れた。すると永楽群島の甘泉島(ロバーツ島)に中国国旗が掲揚されており、沖に中国の大型漁船402号と407号が碇泊しているのを発見した。リ・トン・キェトは中国漁船に退去を命じ、陸上の中国国旗を狙って威嚇射撃を行った。


 1月17日、中国と南ベトナム双方は増援部隊を現地に派遣した。南ベトナム軍は、護衛駆逐艦チェン・チン・ユーと哨戒艦チェン・ピン・チョンに歩兵を乗せて派遣、甘泉島と金銀島に展開させた。中国軍も、楡林基地第38002部隊副司令員の魏鳴森を指揮官として、第73駆潜艇大隊(大隊長:王克強)の海南型駆潜艇271号、274号に歩兵1個小隊ずつを乗せて送り、普卿島(ドイモン島)・深航島(ダンカン島)・広金島(パーム島)を占領、ほかにも艦艇や航空機を出動させた。


 1月18日、南ベトナムは哨戒艇ヌータオを増派し、永楽島付近を警戒させた。中国側は第74駆潜艇大隊の駆潜艇281号、282号と輸送任務の掃海艇389号、396号(陸兵と輸送物件を搭載)を加えて、駆潜艇4隻・掃海艇2隻(実質はいずれも高速砲艇)の態勢となっていた。中国側漁船2隻も依然として周辺海域にとどまっており、南ベトナム艦艇と体当たりを繰り返していた。

 1974年1月19日午前7時40分、南ベトナム軍40人が広金島に上陸を開始し、同島の中国軍と銃撃戦となった。第73駆潜艇大隊と掃海艇2隻の中国艦隊も駆け付け、午前8時頃から両軍艦艇がお互いに進路妨害や体当りを始めた。


 午前10時22分、南ベトナム艦隊が発砲し、ついに本格的な交戦状態となった。南ベトナム艦隊はチェン・チン・ユーとチェン・ピン・チョンが隊列を組み、他の2艦はバラバラで行動した。ヌータオと中国側掃海艇2隻は激しい接近戦となり、ヌータオと中国掃海艇「389号」がいずれも浸水・炎上した。1時間足らずの交戦で南ベトナム艦隊は次々と損傷し、バラバラに戦場離脱を図った。中国側は12時過ぎに第74駆潜艇大隊の2隻も増援として到着し、ベトナム艦を追撃した。低速のヌータオは逃げ切れず、優速な中国艦隊の集中攻撃を浴び、午後2時52分に西沙諸島西部海域で沈没した。


 午後1時30分、永楽島に3個歩兵中隊・1個偵察中隊の中国軍部隊が上陸して占領した。この際、中国艦隊とベトナム艦「キーリン」(漢字表記:麒麟)の間でも交戦があった。翌1月20日には、金銀島など3島にも中国軍が上陸し、航空機の援護の下で占領した。地上戦で南ベトナム軍は約100人が死傷した。

 

 1月15日 - 長崎県高島町(現長崎市)の端島(軍艦島)が炭鉱閉鎖。以降4月末までに島民全員が島を離れ無人島に。

 沖田たちは軍艦島にやって来ていた。西川たちが駆けつける数分前に瞬間移動を使ったのだった。

 長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置にある。旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島(の南端)からは南西に約2.5キロメートルの距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れている。端島と高島の間には中ノ島という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していた。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。


 端島は本来は、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな瀬であった。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張した。その大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルで、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われている。面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1,200メートル。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。


 年間平均気温は15 - 16℃。平均降水量は2,000ミリメートル、冬は比較的雨量が多い。夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い(いずれも旧高島町についてのもの)。

 端島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れているが、この島には植物がとても少なく、住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かった。また、主婦には生け花が人気であったという。

 沖田たちは雨に打たれていた。寒さが半端ない。

 強盗団のメンバーは沖田の他に鈴木響子すずききょうこ大竹博之おおたけひろゆき高崎杜夫たかさきもりおがいた。

 高崎は軍艦島の歴史について詳しかった。


 端島炭坑の歴史区分は大まかに、第一期・原始的採炭期(1810 - 1889年)、第二期・納屋制度期(1890 - 1914年)、第三期・産業報国期(1914 - 1945年)、第四期・復興・近代化期(1945 - 1964年)、第五期・石炭衰退・閉山期(1964 - 1974年)、第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年 - )に分けられる。


 端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている。『天保国絵図』にも「端島」とある。


 端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされる(発見者は不明)が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べている。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようである。


 このように石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで台風による被害のために廃業に追い込まれた。36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑である。


 1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長した(1897年)。この頃には社船「夕顔丸」の就航、製塩・蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年。1935年に廃止)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、島の周囲が段階的に埋め立てられた(1897年から1931年)。


 1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていた。高島同様、端島でも労働争議がたびたび起こった。納屋制度期における軍艦島の生活は以下の通り。端島における納屋制度の廃止は高島よりも遅かったが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となった。


 納屋制度の廃止・三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいることから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てであった。


 RC造の30号棟が完成した1916年までに、まず世帯持ち坑夫の納屋(小納屋)が廃止されたが、1930年の直営合宿所の完成以降には、単身坑夫の納屋(大納屋)も順次廃止され、1941年にはついに端島から納屋制度が全廃される。しかし、代わって登場した三菱の直轄寄宿舎も、劣悪であった。例えば1916年に建設された30号棟は、世帯持ち坑内夫向けの6畳一間の小住居がロの字プランの一面に敷き詰められ、その狭さから建設当初から評判が良くなかった。一方で、後に建設された坑外夫向けの16号 - 20号棟は、6畳+4.5畳というやや広めの間取りで、端島における坑内夫と坑外夫の差別がそのままRC化されていた。


 端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。それを支える労働者のための福利厚生も急速に整えられ、1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、既に相当なレベルで整備されていた。一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」との言葉がある。


 1916年(大正5年)以降から少年および婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始される[29]。1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始された。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたという。戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の華人労務者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定した。


 1939年には坑内でガス爆発事故が発生し、死傷者34名を出した。

 戦時中の1941年から始まった「産業報国戦士運動」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭(端島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2,062トンを出炭した。この時期の端島の生活は極めて劣悪で、高浜村端島支所に残された1939年 - 1945年の『火葬認可証下付申請書』によると、この時期の端島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人であり、朝鮮人や中国人だけでなく日本人も相当な人数が死んでいる。死因は主に爆焼死・圧死・窒息死などで、1940年の端島の推定人口が3,333人なので、住人の40%近くが死んでいる計算になる。


 1945年(昭和20年)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈したが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になった。1945年には高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没する。1945年(昭和20年)に完成した65号棟(報国寮)北棟の防空用偽装塗装にこの時期の記憶が残る。

 

 終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や生活に困窮した労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減するが(なお、1945年当時の端島の人口データは、終戦の混乱期ということもあり、国勢調査のデータで1,656人、高島町端島支所のデータで4,022人と大きな乖離があり、あまりあてにならない)、1945年10月の石炭生産緊急対策要綱による復興資金の供給、さらに1948年にGHQによって輸入砂糖の出炭奨励特配が行われ、また復員者の帰還によって1948年以降には逆に人口が急激に増加する。同時に住宅不足が深刻化する。


 この時期には設備の近代化と同時に、労使関係の近代化が行われた。1946年には端島炭鉱労働組合が結成され、組合闘争の結果として賃金が上がり、ますます転入者が増えた。賃金の上昇と同時に炭坑の稼働率は下がり、余暇が増えた。遊び場にブランコも設置され、住みやすくなった。特に1955年の海底水道開通で、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど生活環境は劇的に改善した。島内には3つの共同浴場が存在し、職員風呂と坑員風呂の区別があったが、これも労働組合結成直後に起こった差別撤廃闘争で解消するなど、戦前からあった職員と坑員の差別は戦後から閉山期にかけて段階的に解消されていった。


 しかし、住宅問題は労使のタブーであり、会社の職員に上層の広い部屋があてがわれ、一般の坑員に中層のやや狭い部屋があてがわれ、下請け労働者に下層のとても狭い部屋があてがわれる、と言う区分は労働組合に黙認された。住宅規模は住人の家族数にはあまり考慮が払われておらず、勤続年数や職階など住人のランクに応じたものがあてがわれており、住宅に関しては歴然とした階級社会であった。海が荒れると潮が建物を乗り越えて上から降る「塩降街」の狭い坑員合宿で単身坑夫らが共同生活をしている一方で、砿長の自宅(5号棟)は波のかからない高台の一軒家にあり、全ての一般坑員が3つの浴場を共同で利用している一方で、砿長の自宅には個人用の風呂があった(1952年当時の端島における風呂の数は、一般坑員・職員向けの共同風呂が3か所、上級職員・来客向けのクラブハウス(7号棟)の風呂、砿長の自宅の風呂、計5か所)。


 また、会社の立場からは、稼働率の低さ、労働者の流動性の高さ、出炭量の低さが問題となった。労働法の整備などによって、労働者の労働時間が制限されたため、戦時中と比べて人口が急激に増加したにもかかわらず、石炭の生産量は大きくダウンした。「食ったり遊んだりする分しか働かない単身者ではなく、家族持ちを多く採用する」「掛売制の採用(商品の代金を後払いとすることで、代金を払いきるまで半永久的に島外に出られなくする、納屋制度期の手法)」「設備の機械化による合理化」などの対策が提案されたが、労働組合との関係もあり、この時期はあまりうまくいかなかった。


 人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口があり、人口密度は83,600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した。炭鉱施設・住宅のほか、高浜村役場端島支所(1947年 - 1955年)→高島町端島支所(1955年 - )・小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院(外科や分娩設備もあった)・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。

 1951年には坑内でガス突出事故が発生している。


 1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。特に1964年の九片治層坑道の自然発火事件が痛手となり、炭鉱の規模が縮小される。これ以降人口が急速に減少する。しかし端島炭坑は1965年(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発されて一時期に持ち直し、人口は減ったものの機械化・合理化によって生産量も戦時中に迫る水準となった。さらに、空き部屋となった2戸を1戸に改造するなどして、住宅事情は劇的に改善した。

 しかし、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、1970年に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表。その後数百万トンの石炭を残したまま1974年(昭和49年)1月15日に閉山した。

 沖田たちは報酬を「昭和館」の中に隠した。


 1月26日 - セキグチが「モンチッチ人形」を発売。

 未来から明智勇がやって来る。

 勇は父親からR星人について教わったことを思い出した。アール彗星というところからやって来た宇宙人だ。巨大なカニの甲羅のような頭部と、カニのハサミみたいな2本の腕、カニの腹に似た胴体、鋭い爪のついた2本の足という姿をしているらしい。

 その正体は怪人20面相だ。


 翌日、大竹から誘いを受け、軍艦島に訪れることになった勇。

 勇は飛空の魔法を操ることが出来た。

 歳月は流れ、老朽化した軍艦島と40代になった2人に、かつての古きよき面影は残っていなかった。そして自慢の推理も衰えた勇を嘲笑うかのように、殺人事件が2人に襲いかかる。

 沖田が軍艦島内にある湖より水死体となって発見された。数日前に沖田が立ち寄り先に鈴木響子を残したまま、別の車に乗った後に行方不明となっていたことや、遺体がビニールひもで縛られていたことなど、不審な点もあったが、勇はこれを自殺として処理した。

 判断の理由は、沖田が特に争うこともなく、自ら他の車に乗り込んだこと、ひもが沖田自身でも縛ることが可能な状態であったこと、遺体には頸部の索条痕以外に目立った外傷が無く、解剖及び検死により、死因が湖の水による溺死であると推定されること、などによる。

 大竹は、「それにしても驚いたな?この島には湖などなかったが、突然現れた」と勇の顔を見て言った。全ては勇がタイムスリップして来たことにあった。


 1月28日

 西川洋介は恐怖に震えていた。

 夕凪町で凄惨な事件が起きた。消火器商の親戚によって一家4人と、以前に消火器商のもとでアルバイト勤務していた大竹という国鉄職員の男性が殺害されているのが発見されたが、その現場は凄惨を極めていた。特に社長の高崎杜夫(51歳)は頭を鈍器で殴られ致命傷を受けていたうえに、首をビニール紐で縛りつける念の入りようであった。最初、西川は一家心中を疑っていたが、タンスの中身が全てぶちまけられている様子から、複数による物取りもしくは怨恨の犯行であるとして捜査した。室内にあった犯人の脱ぎ捨てた衣類から身元が判明し、消火器商で以前セールスマンとして働いていた石井謙一いしいけんいち(当時36歳)と、知り合いのとび職の松山実まつやまみのる(39歳)が逮捕された。


 石井は、高崎に父親の得意先を横取りされたとの恨みを26年間も持ち続けていたと供述。境遇がよく似ていた松山と意気投合し、石井がリードする形で励ましあいながら、殺害に5時間、物色に8時間かけたという。いわば怨恨と物取りが渾然一体になった犯行であった。

 

 1月31日 - シンガポールに勇は旅行にでかけた。

 勇はシンガポールには結構詳しかった。

 1400年頃 現在のシンガポール領域にマラッカ王国建国。パレメスラワが王となる。

 1511年 マラッカがポルトガルに占領され、マラッカ王国が滅亡。マラッカ王国の王はマレー半島のジョホールに移動、ジョホール王国建国。それに伴いジョホール王国により、現在のシンガポール領域は支配される。

 1819年 イギリス人のトーマス・ラッフルズがシンガポール上陸。ジョホール王国の許可を得て商館建設。

 1824年 正式にイギリスの植民地となる。

 1832年 海峡植民地の首都に定められる。

 1942年 シンガポールの戦いを経て、1945年まで日本軍による占領。

 1959年 イギリスより自治権の獲得。シンガポール自治州となる。

 1963年 マレーシア独立。その1州として参加。

 1965年 マレーシアより分離。シンガポール共和国として独立。


 東南アジアのほぼ中心、赤道直下の北緯1度17分、東経103度51分に位置する。北のマレー半島(マレーシア)とはジョホール海峡で隔てられており、マレーシアとは経済交流も盛んである。シンガポール・チャンギ国際空港は島の東端に位置する。シンガポール島の南に隣接するセントーサ島は、リゾート地としての開発が進んでいる。


 63の島からなり、最大の島はシンガポール島(東西42km、南北23km)である。国土の最高地点はシンガポール島にあるブキッ・ティマ(163m)。シンガポール島には沖積平野が広がる。他の島はいずれも小さく、44の島は面積が1平方kmを下回る。国土面積は世界175位で、東京23区とほぼ同じ広さである。人口密度はモナコ公国に次いで世界第2位である。


 以前はシンガポール川沿いには倉庫が立ち並び、アジア各地を往来する無数の貿易船が停泊する貿易港として繁栄するも、やがて放棄され時代の名残となっていった。現在は多くの地域がレストラン街やオフィス街に改装されており、観光客だけではなく、地元民も多く立ち寄る地域となっている。 シンガポールには山と呼べる高さの山はないため、川の流れは非常に緩やかで、人々が川で蟹や魚を採る光景をみかけることもあるが、流れが緩やかなこともあり、水質は濁流であまり良くない。ただ夜になると、橋などがライトアップされ、華やかな飲食街の灯りと観光船の光とともに、川の景観を一変させる。

 

 そしてこの日、テロに遭遇した。テロのリーダーは鈴木響子だった。響子たちはロイヤル・ダッチ・シェルの石油タンク爆破。

 ロイヤル・ダッチ・シェル(Royal Dutch Shell plc)は、オランダのハーグに本拠を置くオランダとイギリスの石油会社である。

 第二次世界大戦後から1970年代まで、世界の石油の生産をほぼ独占状態に置いたセブン・シスターズ7社の内の一社であり、ヨーロッパ最大のエネルギーグループである。

 そもそもシェルとロイヤル・ダッチは独立した経営体であった。これらが提携関係となったのは1903年であり、きっかけはAsiatic Petroleum Companyという合弁事業であった。パリ家ロスチャイルドも参加したが、実際の交渉にあたったのはロスチャイルド側のFred Lane と、シェルおよびロイヤル・ダッチ側のHenri Deterding であった。


 シェルの歴史は、ユダヤ人マーカス・サミュエル(後の初代バーステッド子爵)が来日した際に横浜近郊の三浦海岸で見つけた貝があまりにも美しく、拾い集めた貝殻を持って帰国。貝殻細工の製造販売で財をなしてロンドンに開店した小さな骨董品店に始まる。カスピ海から輸入した貝殻が利益を上げ、次第に事業を拡大、世界最初の「タンカー王」となった。また、弟と横浜に開いたサミュエル商会は数回にわたり日本の外債を引き受けた。


 後を継いだ息子たちは、石油事業に進出し、ボルネオ島の油田開発に成功した。 これが大規模なものに成長し、1897年にシェル・トランスポート&トレーディング・カンパニーを設立した。社名は、貝殻を販売していたことと、出資者の家紋がヨーロッパホタテ(ホタテガイに近縁なホタテガイ属の1種)であったことにちなむ。


 トレードマークは当初ムール貝であったが、1904年に現在のマークの原型となるホタテ貝に変更した。ヨーロッパホタテの貝殻をモチーフにしたペクテンマークの起源はここにある。

 

 燃え盛るタンクの前で響子は勇と対峙した。

「沖田を殺したのはこの私なの」

 ずっと石井や松山の犯行だと思っていた。

「あの男は稼ぎを独り占めしようとした」

 響子は勇に銃を向けた。ルパン三世も愛用していたワルサーP38だ。

「ラーメブンラーメブン!」

 ゴォゴォゴォ!渦が姿を現した。🌀

 次はどんな世界に行くのだろうか?

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