第3話 初めての食事会:中華料理店「天人五衰」3/3

翌朝、いつもの時間に目が覚める。すぐにベッドに備え付けられているディスプレイに昨晩の夕食のデータが記録されていない旨が表示されているのを発見してしまう。面倒だが、長期間無視していると当局から通知を受けることがあるので仕方がなく対応する。

「デバイス、夕食の記録。青椒肉絲、ご飯、餃子。ご飯は200グラム程度で茶碗一杯分。青椒肉絲は玉ねぎ半分、牛肉150グラムで部位は不明、他の食材は人参半分とたけのこ。餃子は通常と同等サイズで三個。すべて概算で正確性はバツ、但し油分はかなり多い。以上記録よろしく」

昨晩の料理を思い返しつつ、ざっくりとした記録をしておく。すぐにカロリーオーバーである旨の表示が浮かんでくるがそんなものは重々承知している。美味しかった食事の思い出にしゃしゃり出て来るなよ……最終的には微妙な雰囲気で終わってしまったけど、食事自体は美味しかったのだからセーフさ。

デバイスの横槍にやや気分を悪くしつつもベッドから起き上がる。時刻は6時半。平日と同じ時間だが、二度寝をする趣味はない。すでに夏まっさかりの時期だが、部屋の中は自動で快適な温度・湿度に保たれている。

そのまま寝室を出て洗面所に行く。一瞬迷ったが、寝汗をかいているわけでもないのに昨日の中華の匂いが身体に残っているような気がしてシャワーを浴びる。

男のシャワーなんて一瞬で終わるもので、タオルを首にかけたまま下着一枚でキッチンの冷蔵庫を開ける。今どきにしては珍しく、このマンションには二口コンロや冷蔵庫が備え付けられている。そう、殆どの物件では「どれだけ高性能なプリンターなどのデバイスがついているか」ということが売りになっていて、キッチン家電なんて過去の遺物となってしまっている。

しかし、冷蔵庫の中には野菜も肉もほとんど入っていないことを開ける直前で思い出し、300リットルを超える巨大な冷蔵庫の冷気を感じただけでそのまま締めてしまった。結局キッチンのかごに入れてあるリンゴを朝食代わりにする。

リンゴを持ったままリビングのソファーに腰をおろし、テレビをつける。何やら政治家が問題発言をしたとかなんとかをニュースで大々的に取り上げているが、面白くもなんともない。物知りなコメンテーターが厳重に秘匿された真実を語るように、僕には理解できない論理展開の下、大きな声で批判を行う。人によっては大いなる託宣として、どこかの誰かに対して同じことを吹聴するのだろう。

このまま見ていることに何らの意味もない。音声だけをオフにしてその政治家がなにやら言い訳をしているらしき映像を眺めつつ、一口リンゴをかじる。

使い古したスポンジ。そんな感じだ。


ルーティン。僕の場合、休日の午前中はいつも同じことをしている。速乾素材のタイツ、ハーフパンツ、半袖のTシャツ。その上から濃いグレーのウィンドプルーフパーカーを羽織る。これで上半身はグレー、下半身は真っ黒という出で立ちになる。しかし、いつも使用しているスニーカーはブルーを基礎にライムグリーンの複雑な格子模様が刻まれた少々派手なものなのだ。それのおかげで全体としては地味すぎず、派手すぎずという塩梅だと思う。

さて、走りに行こうとドアノブに手をかける。その瞬間アナウンスが玄関に鳴り響く。

「個人端末を装着して下さい。個人端末を装着して下さい。個人端末なしでの外出は法律上認められておらず、場合によっては罰金がくだされる場合があります」

これと同時に、ドアノブから金属音が鳴りロックされたことが分かる。

苛立ち紛れに舌打ちをしてしまう。誰も見ていないからといってこんな所作は不適切だ。僕は仕方なく靴を履いたまま部屋の中に戻り、リビングテーブルに投げられていたリストバンド型の端末を着用して今度こそドアから出る。


ランニングコースは合計10キロを予定している。便利なもので、個人端末に呼びかければ最適なコースを自動で設定してくれる。以前に調べたところ、交通量や信号の状況などを考慮して適切なものをはじき出す、というアルゴリズムのようだ。

今日は音楽は聞かない。たまには風の音を聞きながらというのも悪くない。しかし、一度走り出すと、余計な思考が働き始めてしまう。昨日の食事風景――特に相葉から言われたことが原因なのは明らかだ(もちろん彼女を責める気はさらさらない)。

すなわち、昨今の食事について。


昔慣れしたんでいた前世紀のSF小説や映画。そんな中に出てきた栄養素だけを考えた完全食、いわゆるレトロフューチャー的なエンジンオイル風味の黒いゼリーとか砂漠の砂を凝縮したような乾パンとか。そういった世界はまだ来ていないし、多分これからもこない。結局のところ、人間は『美味しいものを食べる』という欲求を捨てることなどできないのだ。これも一つの真理。

しかし、食事のはすっかり変わってしまった。その要因の一つとして『個人端末』がまず挙げられる。いまの世界――少なくとも僕にとっての世界、この日本ではということだ――人生のほとんど全てが個人端末に記録されている。睡眠量、運動量……すべてを挙げることは難しいし、反対に記録されていないものもちょっと思いつかない。昨晩のタクシーのように、何かに付けて個人端末の提示やリンクが求められ、これなしでの生活は基本的に想定されていない。個人端末は時計型、ブレスレット型、ベルト型などあらゆる形をとって存在し、各個人で複数個の端末を持つのが普通だ。僕の場合は昨日タクシーでも使用していた画面付きのプレート型のものや時計型、ブレスレット型の三種類を保有しているが、同年代と比べてもかなり少ないと思う。

ここで問題なのは食事についてだ。いわゆる手作りの食事というものはあまりない。その代わりとなっているのは3Dフードプリンターである(もちろんこれは食事だけでなく、建設などあらゆる分野でもプリンターが活躍している)。食べたいものを入力すれば、オートに作ってくれる。出てくるのはゲームでのドット絵のようなものではなく、本当に写真から取り出したような料理だ。もちろん、栄養バランスは完全である。個人端末で認証すれば自動的に栄養バランスなんて保ってくれる。

こんな新しい食概念を勝手に無視する奴は逸脱しているのだ。逸脱すれば当局にも目をつけられる。例えば、健康診断で引っかかったりした上で、プリンターの未使用が発覚すれば強制的に研修を受講させられる。もちろん、あえてそんなことをするメリットはほとんどない。手間を掛けて違反して怒られるなんて最悪の一言がふさわしい。

僕みたいに自分の仕事と一切関係なく飲食や栄養関係の資格を総なめにした上で、手作りの料理にこだわる、なんて偏屈を通りこして異常ともいえるだろう。張さんも似たような偏屈者だが、伝統的な中華料理を守るという強い目的意識のもとにやっている以上、全く異常ではない。

いまや家庭の味というのは、塩分や旨味を調節するメモリ量を意味するに過ぎない。胡椒のホールや月桂樹の葉、色々なスパイス……もはやおとぎ話なのだろう。


そんなことをつらつらと考えていると、もう10キロ近い。こんな風にランニングを始めたのは、人の手で作られた料理を楽しむため。万が一健康診断で異常が出れば、フードプリンター料理を強制されかねない。そのような料理を否定するつもりは全くなく、ただのこだわりというよりも、偏屈で頑固な意地に過ぎない。しかしそれでも身体が持つ限りは続けたいとは思う。

そこで冷蔵庫に何も入っていないことを思い出し、飲み物だけは買って帰ることにした。食材については今どき扱っているお店も多くないので、ネットで注文することにしている。

せっかくなので天人五衰の隣にあるお気に入りのカフェでテイクアウトしよう。巨大なサイズの濃厚アイスコーヒーをちまちまと飲むのも悪くない。

そう思って走るのをやめて、ゆっくりと天人五衰の方へ歩き始める。徒歩で5分もあれば着くだろう。


カフェに入る前に、ちらりと天人五衰の店内を覗き込んで見る。入口横に店内が確認できるような大窓がついているのだ。昨晩、お店にあまり人が入っていないことが気にかかったのだ。

やはり、昨晩と同様に全然人が入っていない。たまたまかもしれないが、少々不安だ。せっかくの美味しい店がなくなるのは非常に困ってしまう。唯一のお客さんは女性のようで、窓ガラス近くのカウンターの席に座っている。

気づいてしまった。そこに座っていたのは相葉だ。彼女は昨日と同じように一心不乱にメニューを覗き込んでおり――ぱっと顔を上げた結果、外にいる僕と目があった。

思わず、僕は手を上げて挨拶をしてしまった。昨晩あんなことを言っていたのに――そんな考えが頭をよぎったが、もう気にしていなかった自分がいた。

愛川は少しだけ気まずそうにこっちを見て笑う。口をパクパクさせて何かを僕に伝えているようだ。

『入りませんか?』

おそらくそう言っているのだと思う。


結局、人間の味覚はそんなに変わらないのかもしれない。の美味しいものからは逃れられない。少なくともいまはまだね。

胡椒のホールや月桂樹の葉、色々なスパイスというおとぎ話。

しかし、ちょっとだけ逸脱し始めたであろう彼女に対して、そんなおとぎ話をしてみるのも悪くない。

少しだけ広角が上がるのを自覚しながら僕は『天人五衰』の扉をくぐる。

相葉アイリさん、

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